田田口(劇団) 『BQ38』 感想

あらすじ 

「あなたはBQ38です。幸せにはなれません」

 文芸部で小説を書いている青年、那由多は、大学の授業で突然そう告げられる。最新の脳科学は、人間が「幸せ」になれるかどうかを数値で判断することができるようになった。

 脳の数値だけではなく、社会の多くが合理化された近未来。恋人たちは、自分たちの愛情を数値で表現し、何の葛藤もなく付き合ったり別れたりする。誕生日に贈られるのはプレゼントではなく現金。医学の進歩は、その人間の寿命をあらかじめ計測することもできる。「あなたの寿命は49歳ですね。苦しまないよう42歳くらいで死ぬといいでしょう」

 そんな世界に適応出来ない人々もいる。那由多の姉は就職に失敗し、自ら死を選ぶ「自殺式」を行いこの世を去る。那由多は「BQなんて脳の数値で、人間の幸せが決められるわけがない!」と叫ぶのだが、脳科学の教授はそれを否定する。「出来るのです。君自身がわかっているはずだ」

 BQの低い人間を、VR世界の中で救済する計画が、那由多の父や脳科学の教授によって進められていた。しかし、那由多はそれを拒否する。文芸部の友人、千春と共に、「不幸だから書いている。不幸な人間こそ、書かなければだめなんだ」と、次々に物語を語っていく。「小説は、誰に届くかわからない紙飛行機のメッセージのようだね」那由多と千春の新しい小説を予感させつつ、幕。

 オープニングなど、区切りになる場面では、役者たちが次々と表れ、コンテンポラリー・ダンスのような動きをしながら断片的なセリフを詩の朗読のように語るなど、演劇特有の演出が効果的。



「幸福なるものの世界は、不幸なるものの世界とは、まったく別なものであろう」―『論理哲学論考』 ウィトゲンシュタイン
「幸福に生きよ!」―『草稿』 ウィトゲンシュタイン

 ウィトゲンシュタインのBQを測ったら、ゼロと無限大の重ね合わせみたいな感じになりそう。そんなことを考えつつ劇を見終えて、グーグル先生のおかげでこの言葉と出会う。そうそう、幸せと不幸ってのは、数直線の両極なんじゃなくて、「まったく別」の位相にあるのかもしれない。
 
 アンナ・カレーニナの有名な言葉「幸せな家族はみんな似てるけど、不幸な家族の不幸さはそれぞれ異なってる」も、どこかこの劇で語られた「しあわせ」というのに繋がってるように思う。

 とはいえ、重厚で深みのあるシナリオだ。「しあわせ」という言葉も、重なり合うテーマの中で揺れている。僕はこの劇を、3つのテーマに分けて眺めてる。一つは「しあわせとは何か?」という普遍的な問い。これと重なるようにして「脳科学で人間の心や幸福を計測できるか」というSFパートの問い。最後に「小説家とは何か」という問い。

 サイドストーリーが周到に張り巡らされているのに、テンポ良く進み、印象的なシーンやセリフが星座のようにつながれてく様子には脱帽する。まるで交響曲を聴いてるみたいに、いくつもの対立するメロディが走っていって、クライマックスに繋がっていく。

 「脳科学や合理性のみが人間や社会を規定してしまう」ことへの批判……なんて見方も出来るかもしれないけど、僕がこの劇を見て思っていたのは、最初のウィトゲンシュタインの引用にも繋がる「幸せになれないこと=不幸なのか?」という問い。それに対して、小説を書くという試みが「ううん、そんなわけないさ」と答えてくれる。そんな優しい作品だ、ということだった。



「物々交換が基本なんだ。あのこ。あとは自分の世界だけでいい。だから半径30センチ外の出来事には、関心が薄いんだ」
「……幸せなんですか、それであの人は?」
「当然。幸せの形が、人と違うだけさ」
「……そんなのいやです。悪意はないのかもしれないけれど、わたしはそんなのはいやです。だって……人がいるのに……一人一人が絶海の孤島みたいで……閉じてて……いやなんです……」―Cross†Channel

 テーマのその2、「脳科学で幸福が規定出来るか」この世界で語られるBQ、それに規定される「しあわせ」という言葉は、どうも「合理性」に近いように思える。登場人物の中で、特にBQが高いとされる億人と万理の二人の描写がそれを感じさせる。功利主義的、と言ってもいいかもしれない。利益を最大に、ストレスは最小に。二人は恋人同士で、そのことを社会に示すために揃いの帽子を被っている。

 「いま、どれくらい私の事が好き?」
 「50くらいかな、そっちは?」
 「私は30くらい」
 「どうやってこのギャップを埋めようか?」

 けれど、二人の恋愛はまるで、ルーチンワークか、商取引のようだ。億人の寿命が短いと分かった途端に、万理は別れを切り出す。億人もそれを葛藤の欠片もなく受け入れる。「OK、じゃあ、明日からは友達として、よろしく」那由多の姉が自殺した際も、二人に動揺は見えない。世界に最適化されたプログラムのようだった。

 そんな風に、二人の行動、会話は無機質なものなのに、演劇、役者によって演じられることで、おかしなリアリティとグロテスクさが同時に表れているのがとても面白く感じる。同じ人間のはずなのに、その皮膚の下には全く異なる存在が蠢いてるような感覚。二人は、それが合理的であるなら、躊躇泣く家族だろうと殺す、そんな想像が広がる。


 物語の中盤、本来はBQ70であるホリカワは、「BQ140である」という嘘を信じこまされる。そうした自己認識によって、運命が変わるかどうかの実験だった。結果はネガティブ、彼女は幸せになれず、真実を告げられて絶望する。「私を騙していたの!?」ホリカワに、脳科学の天才、イチノミヤ教授はこう答える「私は、あなたがBQ140であるとはひと言も言っていません。あなたが勝手にそう勘違いしただけです」

 後でこのシーンを思い出しているとき、僕はふと思った。「イチノミヤ教授の言う『しあわせ』という言葉の定義は、もしかしたら他の人が思い描いている意味とはズレているんじゃないのか?」億人や万理を見て分かるように、それは「合理性」という限定された意味なのではないか。そうだとしたら、「幸せにはなれません」という言葉は全く別の意味を持って響いてくる。

「幸せにはなれません」
 (けれど、それが不幸になることだなんて、私はひと言も言っていません。あなたが勝手に勘違いしただけです)

 イチノミヤ教授の言葉は、彼らに絶望を告げてなんかいなかったんじゃないか。彼は、那由多と千春が希望を持つことを初めから知っていてああした行動を取っていたのでは? そう考えると、彼のイメージが違って見えてくる。足を引きずる動作は、悪魔メフィストフェレスか、それともドクター・ストレンジラブか? 冷酷なイメージは実はミスリードだったのではないか? 
 


「詩は、ビンに入れて海に投じる手紙なのかもしれません」―パウル・ツェラン

 劇の最初に、文芸部の千春は主人公の那由多にこんな事を言う。「小説って、紙飛行機みたいじゃない?」宇宙からメッセージを記した紙飛行機が飛ばされたらしい。半年かかって、それは地表へとやってくる。

 メッセージを入れたボトルが、宇宙からの紙飛行機が、そもそも誰かの手に渡る可能性はとても低い。ゼロに近いかもしれない。「だとしても」詩人は詩を書くし、小説家は小説を書く。それは利益とは異なる。億人や万理、BQの示す「合理性」からはかけ離れたもの。僕だって小説家だし、こんな話、もう幾度も聞いたはずなのに、紙飛行機を追って走る二人の後ろ姿にまたグッと来てしまった。