卒業、結界、新しい詩

「どうなってるんだ!どうしてここに、『虚無』が入り込んでいる?」
 そうだ、ここは安全なはずだった。僕は途方もない時間をかけて、ここに結界を張ってきたんだ。笑顔と平穏で織り上げたバリアーを。喫茶店なんだ。コーヒーや紅茶の香りで、苛々した気持ちや、嫌な気持ちを打ち払える、そういう場所なのに。

 26歳の僕は、後に大学に入る理由の1つとなった長編小説を書いていた。

 その中で、僕は自分自身の色々な特質、価値観を5つに分解して、登場人物たちに分け与えた。

 1つは「無垢なる者」まだ汚れを知らない、だからこそ弱く、悲しくもある子どもたち。

 1つは「活動家たち」平和と正義を希求し、革命を夢見て、世界を変革しようとする人々。

 1つは「芸術家たち」利益、意義などに還元されないものに価値を見出し、意味を与える人々。

 1つは「観測者」ある特定の価値を優っていると考えるのではなく、相対的に世界を眺める者。

 そしてもう1つは、「何ものでもない者」……なんでもない矮小な一人。けれど、小さな優しさと微笑みだけを持っている者。

 「無垢なる者」は、病気と悪意に苦しんで、世界を呪ってきた自分。

 「活動家たち」は、人種差別にテロリズム、環境破壊に人権侵害といった「問題」に立ち向かっていった自分

 「芸術家たち」は、音楽、美術、小説や詩、表現によって世界を眺め、それと対話しようとする自分

 「観測者」は、それらの活動の中でも抱き続けた違和感に素直な自分 (あるいは、大学での「文化人類学」という学問がここに結びつくかもしれない)

 どれもが強い意志に固められた、強力で強烈なキャラクターたちだった。けれど僕は、「何者でもない者」を主人公に置いた。

 彼はかつて天才的な詩人だった。言葉の力で闇を追い散らすことが出来た。けれど、それを捨ててしまった。うたう誰かを見つけられなかったから。彼は詩の代わりに喫茶店を開いた。そこをコーヒーの香りと平穏で満たした。その場所は結界だった。聖域だった。世界に絶望をした男が最後の一服を求めてやってきた。店を出るときの彼の瞳には小さいが一筋の希望が輝いていた。修復できないと思うような裂け目が出来てしまった友人達、または恋人たちがやってきた。帰る頃には、それがほんの小さなすれ違いだったと笑いあっていた。

 人と人が出会えば、異なるイデオロギーが出会えば、それは互いを傷つけあい、ときには本当に血が流れることもある。彼の喫茶店でもそうだった。争い、苦しみ、涙し、傷つけあう。けれど、ひとかけの優しさが、結局彼らを ――分かり合えないままだとしても―― 微笑ませ、ぎこちないながらも肩を組み、ともに歌い踊らせることが出来た。

 ある一夜の微笑み、小さな幸福の思い出、それは数日もすれば記憶のはずれに放り込まれる。別に印象的でもないほんの一場面。クリーム・ブリュレのカラメルの甘さ。ふいに雲が切れて、ようやく見えた青い海。熱をこめて語り合い、狭い部屋で身を丸めて眠った夜。もう、忘れてしまった。絶望していた男は結局また苦しみに押しつぶされる。友人達や恋人たちも再び言い争いを始める。
 
 無垢な子どもたちは大人の汚さに悲鳴を上げる。活動家たちは、自らの信じる価値のために、時に様々な可能性を踏みつけるし、正義が彼らを盲目にすることがある。芸術家たちは傲慢に語り、他者を傷つけて平然としている。観測者はときに冷徹で、自ら何かを変える力を持たない。

 永遠のすれ違い。立ちはだかる巨大な壁。互いが互いの価値を相手のデータに上書きしようとして繰り広げられる力と言葉のゲーム。主人公の彼は、自らの詩もそうした力の1つだと感じた。1杯のコーヒーは、けれど、争いは変わらないのに、すれ違いは変わらないのに、壁はそのままなのに、そのままであることを許す。何かを伝えるわけではなくても、目の前のその相手に、優しくせずにはいられなくさせる。革命家が資本家に、活動家が権力者に、子供が大人に、聖職者が罪人に、王様が乞食に、そうだ、さっきまで怒りに歪んでいた顔にいつの間にか微笑みが浮かんでいる。「私はあなたに優しくしようと思う」その場所は、結界は、言葉やイデオロギーは変えないまま、けれど感情を変える。思いを変える。

 「私たちは分かり合えない、それでも、なお!」

 それは主人公の彼が生み出したものではない、それぞれの人の内側にともった希望の種火だった。そして、その記憶は忘れ去られ、擦り切れてしまっても、どこかに留まっていて、いつか、君を、救う。主人公の彼は、そのときに思う。これが、僕の新しい詩なんだ。

 大学に入る前、僕はこの物語の登場人物と何度も会話を交わした。5つに分割した自分、君はどんな風に生きたい? 何を一番の価値に置きたい? 僕は迷いながらも「何ものでもない者」を選んだ。何か特別なものを与えなくていい。強烈な思想を抱かなくていい。強く傷つけたり、争いあう必要もない。

 いや、傷つけあっても、争いあっても構わない。けれども、その前に僕は結界を作ろう。微笑みと喜びと優しさで満ちた空気を作ろう。優しさを、尊敬を、理解を ――価値や、勝利や、正義に優先させるように。全ての痛みが、全ての傷痕が美しく愛おしいものに変わるような時間を作ろう。傷つけあった後、共に快復しあうような結界を。殺し合いの、憎しみ合いの、断絶の真ん中に飛び込んでいって、お菓子とコーヒーと馬鹿げた嘘で憎悪をうやむやにして煙に巻いてしまおう。優しくなること。クリストファー・ロビン、あるいは神話のトリックスターたち。

 そうなろうと思った。そうなりたいと思った。そうして、大学での日々を送ってきた。詩も使ったし、コーヒーも使った。僕だけの力では到底足りなかった。それでも、僕の周りには、本当に優しさと微笑みが溢れていた。一つ一つの思い出が、いや、思い出にさえならなかったような、小さな出来事が、いつも結晶のように舞っていて、結界は強固で、虚無なんてひとかけらも通さなかった。

 卒業式のあるスピーチで、友人が僕(ともう一人)が中心に立ち上げたゼミについて触れてくれた。彼が進む道を決める一因となったこと。それが駒場の教養、リベラル・アーツの形に沿うような学問の場所だったこと。僕は幸せで、思い返しては何度も涙ぐんでいる。確かに刺激に満ちた会だった。当然、何よりも参加者たちの素晴らしい力で。でも、僕にとってそれ以上に大事なことは、優しくて幸せな場所だったこと。あの時間を一緒に過ごしたみんなは、いつまでもそれを覚えてくれるだろう。もちろん僕も。

 同じ学科の、クラスの、コースの友人達も、みんなが幸せそうに笑っていた。コーヒーの香りが漂うコース部屋は今日も暖かくて、寂しさの足音は扉の向こうで止まり、いつものように笑い声で満たされていた。別のコースの友人達とも、クラスの仲間たちとも、後輩たちとも、僕はなんだか、ちゃんと「お別れ」したような気がしない。幸せな記憶が積み重なっていて、それは自分の中に留まるように感じるからかもしれない。あるいはやがて、孤独や寂しさが、春にしては冷たい夜に忍び込んでくるかもしれない。けれど、僕たちはきっとそれを恐れない。やがて思い出が忘れ去られて、擦り切れてしまったとしても、優しさの結界はどこかにきっと留まっていて、それは、いつか、君を、救う。

 「さようなら」「また会おうね」「これからもよろしく」それぞれの、色々な言葉が投げかけられる。僕の言葉はこうだ。「もう、君の一部は僕の中に、僕の一部は君の中にいる。そして今度はきっと、僕の結界に触れた君たちが、1つの結界になって、優しさを振りまくだろう」そうだ、これは呪いみたいなもんだ。祝福に見せかけた。伝染病って方が近いかもしれない。ひどくたちの悪い、呪いの魔法。今頃気づいたのか? なんてことだ! 「30歳以上を信じるな」って、君は習わなかったのか!

 僕はそうして、4年前の自分に向けて、あるいは4年後の自分に向けてこう問いかける。

「聞こえるかい? これが、僕の新しい詩だ!」

「苦しいとき、困ったとき、何もかもうまく行かないとき
 ただ私の名前を呼んで
 そうしたら、どこにいても、私は走っていく
 あなたに会いに、すぐに走っていくから」
  ―キャロル・キング "You've got a friend"

 いつか、君が本当に苦しいときに、僕が走っていけたらと思う。
 そして、僕はこれから物語を書こうと思う。
 君たちのその苦しみを和らげるような。
 そして、他の人々の心の中の、優しさの結界となるような。