劇団工『夢見草』感想

「この郵便局には毎日色々なものが訪れる 手紙が、荷物が、親愛が、羨望が、恋情が、嫉妬が、過去が、春が、時には、…夢が」 (劇団工 ホームページより)

あらすじ

 小さな町の郵便局に、今日も多くの人が訪れる。いつも見守ってくれているような、優しい局長さんは、かならず訪れた人の名前を呼んで微笑んでくれる。お茶やコーヒーをごちそうしてくれたり、ちょっと変わっているけど、とても居心地が良い場所。お客さんが長居をしておしゃべりを楽しむこともよくあるみたい。

 毎日のようにやってきて、沢山の人へ手紙を書くおばあさんのみどりさん。先日やってきたやり手の新局員のシライシ、彼にあこがれるキタケさん。他にも常連のお客さんたちがやってきて、なんでもないような話をしては帰っていく。そんな日常の風景を描いた舞台。

 穏やかな場所に、ある日、差出人も、宛先もない一通のハガキが舞い込む。
「わたしの人生には、価値はない」その短い文章が、郵便局に集まる人々の心にさざなみを立てていく。

 夢や恋を追いかけ続ける人々と、夢が見つからなかったり、諦めてしまった人々。その間で、いくつかぶつかりあいや、すれ違いが起きる。郵便局員のシライシは、「夢」や「価値」に囚われ、苛立ちを募らせる。けれど、どこか自分と似て、「価値の無い」人生を歩んでいるように見えるミドリさんが、それでもいつも満ち足りて、微笑んでいるように見える。桜が咲く頃、ミドリさんは亡くなり、また一枚のハガキが残される。「私の人生に価値はない。けれど必死に生きてきた。誰も否定せずに」

 苛立ちや悲しみを抱いていた人々に、ぎこちないけれど、再び微笑みが戻ってくる。局長も、みどりさんとの小さな約束を果たすため、前へ一歩を踏み出そうとして、幕

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「あらゆる小説は人間を描くものであり、この小説という形態(略)が開発されたのは、人間を表現するためであって、けっして教条を説くためでもなければ、唄を歌うためでも、あるいは大英帝国の栄光をたたえるためでもない、ということである」
 ヴァージニア・ウルフ『ベネット氏とブラウン夫人』


 さっきまで騒がしかった郵便局の中が、今では静けさに包まれている。局長とミドリさんは、何を思うでもなく窓の外を見つめている。沈黙はけれど、居心地のいいものだった。
「局長さん、賭けをしない?」ミドリさんの呟きが、ぽつり、ひとりごとのように響く。
「賭け?」彼女がゆっくり振り向く。いつものように、伏し目がちなままで、手元の手紙を、丁寧に、一文字ずつ形を確かめて書くように、ゆっくり言葉を探しながら。
「全部がうまくいったら、あなたも手紙を書いて欲しい」
「ミドリさん、あなた、どこまで知ってるんですか?」
 驚いた局長の声を聞いても、ミドリは調子を変えずに続ける。物語を聞かせているように、自分に言い聞かせているように、静かに、かすれた声で、強く。

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 なんて生き生きした登場人物! なんて不完全な人々! なんて美しい不完全!

 演劇のタイトルの通り、この物語が「夢」をテーマにしていることは間違い無い。主人公のシライシは、会社で成功するといった「夢」を、あるいは「価値」を、自分のものに出来なかったのか、疲れたのか、それとも最初からその「夢」が自分のものでなかったと気づいたのか、そこから離れて今は郵便局で事務仕事をしている。登場人物たちも、どこか鏡写しのようになっている。夢を追いかける商社マンのアオトと、そこから遠ざかったシライシ、夢を叶え成功したリンドウと、そうした価値は自分にはないと語る彼の妻ミドリ。画家になる夢を諦めたシムラと、彼女に夢を託し続けるアイカワ。恋という名の夢に焦がれているキタケ。

 けれども、「夢」というテーマも、人生の価値についてのメッセージも、それが強く届いてくるのは、登場人物たちによって、それが「生きられて」いるからだろう。

 冒頭のヴァージニア・ウルフの言葉を引いて、ル=グウィンは、小説のなしうる役割の中心が「生きた人間」を描くことだと語る。ここでの「人間」っていうのは、「キャラクター」と対をなしてる。『ロード・オブ・ザ・リング』のフロドは、キャラクターであっても人間じゃない。フロドと、サムと、ゴクリとスメアゴル。この四人を合わせてようやく一人の人間になるかもしれない。そんな風だ。

 僕は思う、それはもう、本当の―現実の、人間との出会いのことだ。卑近な例をだそう。例えばどこかのパーティに出かけていく。いつかあこがれてた作家にたまたま出会う。作品の話を彼から聞いた。思っていた通りのこともある。知的な会話にあらためて感心しながら、けれどどこかで幻滅もあった。君は作家と別れ、その後二度と会うことはなかった。君と作家は会話を交わした―これは間違いなく、現実の出会い。

 演劇を観てるとき、観客席の君と、役者との関係は、普通「出会い」とは言わない。役者は役を演じている。それは作り出されたものだ。それは演じられたものだ。ウソっこで、創作で、現実ではない。でも、僕は今、この劇に登場した人々の事をこんなにもまざまざと思い描くことが出来る。

 あこがれていた画家のシムラが絵を描くことをやめてしまって、結婚することを聞いたアイカワ。キャンパスの前に座って、こんなにも愛している絵を今日は描くことが出来ないでいる。絵の具がいつまでも渇かずに、筆を置くそばから色が濁っていくように思う。舌打ち、乱暴にパレットを投げ出す場面。

 あるいは、キタケの、いつものように自分の思いを伝えられず、でもほんのわずか、きまぐれなシライシのひと言に、眠る前、ベッドの中で一喜一憂して、嬉しくても悲しくても涙ぐんでしまう場面。

 登場人物たちの、全く語られなかった物語の外の場面が、ほとんどそのまま、舞台で演じられていたかのように目に浮かんでくる。パーティで一度出あっただけの誰かよりも、僕にとって彼らの方がよほど「生きた人間」だと思える。少なくとも、創作か現実か、という区別だけで割り切れないものを感じる。現実の人間だって、多かれ少なかれ何かを演じているんだ。

 コミュニケーション? 彼らは演技を通じて、脚本を通じて、けれど必ず演じられた人間をも通じて僕らに言葉を投げかける。全てのセリフは観客に対してのものでもある。僕たちの方も、笑ったり、息を飲む音も聞こえたかもしれない。微笑んだり、涙ぐんだり、それは現実での、ときに中身のないような相槌よりも、真摯な、心からのものになることがあると思う。

 何のことはない、この舞台で、僕は「生きた人間に出あった」と、まあそれだけが言いたかったのだ。

 そして、その人の夢についての言葉を聴いた。その人の思いを知って、その人の言葉で。「夢がテーマ」と語れば、それは誰にでもあてはまる不変的なものに聞こえるかもしれない。でも、そうじゃなくて、僕と舞台、僕と作品というとても個人的な出会いの中でだけ、意味を持つもの。それが、レポート用紙に書かれた「事実」というか、「情報」としてのテーマと、「物語」とを二分する。

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 もちろん、それを可能にしているのは、言葉や演技の積み重ね、演出のおかげだと思う。これまで見たことがないな、と思ったのは、「語り口」。いくつかの異なる語り口が劇の中に混在しているところ。顕著なのは、シムラとアイカワという二人が、日常語というのかな、普段使いの言葉で話していること。「いやー、でも、あたしちょっと絵は……」「マジで、どこでもいいんすよ」言葉の使い方もそうだし、トーンや間の取り方も違って、より「演劇らしい」他の人物との対比が目立つ。

「あたし、まあ、ほんとは絵描きになりたかったんですよね」
 終盤、シムラがそうして話し出す場面、僕にはまるでドキュメンタリー映画のように聞こえた。彼女は一度セリフをかんで言い直したと思うのだけど、とても自然で、台本を間違えたようには全く聞こえなかった。それも演出だったのかもしれない。

 また印象的だったのは、アイカワが苛立ちに任せて、シムラの結婚式の招待状を床に叩きつけるシーン。パサリ、という小さな音が、今でも耳に残っている。僕はアイカワとシムラ、二人の悲しみが同時に感じられるようで胸が苦しくなった。痛みを自分のものと感じ始めた。


 ミドリという老女は、ただ一人、少しだけ特別な立場を与えられている。彼女は、ときおり舞台上の椅子の上で眠りに落ちる。人々は、眠る彼女を無視して話をすることがある。それが寝たフリだったりすることもあるのだけど……そうして眠っているときのミドリが、観客としての僕たちに重なるように思えた。ミドリは、客席と舞台の媒介としての役割を持っている……というのは彼女を「装置」として見るようでしのびない。彼女は誰より「生きた人間」として立ち上がってくるから。

 彼女は、3月の終わり、桜の花が咲き始める頃に亡くなった。確かにそのはずなのに、舞台上の椅子の上には、まだ彼女の姿がある。他の人々には見えていないようだ。他のみんなの行く末をそっと見守り、それが上手くいったことを見届けるとそっと席を立つ。幽霊? 残留思念? 僕には、彼女のその姿が、ハッピーエンドになって席を立つ観客としての自分に重なっていた。

 パーティが終わって帰宅した後、二度と会うことがなくても、もちろんそこにいた人々はその後も生き続ける。劇の後はどうだろう? キャラクターは一種のパターンで、その姿は薄れてしまうかもしれない。けれど、この舞台で出会った「人間」たちは、どこかで生き続けている、そんな手触りを感じることが出来る。


 ところで、劇が始まる前にかかっていた曲、僕がもう16年も前からずっと聞き続けている最愛のバンドの1つ、インディゴ・ガールズのもので、嬉しくなった。