マージナリアによせて

●1 DEFINE YOUR DISCIPLINE

※自分の専門とする学問を定義せよ、というお題。何か面白くしよう、と思うと200字という制限ではとても無理で、ついつい「文化人類学」を3つも書いてしまった。お気に入りは一つ目。

文化人類学
・人類学者は、そう、探偵に近い。ただし、ホームズとワトソンの両面を持つ必要がある。ホームズのように、「観察」し、事件/文化に「参与」し、一方ワトソンのように、第三者的な視点からそれを一冊の物語/民族誌に仕立てる。だからこそ、良質な民族誌には、どこかミステリ小説を読むときの面白さがある。事件が解決しても犯罪の全てがわからないように、文化を分析しても人類の謎が解けることはない。

文化人類学
・文化ってついてるくせに「文化とは何か」と考えたあげく「文化なんて構築物じゃー!」と否定したりするし、「人類」ってついてるくせに、「人類なんてくくりおかしいんじゃない?」って疑い始めたりもする。ポストコロニアルと言って反省したり、構造と言ってはあちこち横断してもみる。過去の名作民族誌を眺め、いや、これぶっ飛ばして次にすすむんじゃ、と一念発起してみたり、いつまでも若い学問である。

文化人類学
・法人類学/科学人類学/医療人類学/芸術人類学、エトセトラ、エトセトラ……「一人一学問」とか「半学問」などと言われることのある文化人類学。まあ、なんでもあり。「本当に体系持った学問なの?」という疑いは学ぶほどに強まったりして。どうにか言えそうな共通点は「フィールドワークして」「民族誌を書く」ことくらい。「徹底的に他者から考える学問だ!」とある先生の言葉が心に残っています。

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●2 6冊書評

※「自然に関わる単語二つ」をタイトルに入れて、それに関連付け6冊の本を紹介する。

題 「子どもとりゅう」
 わたし、「題名に自然に関わる単語を2ついれろ」っていう指定を眉間にしわ寄せてじっと見つめる。えっ、「子ども」って自然に関わりあるよね? 文化人類学とかで良く出てくるんだよー。子どもは、まだ人間側じゃなくて、自然サイドにいる、って話。ほら、7歳くらいになって、通過儀礼みたいなのやって、ようやく「人間」として認められるー、みたいなの、聞いたことない? 「7歳まではカミのうち」なんて言葉、日本にもあるじゃない。よし、じゃあこれは許してもらえたということで。「りゅう」はいいでしょ? ドラゴン。火とか吹くし、めっちゃ自然! 大災害なんかを「りゅうのせいだ!」って言ってみたりもする。自然そのもの、自然の象徴! 
 とまあ、そんなわけで一冊目に繋げたかったの。『エルマーになった子どもたち』むかーしむかし、とある保育園でのお話。「園児たちの想像力ってすっごいよね!」「じゃあ、今年はそこを伸ばす保育をしよう!」ってな感じで、保育士さんは「想像遊び」ってのを考えた。まず下準備、子どもたちに『エルマーのぼうけん』を読み聞かせます。(みんなも読まなかった? 懐かしいね!)そこでひと言。「今度遠足に行く山で、おじいさんがりゅうを見たんだって!」さあ大変、子どもたちは大騒ぎです。「どうやったらりゅうに会えるかな?」探検のはじまりはじまり!
 遠足のときも、保育士さんはうまいことやって、りゅうの存在を子どもたちに信じこませるんだよね。面白いのはその後。ひと度「りゅうはいる!」って確信した子どもたちはね、公園で猫を見れば「あれ、エルマーが飼ってた猫だよ!」植物図鑑で本に出てくる野菜を見つけては、「やっぱりほんとの話なんだ!」と、見るもの聞くものなんでもかんでも、手当たりしだいに吸い込んでって、「りゅう」すなわちファンタジーの存在を、もっと強固に、もっとはっきりと――「りゅうは、何億年の間、ひっそり生き続けてきたんだ」「ねえ、ぼくたちとりゅうの出会いを劇にしない?」物語は速度を増して、それは現実よりも現実、それは想像力で築き上げられたお城、それはもはや、神話の誕生だ〜! 
 こういう保育実践の話、いくつかあったんだけど、わたしがつい涙ぐんじゃうのはね、どれもが子どもたちの幸せな笑顔であふれてるとこ。幸福なまどろみの中で、子らよ、どうか、良い夢を。あなたも、そういう幸せな思い出、あった? あ、もしかしたら、これ読んで思い出したとか!?
 でも、想像力は怖いかいぶつみたいなものでもある。子ども自身を食い殺しちゃうことだってあるかもしれない。そんな話が『GOGOモンスター』っていうマンガ。見えないかいぶつが見えてしまう男の子のお話。太陽サンサン、自然はとてもあたたかいけど、夜の暗闇は怖くて得体が知れない。人間の心の中にも、くらい深淵が広がってて、けど想像力はそこからやってくるのかもしれないね。
 こんなことを現実で研究したのが、『現場の心理学』って本に入ってる「他の人には見えない友人をもつこと」っていう文章だよ。「イマジナリー・フレンド」なんて言葉、聞いたことある? 子どものときに現れる「想像上の友達」。「うちのこ、なんだかおかしいんです。見えないお友達がそこに『いる』って」……なーんてことに中々ならない理由は、子どもがそれを「秘密」にするから。わたしね、「秘密」ってのが、想像力のはじまりなんだ、って気がする。ゼミ生の一人が「秘密」を教授に打ち明けることで、彼女の「想像上の友達」が出てこなくなっちゃう。教授は、自分がそのゼミ生の友達を「殺して」しまった、って悩むんだけど、本題の心理学的な分析よりも、そっちの葛藤の方が面白かったなぁ。
 『Trusting What You're Told』って本では、子どもたちが、大人に言われたことをどれくらい、どんな風に信じるか、っていうことを詳しく見ていくんだ。発達心理学の本なんだけど、とにかく実験の一つ一つが面白いの。「これは魔法の箱ですよ〜絵を入れると本物が出てきます」「ねえ、神様と、バイキンと、人魚。どれとなら遊べる? どれなら触れる?」そんな感じで、子どもたちの反応を見るのも楽しい。英語を一生懸命読んだけど、翻訳も出てほしいなぁ。
 人類学から、人間がどんな風に「信じる」のか考えたのが『呪術・科学・宗教』という学術書。「融即」って言葉がポイント。「融合」の融、「融け合ってる」そんな思考のことだよ。世界と自分の境界線が、あやふやになっていく。「わたし」が「わたしの外側」まで溢れだしていく。お母さんと赤ん坊とか、自分と自分の住んでいる土地とか、「わたしと自然」「私と世界」がいっしょくたになってるようなとき。子どもたちが、目一杯に想像力を働かせてるときも、現実とファンタジーが融け合ってるんじゃないのかなぁ、って思うんだ。
 もう100年も前に、子どもの想像の世界をステキに描いた本が、みーんな知ってる『くまのプーさん』何度読んでも、はぁ、奇跡の一冊だー。人間も、動物も、あの秘密の場所へ、いつでも戻っていくことが出来るんだよね。終わりの1行、「ふたりの行った先がどこであろうと、その途中にどんなことがおころうと、あの森の魔法の場所には、ひとりの少年とその子のクマが、いつも遊んでいることでしょう」えっ、ディズニーアニメの方しか見てないのかよー。じゃあ、早く読んでよね。そしたら、あの100エーカーの森で、また会おうね。「また」って、何かって? わたしと前に会ったこと、忘れちゃったの? ほら、思い出してみて……

『エルマーになった子どもたち』岩附啓子, 河崎道夫 ひとなる書房
GOGOモンスター松本大洋 小学館
『現場の心理学』麻生武・浜田寿美男かもがわ出版
『Trusting What You're Told』Harris Harvard University Press
『呪術、科学、宗教』タンバイア 思文閣出版
くまのプーさん』 A.A.ミルン 岩波少年文庫

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●3 テーマ論説 
※「自由」というテーマのみが決められている。4000字以内。
※ちょうど先日の卒業式に、「安田講堂落成式」が七割って感じの答辞を聞かされ、カウンターで「ニセ総長のニセ答辞」なるものを書いたので、それを転載。

題 「自由で幸福な東大卒業生」

「俺さぁ、これまでタフとかグローバルとか、市民的エリートがどうのって言ってきたけど、正直そんなのは二の次三の次でいいんだよ。君らはどうか、自由に生きてくれ。夏が終わるまでの短い命を必死に鳴きまくって生きるヒグラシみたいに自由に生きなさい。長い冬が明けて雪解けの日に、やっと外に出ることが出来て、若い緑の中を力の限りどこまでも駆け抜けていく犬のように自由に生きなさい。夕暮れの中、もうすぐチャイムがなりそうだけど、まだ遊び足りずにともだちの名前を呼ぶ子どもたちのように自由に生きなさい。そして幸福に生きなさい。その中で、もしかして誰かを幸福に出来るんなら、それはサイコーなことじゃないか! それが出来なくたってまるで構わない! 君が君を幸福に出来るなら。君が君を自由に出来るなら。

 君たちの多くは震災の年に入学して、テロの年に卒業する。君たちは混迷の時代に、東大とか知とか様々な義務とか責任を期待される。けれど、そんなものに耳を貸すな。そんなクソったれな声に耳を貸すな! 責任を背負いたいものは背負うがいい。それも自由だ。けれど、何よりもまず、どんなものからも自由に生きて、君の幸せを追うのだ! 知っているか? 君はこれまでも自由だった。学問の野原の中で、君はいくらでも自由になれた。学ぶことは君をもっと自由にしたか? むしろ不自由さが増して、生きるのが難しく感じるようになったか? いいや、それも君が選んだのだ。そこに確かな自由があったのだ。そして、君はこれからも自由だ。いつまでも、どこまでも! たとえその身が囚われたとしても、まだその理性が、理性が囚われても心が、心が囚われても、君の愛する人々が、友人たちが、君が自由だときっと言ってくれる。それが失われたとしても、君の得た知が、教養が、君が自由だときっと教えてくれる。それが失われたとしても、俺が、君が自由だといつも言ってやる! 

 君の自由を奪うような、君に責任と義務を押し付けるような、くそったれなことを言うやつに耳を貸すな! それでもうるさい奴がいるなら、俺のところに連れて来い。俺がそいつに言ってやる、俺が君たちに、自由に生きろと言ったのだと! 何がタフだ! 何がグローバルだ! そんなものからは今日限り解放されて、自由で幸福な東大卒業生になれ! さあ、君は今、幸福に続く自由の門をくぐるのだ、自由だ! 自由だ! ついに自由だ! 卒業おめでとう!」(帽子を投げる)(拍手)

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●4 短評

※柵の中にいる羊。3歳の子どもが「どうして、あの羊たちは逃げ出さないの?」と聞いてくるのに対し答えよ、というお題。

 <人間、この迷える子羊>
 <子どもの声は自分の内側から聞こえたものだった>

問 「どうして、あの羊たちは逃げ出さないの?」
答 「どうして、日本人たちは、放射性物質が燦々と降り注ぐあの国から逃げ出さないんだろう」

問 「どうして、あの羊たちは逃げ出さないの?」
答 「どうして、大学生は就職活動から逃げ出さないんだろう」

問 「どうして、あの羊たちは逃げ出さないの?」
答 「どうして、人々は結婚という制度から逃げ出さないんだろう」

問 「どうして、あの羊たちは逃げ出さないの?」
答 「どうして、人類はこの狭い地球という星から逃げ出さないんだろう」

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●5 自由投稿

※完全自由な投稿。今思いっきり書く余力がないのだけど、許されるなら小説を載せたい。
※以前書いたものだと、この辺り http://hosi.syuriken.jp/002-1.htm なんかをちょっと直して掲載したいなぁ、などと。

卒業、結界、新しい詩

「どうなってるんだ!どうしてここに、『虚無』が入り込んでいる?」
 そうだ、ここは安全なはずだった。僕は途方もない時間をかけて、ここに結界を張ってきたんだ。笑顔と平穏で織り上げたバリアーを。喫茶店なんだ。コーヒーや紅茶の香りで、苛々した気持ちや、嫌な気持ちを打ち払える、そういう場所なのに。

 26歳の僕は、後に大学に入る理由の1つとなった長編小説を書いていた。

 その中で、僕は自分自身の色々な特質、価値観を5つに分解して、登場人物たちに分け与えた。

 1つは「無垢なる者」まだ汚れを知らない、だからこそ弱く、悲しくもある子どもたち。

 1つは「活動家たち」平和と正義を希求し、革命を夢見て、世界を変革しようとする人々。

 1つは「芸術家たち」利益、意義などに還元されないものに価値を見出し、意味を与える人々。

 1つは「観測者」ある特定の価値を優っていると考えるのではなく、相対的に世界を眺める者。

 そしてもう1つは、「何ものでもない者」……なんでもない矮小な一人。けれど、小さな優しさと微笑みだけを持っている者。

 「無垢なる者」は、病気と悪意に苦しんで、世界を呪ってきた自分。

 「活動家たち」は、人種差別にテロリズム、環境破壊に人権侵害といった「問題」に立ち向かっていった自分

 「芸術家たち」は、音楽、美術、小説や詩、表現によって世界を眺め、それと対話しようとする自分

 「観測者」は、それらの活動の中でも抱き続けた違和感に素直な自分 (あるいは、大学での「文化人類学」という学問がここに結びつくかもしれない)

 どれもが強い意志に固められた、強力で強烈なキャラクターたちだった。けれど僕は、「何者でもない者」を主人公に置いた。

 彼はかつて天才的な詩人だった。言葉の力で闇を追い散らすことが出来た。けれど、それを捨ててしまった。うたう誰かを見つけられなかったから。彼は詩の代わりに喫茶店を開いた。そこをコーヒーの香りと平穏で満たした。その場所は結界だった。聖域だった。世界に絶望をした男が最後の一服を求めてやってきた。店を出るときの彼の瞳には小さいが一筋の希望が輝いていた。修復できないと思うような裂け目が出来てしまった友人達、または恋人たちがやってきた。帰る頃には、それがほんの小さなすれ違いだったと笑いあっていた。

 人と人が出会えば、異なるイデオロギーが出会えば、それは互いを傷つけあい、ときには本当に血が流れることもある。彼の喫茶店でもそうだった。争い、苦しみ、涙し、傷つけあう。けれど、ひとかけの優しさが、結局彼らを ――分かり合えないままだとしても―― 微笑ませ、ぎこちないながらも肩を組み、ともに歌い踊らせることが出来た。

 ある一夜の微笑み、小さな幸福の思い出、それは数日もすれば記憶のはずれに放り込まれる。別に印象的でもないほんの一場面。クリーム・ブリュレのカラメルの甘さ。ふいに雲が切れて、ようやく見えた青い海。熱をこめて語り合い、狭い部屋で身を丸めて眠った夜。もう、忘れてしまった。絶望していた男は結局また苦しみに押しつぶされる。友人達や恋人たちも再び言い争いを始める。
 
 無垢な子どもたちは大人の汚さに悲鳴を上げる。活動家たちは、自らの信じる価値のために、時に様々な可能性を踏みつけるし、正義が彼らを盲目にすることがある。芸術家たちは傲慢に語り、他者を傷つけて平然としている。観測者はときに冷徹で、自ら何かを変える力を持たない。

 永遠のすれ違い。立ちはだかる巨大な壁。互いが互いの価値を相手のデータに上書きしようとして繰り広げられる力と言葉のゲーム。主人公の彼は、自らの詩もそうした力の1つだと感じた。1杯のコーヒーは、けれど、争いは変わらないのに、すれ違いは変わらないのに、壁はそのままなのに、そのままであることを許す。何かを伝えるわけではなくても、目の前のその相手に、優しくせずにはいられなくさせる。革命家が資本家に、活動家が権力者に、子供が大人に、聖職者が罪人に、王様が乞食に、そうだ、さっきまで怒りに歪んでいた顔にいつの間にか微笑みが浮かんでいる。「私はあなたに優しくしようと思う」その場所は、結界は、言葉やイデオロギーは変えないまま、けれど感情を変える。思いを変える。

 「私たちは分かり合えない、それでも、なお!」

 それは主人公の彼が生み出したものではない、それぞれの人の内側にともった希望の種火だった。そして、その記憶は忘れ去られ、擦り切れてしまっても、どこかに留まっていて、いつか、君を、救う。主人公の彼は、そのときに思う。これが、僕の新しい詩なんだ。

 大学に入る前、僕はこの物語の登場人物と何度も会話を交わした。5つに分割した自分、君はどんな風に生きたい? 何を一番の価値に置きたい? 僕は迷いながらも「何ものでもない者」を選んだ。何か特別なものを与えなくていい。強烈な思想を抱かなくていい。強く傷つけたり、争いあう必要もない。

 いや、傷つけあっても、争いあっても構わない。けれども、その前に僕は結界を作ろう。微笑みと喜びと優しさで満ちた空気を作ろう。優しさを、尊敬を、理解を ――価値や、勝利や、正義に優先させるように。全ての痛みが、全ての傷痕が美しく愛おしいものに変わるような時間を作ろう。傷つけあった後、共に快復しあうような結界を。殺し合いの、憎しみ合いの、断絶の真ん中に飛び込んでいって、お菓子とコーヒーと馬鹿げた嘘で憎悪をうやむやにして煙に巻いてしまおう。優しくなること。クリストファー・ロビン、あるいは神話のトリックスターたち。

 そうなろうと思った。そうなりたいと思った。そうして、大学での日々を送ってきた。詩も使ったし、コーヒーも使った。僕だけの力では到底足りなかった。それでも、僕の周りには、本当に優しさと微笑みが溢れていた。一つ一つの思い出が、いや、思い出にさえならなかったような、小さな出来事が、いつも結晶のように舞っていて、結界は強固で、虚無なんてひとかけらも通さなかった。

 卒業式のあるスピーチで、友人が僕(ともう一人)が中心に立ち上げたゼミについて触れてくれた。彼が進む道を決める一因となったこと。それが駒場の教養、リベラル・アーツの形に沿うような学問の場所だったこと。僕は幸せで、思い返しては何度も涙ぐんでいる。確かに刺激に満ちた会だった。当然、何よりも参加者たちの素晴らしい力で。でも、僕にとってそれ以上に大事なことは、優しくて幸せな場所だったこと。あの時間を一緒に過ごしたみんなは、いつまでもそれを覚えてくれるだろう。もちろん僕も。

 同じ学科の、クラスの、コースの友人達も、みんなが幸せそうに笑っていた。コーヒーの香りが漂うコース部屋は今日も暖かくて、寂しさの足音は扉の向こうで止まり、いつものように笑い声で満たされていた。別のコースの友人達とも、クラスの仲間たちとも、後輩たちとも、僕はなんだか、ちゃんと「お別れ」したような気がしない。幸せな記憶が積み重なっていて、それは自分の中に留まるように感じるからかもしれない。あるいはやがて、孤独や寂しさが、春にしては冷たい夜に忍び込んでくるかもしれない。けれど、僕たちはきっとそれを恐れない。やがて思い出が忘れ去られて、擦り切れてしまったとしても、優しさの結界はどこかにきっと留まっていて、それは、いつか、君を、救う。

 「さようなら」「また会おうね」「これからもよろしく」それぞれの、色々な言葉が投げかけられる。僕の言葉はこうだ。「もう、君の一部は僕の中に、僕の一部は君の中にいる。そして今度はきっと、僕の結界に触れた君たちが、1つの結界になって、優しさを振りまくだろう」そうだ、これは呪いみたいなもんだ。祝福に見せかけた。伝染病って方が近いかもしれない。ひどくたちの悪い、呪いの魔法。今頃気づいたのか? なんてことだ! 「30歳以上を信じるな」って、君は習わなかったのか!

 僕はそうして、4年前の自分に向けて、あるいは4年後の自分に向けてこう問いかける。

「聞こえるかい? これが、僕の新しい詩だ!」

「苦しいとき、困ったとき、何もかもうまく行かないとき
 ただ私の名前を呼んで
 そうしたら、どこにいても、私は走っていく
 あなたに会いに、すぐに走っていくから」
  ―キャロル・キング "You've got a friend"

 いつか、君が本当に苦しいときに、僕が走っていけたらと思う。
 そして、僕はこれから物語を書こうと思う。
 君たちのその苦しみを和らげるような。
 そして、他の人々の心の中の、優しさの結界となるような。

 
 

劇団工『夢見草』感想

「この郵便局には毎日色々なものが訪れる 手紙が、荷物が、親愛が、羨望が、恋情が、嫉妬が、過去が、春が、時には、…夢が」 (劇団工 ホームページより)

あらすじ

 小さな町の郵便局に、今日も多くの人が訪れる。いつも見守ってくれているような、優しい局長さんは、かならず訪れた人の名前を呼んで微笑んでくれる。お茶やコーヒーをごちそうしてくれたり、ちょっと変わっているけど、とても居心地が良い場所。お客さんが長居をしておしゃべりを楽しむこともよくあるみたい。

 毎日のようにやってきて、沢山の人へ手紙を書くおばあさんのみどりさん。先日やってきたやり手の新局員のシライシ、彼にあこがれるキタケさん。他にも常連のお客さんたちがやってきて、なんでもないような話をしては帰っていく。そんな日常の風景を描いた舞台。

 穏やかな場所に、ある日、差出人も、宛先もない一通のハガキが舞い込む。
「わたしの人生には、価値はない」その短い文章が、郵便局に集まる人々の心にさざなみを立てていく。

 夢や恋を追いかけ続ける人々と、夢が見つからなかったり、諦めてしまった人々。その間で、いくつかぶつかりあいや、すれ違いが起きる。郵便局員のシライシは、「夢」や「価値」に囚われ、苛立ちを募らせる。けれど、どこか自分と似て、「価値の無い」人生を歩んでいるように見えるミドリさんが、それでもいつも満ち足りて、微笑んでいるように見える。桜が咲く頃、ミドリさんは亡くなり、また一枚のハガキが残される。「私の人生に価値はない。けれど必死に生きてきた。誰も否定せずに」

 苛立ちや悲しみを抱いていた人々に、ぎこちないけれど、再び微笑みが戻ってくる。局長も、みどりさんとの小さな約束を果たすため、前へ一歩を踏み出そうとして、幕

● 

「あらゆる小説は人間を描くものであり、この小説という形態(略)が開発されたのは、人間を表現するためであって、けっして教条を説くためでもなければ、唄を歌うためでも、あるいは大英帝国の栄光をたたえるためでもない、ということである」
 ヴァージニア・ウルフ『ベネット氏とブラウン夫人』


 さっきまで騒がしかった郵便局の中が、今では静けさに包まれている。局長とミドリさんは、何を思うでもなく窓の外を見つめている。沈黙はけれど、居心地のいいものだった。
「局長さん、賭けをしない?」ミドリさんの呟きが、ぽつり、ひとりごとのように響く。
「賭け?」彼女がゆっくり振り向く。いつものように、伏し目がちなままで、手元の手紙を、丁寧に、一文字ずつ形を確かめて書くように、ゆっくり言葉を探しながら。
「全部がうまくいったら、あなたも手紙を書いて欲しい」
「ミドリさん、あなた、どこまで知ってるんですか?」
 驚いた局長の声を聞いても、ミドリは調子を変えずに続ける。物語を聞かせているように、自分に言い聞かせているように、静かに、かすれた声で、強く。

 ●
 なんて生き生きした登場人物! なんて不完全な人々! なんて美しい不完全!

 演劇のタイトルの通り、この物語が「夢」をテーマにしていることは間違い無い。主人公のシライシは、会社で成功するといった「夢」を、あるいは「価値」を、自分のものに出来なかったのか、疲れたのか、それとも最初からその「夢」が自分のものでなかったと気づいたのか、そこから離れて今は郵便局で事務仕事をしている。登場人物たちも、どこか鏡写しのようになっている。夢を追いかける商社マンのアオトと、そこから遠ざかったシライシ、夢を叶え成功したリンドウと、そうした価値は自分にはないと語る彼の妻ミドリ。画家になる夢を諦めたシムラと、彼女に夢を託し続けるアイカワ。恋という名の夢に焦がれているキタケ。

 けれども、「夢」というテーマも、人生の価値についてのメッセージも、それが強く届いてくるのは、登場人物たちによって、それが「生きられて」いるからだろう。

 冒頭のヴァージニア・ウルフの言葉を引いて、ル=グウィンは、小説のなしうる役割の中心が「生きた人間」を描くことだと語る。ここでの「人間」っていうのは、「キャラクター」と対をなしてる。『ロード・オブ・ザ・リング』のフロドは、キャラクターであっても人間じゃない。フロドと、サムと、ゴクリとスメアゴル。この四人を合わせてようやく一人の人間になるかもしれない。そんな風だ。

 僕は思う、それはもう、本当の―現実の、人間との出会いのことだ。卑近な例をだそう。例えばどこかのパーティに出かけていく。いつかあこがれてた作家にたまたま出会う。作品の話を彼から聞いた。思っていた通りのこともある。知的な会話にあらためて感心しながら、けれどどこかで幻滅もあった。君は作家と別れ、その後二度と会うことはなかった。君と作家は会話を交わした―これは間違いなく、現実の出会い。

 演劇を観てるとき、観客席の君と、役者との関係は、普通「出会い」とは言わない。役者は役を演じている。それは作り出されたものだ。それは演じられたものだ。ウソっこで、創作で、現実ではない。でも、僕は今、この劇に登場した人々の事をこんなにもまざまざと思い描くことが出来る。

 あこがれていた画家のシムラが絵を描くことをやめてしまって、結婚することを聞いたアイカワ。キャンパスの前に座って、こんなにも愛している絵を今日は描くことが出来ないでいる。絵の具がいつまでも渇かずに、筆を置くそばから色が濁っていくように思う。舌打ち、乱暴にパレットを投げ出す場面。

 あるいは、キタケの、いつものように自分の思いを伝えられず、でもほんのわずか、きまぐれなシライシのひと言に、眠る前、ベッドの中で一喜一憂して、嬉しくても悲しくても涙ぐんでしまう場面。

 登場人物たちの、全く語られなかった物語の外の場面が、ほとんどそのまま、舞台で演じられていたかのように目に浮かんでくる。パーティで一度出あっただけの誰かよりも、僕にとって彼らの方がよほど「生きた人間」だと思える。少なくとも、創作か現実か、という区別だけで割り切れないものを感じる。現実の人間だって、多かれ少なかれ何かを演じているんだ。

 コミュニケーション? 彼らは演技を通じて、脚本を通じて、けれど必ず演じられた人間をも通じて僕らに言葉を投げかける。全てのセリフは観客に対してのものでもある。僕たちの方も、笑ったり、息を飲む音も聞こえたかもしれない。微笑んだり、涙ぐんだり、それは現実での、ときに中身のないような相槌よりも、真摯な、心からのものになることがあると思う。

 何のことはない、この舞台で、僕は「生きた人間に出あった」と、まあそれだけが言いたかったのだ。

 そして、その人の夢についての言葉を聴いた。その人の思いを知って、その人の言葉で。「夢がテーマ」と語れば、それは誰にでもあてはまる不変的なものに聞こえるかもしれない。でも、そうじゃなくて、僕と舞台、僕と作品というとても個人的な出会いの中でだけ、意味を持つもの。それが、レポート用紙に書かれた「事実」というか、「情報」としてのテーマと、「物語」とを二分する。

 ●
 もちろん、それを可能にしているのは、言葉や演技の積み重ね、演出のおかげだと思う。これまで見たことがないな、と思ったのは、「語り口」。いくつかの異なる語り口が劇の中に混在しているところ。顕著なのは、シムラとアイカワという二人が、日常語というのかな、普段使いの言葉で話していること。「いやー、でも、あたしちょっと絵は……」「マジで、どこでもいいんすよ」言葉の使い方もそうだし、トーンや間の取り方も違って、より「演劇らしい」他の人物との対比が目立つ。

「あたし、まあ、ほんとは絵描きになりたかったんですよね」
 終盤、シムラがそうして話し出す場面、僕にはまるでドキュメンタリー映画のように聞こえた。彼女は一度セリフをかんで言い直したと思うのだけど、とても自然で、台本を間違えたようには全く聞こえなかった。それも演出だったのかもしれない。

 また印象的だったのは、アイカワが苛立ちに任せて、シムラの結婚式の招待状を床に叩きつけるシーン。パサリ、という小さな音が、今でも耳に残っている。僕はアイカワとシムラ、二人の悲しみが同時に感じられるようで胸が苦しくなった。痛みを自分のものと感じ始めた。


 ミドリという老女は、ただ一人、少しだけ特別な立場を与えられている。彼女は、ときおり舞台上の椅子の上で眠りに落ちる。人々は、眠る彼女を無視して話をすることがある。それが寝たフリだったりすることもあるのだけど……そうして眠っているときのミドリが、観客としての僕たちに重なるように思えた。ミドリは、客席と舞台の媒介としての役割を持っている……というのは彼女を「装置」として見るようでしのびない。彼女は誰より「生きた人間」として立ち上がってくるから。

 彼女は、3月の終わり、桜の花が咲き始める頃に亡くなった。確かにそのはずなのに、舞台上の椅子の上には、まだ彼女の姿がある。他の人々には見えていないようだ。他のみんなの行く末をそっと見守り、それが上手くいったことを見届けるとそっと席を立つ。幽霊? 残留思念? 僕には、彼女のその姿が、ハッピーエンドになって席を立つ観客としての自分に重なっていた。

 パーティが終わって帰宅した後、二度と会うことがなくても、もちろんそこにいた人々はその後も生き続ける。劇の後はどうだろう? キャラクターは一種のパターンで、その姿は薄れてしまうかもしれない。けれど、この舞台で出会った「人間」たちは、どこかで生き続けている、そんな手触りを感じることが出来る。


 ところで、劇が始まる前にかかっていた曲、僕がもう16年も前からずっと聞き続けている最愛のバンドの1つ、インディゴ・ガールズのもので、嬉しくなった。

田田口(劇団) 『BQ38』 感想

あらすじ 

「あなたはBQ38です。幸せにはなれません」

 文芸部で小説を書いている青年、那由多は、大学の授業で突然そう告げられる。最新の脳科学は、人間が「幸せ」になれるかどうかを数値で判断することができるようになった。

 脳の数値だけではなく、社会の多くが合理化された近未来。恋人たちは、自分たちの愛情を数値で表現し、何の葛藤もなく付き合ったり別れたりする。誕生日に贈られるのはプレゼントではなく現金。医学の進歩は、その人間の寿命をあらかじめ計測することもできる。「あなたの寿命は49歳ですね。苦しまないよう42歳くらいで死ぬといいでしょう」

 そんな世界に適応出来ない人々もいる。那由多の姉は就職に失敗し、自ら死を選ぶ「自殺式」を行いこの世を去る。那由多は「BQなんて脳の数値で、人間の幸せが決められるわけがない!」と叫ぶのだが、脳科学の教授はそれを否定する。「出来るのです。君自身がわかっているはずだ」

 BQの低い人間を、VR世界の中で救済する計画が、那由多の父や脳科学の教授によって進められていた。しかし、那由多はそれを拒否する。文芸部の友人、千春と共に、「不幸だから書いている。不幸な人間こそ、書かなければだめなんだ」と、次々に物語を語っていく。「小説は、誰に届くかわからない紙飛行機のメッセージのようだね」那由多と千春の新しい小説を予感させつつ、幕。

 オープニングなど、区切りになる場面では、役者たちが次々と表れ、コンテンポラリー・ダンスのような動きをしながら断片的なセリフを詩の朗読のように語るなど、演劇特有の演出が効果的。



「幸福なるものの世界は、不幸なるものの世界とは、まったく別なものであろう」―『論理哲学論考』 ウィトゲンシュタイン
「幸福に生きよ!」―『草稿』 ウィトゲンシュタイン

 ウィトゲンシュタインのBQを測ったら、ゼロと無限大の重ね合わせみたいな感じになりそう。そんなことを考えつつ劇を見終えて、グーグル先生のおかげでこの言葉と出会う。そうそう、幸せと不幸ってのは、数直線の両極なんじゃなくて、「まったく別」の位相にあるのかもしれない。
 
 アンナ・カレーニナの有名な言葉「幸せな家族はみんな似てるけど、不幸な家族の不幸さはそれぞれ異なってる」も、どこかこの劇で語られた「しあわせ」というのに繋がってるように思う。

 とはいえ、重厚で深みのあるシナリオだ。「しあわせ」という言葉も、重なり合うテーマの中で揺れている。僕はこの劇を、3つのテーマに分けて眺めてる。一つは「しあわせとは何か?」という普遍的な問い。これと重なるようにして「脳科学で人間の心や幸福を計測できるか」というSFパートの問い。最後に「小説家とは何か」という問い。

 サイドストーリーが周到に張り巡らされているのに、テンポ良く進み、印象的なシーンやセリフが星座のようにつながれてく様子には脱帽する。まるで交響曲を聴いてるみたいに、いくつもの対立するメロディが走っていって、クライマックスに繋がっていく。

 「脳科学や合理性のみが人間や社会を規定してしまう」ことへの批判……なんて見方も出来るかもしれないけど、僕がこの劇を見て思っていたのは、最初のウィトゲンシュタインの引用にも繋がる「幸せになれないこと=不幸なのか?」という問い。それに対して、小説を書くという試みが「ううん、そんなわけないさ」と答えてくれる。そんな優しい作品だ、ということだった。



「物々交換が基本なんだ。あのこ。あとは自分の世界だけでいい。だから半径30センチ外の出来事には、関心が薄いんだ」
「……幸せなんですか、それであの人は?」
「当然。幸せの形が、人と違うだけさ」
「……そんなのいやです。悪意はないのかもしれないけれど、わたしはそんなのはいやです。だって……人がいるのに……一人一人が絶海の孤島みたいで……閉じてて……いやなんです……」―Cross†Channel

 テーマのその2、「脳科学で幸福が規定出来るか」この世界で語られるBQ、それに規定される「しあわせ」という言葉は、どうも「合理性」に近いように思える。登場人物の中で、特にBQが高いとされる億人と万理の二人の描写がそれを感じさせる。功利主義的、と言ってもいいかもしれない。利益を最大に、ストレスは最小に。二人は恋人同士で、そのことを社会に示すために揃いの帽子を被っている。

 「いま、どれくらい私の事が好き?」
 「50くらいかな、そっちは?」
 「私は30くらい」
 「どうやってこのギャップを埋めようか?」

 けれど、二人の恋愛はまるで、ルーチンワークか、商取引のようだ。億人の寿命が短いと分かった途端に、万理は別れを切り出す。億人もそれを葛藤の欠片もなく受け入れる。「OK、じゃあ、明日からは友達として、よろしく」那由多の姉が自殺した際も、二人に動揺は見えない。世界に最適化されたプログラムのようだった。

 そんな風に、二人の行動、会話は無機質なものなのに、演劇、役者によって演じられることで、おかしなリアリティとグロテスクさが同時に表れているのがとても面白く感じる。同じ人間のはずなのに、その皮膚の下には全く異なる存在が蠢いてるような感覚。二人は、それが合理的であるなら、躊躇泣く家族だろうと殺す、そんな想像が広がる。


 物語の中盤、本来はBQ70であるホリカワは、「BQ140である」という嘘を信じこまされる。そうした自己認識によって、運命が変わるかどうかの実験だった。結果はネガティブ、彼女は幸せになれず、真実を告げられて絶望する。「私を騙していたの!?」ホリカワに、脳科学の天才、イチノミヤ教授はこう答える「私は、あなたがBQ140であるとはひと言も言っていません。あなたが勝手にそう勘違いしただけです」

 後でこのシーンを思い出しているとき、僕はふと思った。「イチノミヤ教授の言う『しあわせ』という言葉の定義は、もしかしたら他の人が思い描いている意味とはズレているんじゃないのか?」億人や万理を見て分かるように、それは「合理性」という限定された意味なのではないか。そうだとしたら、「幸せにはなれません」という言葉は全く別の意味を持って響いてくる。

「幸せにはなれません」
 (けれど、それが不幸になることだなんて、私はひと言も言っていません。あなたが勝手に勘違いしただけです)

 イチノミヤ教授の言葉は、彼らに絶望を告げてなんかいなかったんじゃないか。彼は、那由多と千春が希望を持つことを初めから知っていてああした行動を取っていたのでは? そう考えると、彼のイメージが違って見えてくる。足を引きずる動作は、悪魔メフィストフェレスか、それともドクター・ストレンジラブか? 冷酷なイメージは実はミスリードだったのではないか? 
 


「詩は、ビンに入れて海に投じる手紙なのかもしれません」―パウル・ツェラン

 劇の最初に、文芸部の千春は主人公の那由多にこんな事を言う。「小説って、紙飛行機みたいじゃない?」宇宙からメッセージを記した紙飛行機が飛ばされたらしい。半年かかって、それは地表へとやってくる。

 メッセージを入れたボトルが、宇宙からの紙飛行機が、そもそも誰かの手に渡る可能性はとても低い。ゼロに近いかもしれない。「だとしても」詩人は詩を書くし、小説家は小説を書く。それは利益とは異なる。億人や万理、BQの示す「合理性」からはかけ離れたもの。僕だって小説家だし、こんな話、もう幾度も聞いたはずなのに、紙飛行機を追って走る二人の後ろ姿にまたグッと来てしまった。

『小さき声のカノン』感想

予告編

「よじれた現実のただ中で子どもたちを心底守ろうとする母なるものの存在に私は未来をかけたい。原発事故後の世界を生きる母たちのしなやかさ、強さ、その揺らぎや弱さまで含めて、映画から感じていただきたいと願っています」
http://kamanaka.com/canon/about/ 『小さき声のカノン』ホームページより

あらすじ

 舞台は、福島原発から北西に50キロの位置にある二本松市。そこに暮らす母親と子どもたちに寄り添ったドキュメンタリー映画。「子どもの尿から高いベクレルが検出されて、なにかと思ったら牛乳でした」映画はある母親のそんな言葉から始まる。幼稚園の園庭には放射線量のメーター。放射能がごく当たり前となった日常を、画面のあちこちに見つけることが出来る。

 「福島に残る。ここで生きていく」そう決めた母親たちが集まって自然に出来たグループ「ハハレンジャー」では、お互いに勇気づけられたり、市の手の届かない除染も行うことが出来た。一方、甲状腺がんの検査を受けたり、子どもを一時期異なる地域に送って放射線量を下げる「保養」療法についても紹介される。そうした経験の中で、母親たちの意識も次第に変化していく。

 もう1つの舞台はベラルーシ。27年前のチェルノブイリ原発事故の影響は、今でもまだ続いている。福島と同じように、内部被曝を測り、保養を受ける子どもたち。そしてその子どもを守ろうとしてきた、「先輩」の母たちの姿も描かれる。

 科学的な見地や、原発反対のデモについてのシーンもあるけれど、この作品はまず何よりも「母親」の視線に関する映画だと感じる。様々な出来事を、母親たちの立ち位置、視点から見てほしい、そうした意志が感じられるドキュメンタリーだった。

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 ―で、アシタカはいきなり冒頭で呪われますよね。あれは一番最初で呪われることにすごく大きな意味がありますよね?
 宮崎「そうですね。不条理に呪われないと意味がないですよ。だって、アトピーになった少年とか、小児喘息になった子どもとか、エイズになったとか、そういうことはこれからますます増えるでしょう。不条理なものですよ」
 ―『風の帰る場所』宮崎駿

 僕が小児喘息になったのは5歳くらいで、ひどい時は週に3日くらい、夜中に発作を起こして呼吸困難に苦しんでた。病気にならなければ、僕という人間は全く、完全に別の人生を送ってたはずだ。病気と自分は切り離せない。
 
 僕の卒業論文は、「子どものコスモロジー」をテーマにした。サンタクロースとか「想像上の存在」が題材になったのだけど、最初の頃は「病気の子どものコスモロジー」を取り上げようとしてた。「医療人類学」って分野がある。患者はときどき、自分の病気を、そうだな、「運命」って呼んだり、何か特別なものとして位置づけたりすることがある。病気にかかる原因とかは説明出来るだろう。遺伝とか環境とか。でも、「なぜ、よりにもよってこの僕が? 他のみんなは健康なのに?」その問いに答えてくれるものはない。僕もこの問いを、何年もの間、呼吸困難でもうろうとしながら真夜中の空めがけて放り投げたものだった。答えは無かったけど、問いの残骸が中心になって、色んなことを考えた。ファンタジーに魅かれた理由のひとつもきっとここからだ。そこでは全てが必然的なものだから、僕が苦しんでいることにも確かな意味を与えてくれそうに見えた。

 卒量論文の話だった。僕は自分の経験から、慢性の病気とか、難病を経験した子どもは、世界の見方や、そこでの自分の位置づけ方が、健康な子どもとはちょっと違うんじゃないか、ということを考えたからだ。するとそこで、福島原発事故で被曝した子どもたちのことが浮かんできた。

 2011年の夏、気仙沼にボランティアに行って、子どもたちと一緒にキャンプをした。放射能のことはそれほど心配されてなかったけど、ガレキ撤去やらのトラックが街のあちこちを走ってたり、学校の校庭が使えなかったりで、あまり外に出られない子どもに一杯遊んでもらおう、という企画だった。復興の大変さはあったけれど、子ども達から暗い影は感じなかった。山を駆けて、釣りをして、お祭りごっこなんかもして、僕たちは目いっぱい遊んだ。

 その夏、福島に行く機会はなかったのだけど、合計で3週間ほど東北を訪れた。度々足を運んだのには、個人的理由もある。僕は子どもに向けた物語を書こうと思っている。現実世界とは全く異なるファンタジーの世界を描いた作品でも、児童文学は、いつでも現実と繋がっているものだと思える。そして、現実世界がファンタジーを侵食することも度々起こる。それは例えば、『はてしない物語』でファンタジー世界を覆う「虚無」が、実は現実世界の人間の「偽り」である、そんなイメージだ。

 「児童文学は、まだ児童文学でいられるんだろうか?」原発事故の後、テレビで延々と報道が続いて、多くの人が深刻に悩んでいた。今から観ると、それは「必要以上に」深刻だった、一種のパニックだった、と思われたりするけど、僕はそうなった個々人の体験は無駄なものではないと感じてる。僕も「児童文学はどうなるだろう」身の丈に会わないでかい問いを背負って、東北へ幾度も足を向けた。

 映画の中で、西日本に保養に来た子どもたちが、福島では出来ないことをする。後援で裸足になること、泥ダンゴを作って遊ぶこと。自然に触れ合うことが日常ではなくなっていることを見せられた。僕の卒論で、子ども達が「竜」や「魔女」のような想像上の存在に出会うのは、どれも自然の中だった。けれど今では自然は敵に見える。僕はずっと東京で育って、環境保護団体にいたこともあるくせに、実は「自然」というのにそこまで思いいれが無い。僕の愛する自然は、まず物語の中にあった。けれど、その物語の中に現実が忍び込んでくる。そんなことがどうして? 読者は現実に生きているから。物語はそれだけで独立しているのではないから。

 このドキュメンタリーは、何よりもまず「母親」に向けたものだと思う。福島の母親たち、東北の母親たち、東京の、他の地域の母親たち。逆に、そうでない人にとっては少し距離を感じるかもしれない。けれど僕は、それとは少し違って、「児童文学」という視点からこの映画を見に行ったのだと思う。

 もちろん、この映画から、子どもたちの内心が見えてくるなんてことはない。それは多分、直接捕まえられるようなものではないと思う。「子どもたちも、今自分がどんな状況にあるか、どこかで理解していると思う」あるシーンでの母親の言葉から、かすかに何かを感じるだけ。チェルノブイリ原発の近くで生まれ育った女の子は、生まれつき身体が弱く、病院に通っている。「けれど、この病気が私の人生を台無しにするようなものなんかじゃないって思ってる。病気があったからこそ、アクティブになったってこともあったもの」彼女の言葉に、喘息で苦しんでた頃の僕が共鳴するのを感じた。アシタカは呪われなければ、おそらく最後の決意にたどり着けなかった。

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 映画そのものを見れば、「子ども」というよりは「子どもを被曝から守ろうとする母親」に寄り添った作品だった。放射能、被曝、甲状腺がん内部被曝……様々な出来事に対して、どこまでも「母親の視点」に寄り添っていく。観客は、一度自分の視点を離れて、福島の母親たちの視線に、思考に、その主観から世界を眺めるように促される。

 メディアでもなんでも、原発放射線に関して、「客観的立場に立ってより正しい判断をすること」が求められてきていると思う。十分な知識と科学的根拠、デマには惑わされずに。不安、政治的な目的、疑心暗鬼のあまり、無根拠なデマを声高に叫ぶやつらがいる。専門家や医者だって単純に信用してはいけない。ベクレル、シーベルトといった語、数値に惑わされないこと。

 映画の中に登場する「甲状腺がんの増加」を1つ取っても、様々な意見と、専門家と、データがある。少し調べてみると、ドキュメンタリーでの描き方にも「偏り」がある、という批判が出来るようにも思う。そこにはまた議論があっても良い。けれど、僕がこの映画で重要に思う点は、それとは異なるところだった。

 母親にとっては、放射線よりも先に子どもがいる。まず子どもの未来があって、それを通して、放射線も被曝も理解されていく。子どもを脇に置いた「客観的視点」は、むしろ優先度が低い。それは時に危うく見えることもあるのだけど、決して「客観的=正しい」判断によって無条件に退けられるものではない。

 通学路をガイガーカウンターで測り、ある空き地の放射線量が高いことを見つける。そのときあるお母さんの口から、「これ、子どもが……」という言葉だけがこぼれ、あとは絶句する。そこまで、彼女の決意や思いをカメラは追いかけてきていた。言葉の後ろにある思いがスクリーンからあふれ出てくるようで、僕は打ちのめされる。最も印象に残ったシーンになった。

 このドキュメンタリーは、そうして、福島のお母さんたちの視点を借りて、世界を眺めさせてくれる。母親でもなく、福島にも住んでいない僕にとって、それこそが重要なこと。僕自身が、福島原発事故をどう考えて関わっていくか、と問われれば、やっぱりもっと勉強して、「客観的判断」をしたい、と答えるだろう。映画を見たあとで、読みたい本のリストアップを少し始めた。それでも、自分が勉強して獲得していく客観的判断が、常に「正しい」ものにならないこと。この映画のお母さんたちを思い出すたびに、きっとそれを感じるだろう。