アミャージング・グレイス

シュレディンガーの猫箱ってどんな話?」
 「あるところにシュレディンガーという残忍な男がいました。彼は"科学的実験"と称して、毎晩罪のない猫を箱に入れて毒殺していたのです。夜になると、実験室のケージの中、今日は自分が殺されるのではないか、そう恐れた猫たちが一斉に泣き出すのでした。そんな中、一匹だけ落ち着いてあくびをしている猫がいます。
 『お前、死ぬのが怖くないのかい?また空を見たくないのかい?』
 『ぜんぜん。だってぼく、ここでうまれたんだもの。空なんてみたことないよ。ぼくにとっちゃ、実験を受けることが生きる意味なんだ』
 そうでした、首にB-108と入った名札をかけているその猫は、博士がどこかから捕まえてきた猫ではありません。いつか捕まえた猫が、実験をする前に生んだ仔猫を博士が育てたのでした。父猫は知らず、物心ついたときには母猫も実験にかけられて死んでしまっていました。
 『早く実験を受けて、博士のお役に立ちたいなぁ』
 そんな望みとは裏腹に、B-108はなかなか実験に選ばれませんでした。情がうつったのかって?いえいえ、残忍な博士に限ってそんなことはありません。十分大人にならないと、ちゃんとした実験結果は得られないと考えたとか、そんな理由でしょう。

 毎晩猫が殺されて、面倒くさがりの猫神さまもとうとう重い腰をあげました。『はぁ、人間界までおりていくのは面倒だにゃあ。猫バスを呼んでくれるかにゃ?にゃに?メイのところへ行ってる?トトロはまた再放送してるにゃ……しかたにゃい、歩いていくにゃ』
 
 『…生と死が重ね合わせで存在する…箱を開けるまで確定はしない…むにゃむにゃ』
 今夜も猫を一匹毒殺した博士は、夢の中でも実験をしているようです。

 『ひどいやつだにゃ。ひとつ、こらしめてやるにゃ』
 猫神さまが魔法をかけると、どうでしょう。シュレーディンガー博士の体がみるみる縮んでいきます。猫神さまは、猫サイズになった博士をつまみあげて運びます。博士はまだ寝ぼけているのか、猫神さまのぷにぷに肉球に抱きついて気持ちよさそうです。
 
 ドスン、と実験装置のついた箱の中に放り込まれて、シュレディンガー博士はようやく目を覚ましました。
 『ううーん、ここはどこだ?なんで俺はこんなところにいる?』
 『聞くが良い、シュレーディンガー。わしは猫神だみゃ。猫を残酷に殺しまくったお前を罰するためにやってきたんだにゃ』
 『なんだと!神など非科学的な存在がいるはずがない!』
 『それを言うなら、お前の"重ね合わせの生死"とやらも十分非科学的だにゃ。思考実験だけでやめておけばよかったが、もう黙ってられないにゃ。それ、自分がどこにいるか見てみるにゃ』 
 
 シュレーディンガー博士は、あたりを見回して青ざめました。 
 『マクスウェルやラプラスみたいに悪魔に食わせてやってもいいが、せっかくだから自分の体で実験の結果を試してみるといいにゃ。お前の仮説があってるのなら、半分くらいは生きられるかもしれないにゃ』
 猫神さまは、そう言うと闇の中に溶けるように消えていきます。にやり、と笑った口元だけが暗がりに残って浮かんでいます。博士はそれに向かって急いでよびかけました
 『やめてくれ!助かるはずがない!』
 『実験は成功しないと認めるかにゃ?』
 『認める!認める!もう二度と猫で実験はしない!一生猫を大事にして暮らす!だからどうか命だけは助けてくれ!』
 猫神さま(の口元)がへの字型になりました、どうやら何か考えているようです。
 『それじゃあ、一回だけチャンスをやるにゃ。猫たちの中で、お前の代わりに実験を受けてくれるやつ一匹でもいたら、代わりにお前を助けてやるにゃ。さあ、きいてみるにゃ。誰か!シュレディンガー博士の代わりに実験をうけるやつはいるかにゃ!?』
 猫たちは、これを聞くと、ここぞとばかりにケージをゆすって騒ぎ立てます。
 『誰がそんなやつの代わりになるか!』
 『俺の妻も弟も殺されたんだぞ!』
 『そこで苦しんで死ぬがいいさ!お前の言う"科学"とやらの犠牲になって!』
 猫神さまの口元は、もう一度ニヤニヤ笑いを作って、今度こそ消えてしまいました。猫たちの呪いの大合唱を聞きながら、シュレディンガー博士は、もうこれまでか、とうつむいていました。しかしそのとき、
 『ぼくが実験をうけるよ!』
 一匹の猫がケージから飛び出しました。それはあの、B-108でした。

 【コーラス】
 ―B-108は一度も空を見たことがない
 ―B-108は一度も海を見たことがない
 ―生まれたその日に母親は箱の中で死んだ
 ―ずっとずっと、実験で死ぬ猫たちを見ていた

 ―B-108は自由という言葉を知らない
 ―B-108は希望という言葉をしらない
 ―どうか泣かないで、僕は実験のために
 ―そのために生まれてきて幸福なのだから

 ―B-108の生は定められた生
 ―B-108の生は確定された生
 ―けれどそうではない生とはどんな生だろう
 ―どうかおしえて、シュレーディンガー博士
 【コーラス終わり】

 『僕が、博士の代わりに実験を受けます。僕はそのために生まれてきたのだから!』
 まだ仔猫のB-108は、ケージの出口から思い切りジャンプしたけれどテーブルに届かず、激突寸前にくるり、と回ってどうにか床に着地しました。近くのケージに飛び移って、テーブルの上の実験装置を目指します。ほかの猫たちは、ケージの中から『あんな残忍な男を助けるのはやめるんだ!』『どうせ助かったって、また平気な顔で猫を殺し始めるぞ!』と口々に騒ぎますが、B-108はそれを聞かずに一目散に上っていきました。博士は箱の中で震えながら、その声を聞いていました。とうとう小さなB-108が装置の元にたどり着き、その蓋を脚でノックします。するとどうでしょう。一瞬のうちに博士は箱の外へ、元の体の大きさに戻っているのを見つけました。その代わりに、B-108の姿は消え、どうやら箱の中へと入ったようです。博士はあまりに突然のことが続き、何がなんだかわからなくなっていました。
 (全部夢だったのではないだろうか?)
 しかし、振り向くと、B-108のケージが開いています。それに…ああ、これはどうしたことでしょう!にゃーにゃー騒いでいる猫たちの声、それが何を言っているかがわかるのです。
 『なんてことだ!お前なんて助かるべきじゃなかった!』『猫神さま!戻ってこいつをねずみにしてやってください!』
 (どうも夢でも幻覚でもないらしい。それじゃあ、この箱の中には…!)
 博士は再び青ざめると、ゆっくり箱の元へ近づいて行きました。
 『ああ、俺はなんということをしたんだろう!自分の実験のために沢山の猫を殺して、それに何も感じなかった!こうして命を肩代わりしてもらってようやくわかった!猫の命も人の命もその重さに代わりなどないのだ!』
 博士はそう叫ぶと、震える手で箱の蓋を開けました。果たして―B-108はそこに横たわっています。
 『おお!B-108!なんとかわいそうなお前!ほかの猫たちの言うとおりだ!お前が俺の代わりに死ぬことなどなかったのだ!』
 博士はさめざめと泣き、B-108の体を抱き上げてそう言いました。
 『にゃー』
 すると、奇跡が起こりました。死んだと思ったB-108が博士の手のひらの中で立ち上がり、一声鳴いたのです。
 『おお!おお!B-108!良かった!お前は死んでいなかった!』
 『にゃー』
 『いや、実験が成功したかなんて、もうどうでもいいんだ。お前は俺の身代わりになろうとしてくれた!俺はそれを生涯忘れはしないだろう』
 『にゃー』
 『いいや、お前が用済みなんてことはあるものか!お前は死ぬために生まれてきたのではない!俺がお前に教えてやろう。あの海も、空も。そして自由も、希望も!お前がおまえ自身の生を選び取ること、その喜びを!』
 『にゃー』
 『そうだな、まずはお前に名前をつけてやろう。実験番号なんかじゃない、素敵な名前を!』

 それから博士は、捕まえていた猫をすべて解放してあげました。何匹かは逃げる途中でちょっと博士の顔をひっかいていきましたが、もちろん博士はしたいがままにさせました。それからB-108―今は新しい名前を与えられた猫を連れて、旅に出たのでした。

 『そうだ、俺の命を助けてもらった喜びを伝えるため、お前と猫神さまを讃える歌を作ろう!』

 博士は喜びとともにその歌を口ずさみ、ドアを開けて太陽の下へ踏み出します。実験室に残されたシュレディンガーの猫箱の、その蓋はきっともう二度と開くことはないでしょう。生とは、いつも不確定なものなのです

 【コーラス】
 アミャージング・グレイス
 なんてあま〜い響きだにゃ
 猫の恵みは私を救ってくれる
 命続く限り猫を讃え続けるにゃ」(終)

東京レインボー・プライド2014

・先週末、レインボー・プライドのイベントに参加してました。

http://www.tokyorainbowpride.com/web/

●ブース
・代々木公園のブースでは、様々なブースがあった。同性結婚のウェディングプランナー(ブースには袈裟を着たお坊さんの姿があった)、LGBTをモチーフにしたイラスト、アート作品の展示、書籍販売、協賛なのかライフガードの車が止まり、缶を無料で配っている。企業ではIBMマイクロソフトのものもあったが、パンフレットが置いてなかったり、何をしているのかよく分からないままだった。

・駐日外国大使館のブースがいくつも。イギリス、アメリカ、イスラエル、北欧、目立ってたのはスピーカーを設置していて、目に鮮やかなオレンジのオランダ。アメリカブースでは虹色のキスマークにメッセージを寄せる、というキャンペーンを行っている。他のブースでも短冊に願いを、というもの、写真にメッセージを書いて撮影するもの、があったよう。

・服装は本当に様々で、カラフルな服を着ている人がやや多いように感じたけれどカジュアルな人が大半。ドラァグクイーンドラァグキング、とひとくくりにしてしまっていいのか分からないのだけど、羽や華美な装飾のついたドレス、レインボー・カラーや露出の多い人はとても目立つ。

●パレード(文中の「フロート」というのは山車=装飾された車、そしてそれに先導されるグループのこと)
・パレードには安部昭恵(安部首相夫人)が参加しており、僕自身の少し前のフロートに乗っていたのだけど、特に紹介も無く、後にネットでそれを知る。午前中のステージで発言したのだろうか?

・パレード途中、協賛のGAPの店の前では店員がプラカードを掲げてこちらに手を振る。

・これまで自分が参加したデモと比べると、警官の数がとても少ない。信号の関係でパレードは急がされ、フロートごとの分断はかなり大きく、数分の間次のフロートがこない、という状況もあった。列はボランティア・スタッフが誘導していたけれど、車がすぐ近くを走っており、路上駐車している車の脇を通るときは狭くてちょっと怖い。こうあんけーさつさんたちじゃないかなー、と思う中年男性十名ほどが輪を作ってノートを書いているところを見る。

・子供連れの参加者は沢山見た。少なくとも10組、もっと多かったかもしれない。

・路上にもプラカードやレインボーフラッグを持った人はいつも見えていて気分は盛り上がる。歩道橋の上に沢山のフラッグが見えたときはパレード列全体が大きな歓声をあげた。そんなわけで前の方で早々にパレードが終わった僕は引き返して歩道橋の上で旗を振っていた。

・デモとパレードで、一参加者として最も大きく感じるのは「シュプレヒコールの有無」どう思うかというより、声を張り上げなくていいので喉に優しい。プラカードは様々で、僕がいた列は「エイズはまだ終わっていない」というカードが出発前に配られた。スタッフがごくたまにメガホンで「エイズはまだ終わっていない!リビング・トゥギャザー!」と言っていたけれど、声も優しく、路上にいる人々に向けて主張しているというよりはその場所に言葉をぽん、と置いているような印象だった。他のフローとでは、「私は性的少数者です、あなたのそばにもいます」といったメッセージのプラカードを何枚か、またNO H8! というフロートだと思うけれど、そこには「すべてのヘイトにNO!」と明確な主張のプラカードが目立っていた。

●ステージ(午後のみ参加)
・大使館のスピーチが多数。イギリス大使館はハッピを着て和太鼓のパフォーマンスから始める。なんとなくオリエンタリズム……と斜めに見そうになったけど上手かった。ボリュームちっちゃかった気がするが。イギリス、ニュージーランドで去年同姓婚が合法化されたことを知る。オランダ大使館が「世界で始めて同性婚を合法化しました」というところで大きな拍手。イスラエル大使館は内容というより「これはイスラエル大使館のゆるキャラ、シャロームちゃんです!」に全てを持っていかれた。ドイツでは自身ゲイであることを公開しているベルリン市長のメッセージ。

・バンド演奏を挟んで、政治家のスピーチ。まずは福島みずほが登壇して、石原慎太郎のマイノリティ差別発言を非難、同性愛者の自殺者相談、パートナシップ法、同姓婚の合法化や、議員会館での勉強会に触れ、最後にナチスドイツの同性愛者差別を引き、戦争と差別の結びつきから安部政権を批判して終わる。安部首相夫人の参加を思い出すところ。話の内容をこんなに覚えてるのは、スピーチのリズムと勢いが本当に上手くて会場の空気を引っ張ってたから。

乙武さんが登壇。自身のGIDの友人について「元の身体」というのをテーマに語る。トイレに連れて行ってもらうときの混乱についても話していたけれど、ユーモアのある話で会場と一緒に笑いながらも、以前のジェンダー論の授業で「トイレと更衣室」というのは様々なセクシャリティが身体の性、しかも男女の二分に還元されてしまう場所・装置、と聞いたことを思い出す。

・その後、世田谷区、豊島区、中野区の議員が登壇して、自身がセクシャルマイノリティであることや、区の中での提言、試みなどを述べていく。世田谷区は複数人で部署があって色々な活動、中野区は駅ガードで写真展があったり、区長の支持が得られたり、といった話。

・その後、いくつかのダンス。レイチェルさんというパフォーマーのステージがとてもインパクトがある。ステージでの衣装の早代わり。着物で歌舞伎や日舞っぽい動きを入れながらダンスミュージックで踊るのが楽しい。ステージの最前列に子供連れのお客さんが座っていて、パフォーマンスの合間にインタビューされてドギマギしていた。

・ラストのステージは夏木マリLGBTへの連帯を「愛」という一語に集約して普遍化してメッセージにしているように感じた。などと言ってるのは跡付けで僕は最前列でぶんぶん頭を振ってちょっと泣いていた。「蜷川さんにちょっと褒められてその気になった」という歌詞にクスリ。昨日のクラブイベントでもそうだったけど、LGBTにとって特別な意味を持つ楽曲、というのがある。RENTの歌だったり、「let it go」だったりするのだけど、最後に歌われた「over the rainbow」もそうで、LGBTのシンボル、多様性を示すレインボー、またその主題歌の映画『オズの魔法使い』の女優と、プライドパレードの最初の原因でもあるストーンウォールの反乱……と深くつながる曲であることを後からwikiで読んで色々と背景・文脈を知ると違うものが見えてくる。曲が始まった瞬間の歓声の中にも様々な思いがこめられていたのだろう。

●フィナーレ
・ボランティアスタッフが登壇、代表から挨拶があり、韓国でのクィア・パレードとの紹介と連帯表明、20年前に最初のゲイ・レズビアンパレードを行った方のスピーチでは大歓声が起こった。来年はフェスティバルも二日間になりさらに規模が拡大するそう。パレード参加者は2千数百名くらい、と発表されていた。

●後記
・僕自身は、LGBTのイベントに参加するのは初めてで、きっかけは同じ学科の人権団体でインターンしている友人に誘われたから、ということ。ただし、大学でジェンダー論勉強会を主催したり、図書館にジェンダー関連の書籍を入れる選定を手伝ったり、ということをしていた。ジェンダー論への興味は児童文学の中に描かれる男女イメージがときにステレオタイプを作るのに無自覚に見えるところ。それら全てをジェンダーフリーにすればいい、ということには反対する思いがあるけれど、これから文章を書いていくなかで自覚的でありたいとは良く考える。

・もう一つの参加理由は、随分前のことになるけれど、僕自身がアジテーションシュプレヒコールにあふれたデモに違和感を感じて、音楽を使ったパレードの主催側として参加したこと、そして世界のLGBTのパレードの写真は、きらびやかで、参加者が最も楽しそうにしているように見えて、機会があれば行ってみようと感じていたことが背景。

・ステージ上で議員さんの一人が、パレードを「デモ」と言い間違えて笑いが飛び、客席から「いや、デモだよ!」と答える一幕があった。デモとパレードの違いは客観的に比較的明確なものも(例えば上に書いたシュプレヒコールの有無)、人の解釈によってまちまちなものもあると思う。LGBTとその不平等改正の支援者たちの内側に向けられたものと、沿道にいる人々やメディアを通して全国に向けたメッセージ。LGBTについて知ってもらい、様々な差別、不平等な立場の改正を望む、という意図があるとしたら、それはデモに近づく(デモの定義を「非参加者に何かしらの要求・働きかけをするもの」とするなら)

・参加者の意志や主張ひいては返答や行動の責任ということまで考える。僕はなにげなくパレードの申し込みに行ったところ、HIVに関するフロートに参加し、「エイズはまだ終わっていない」というプラカードを持って歩いた。HIVLGBTの関連は、映画やミュージカルでで見たRENT、以前大学の授業で聞いたイブ・セジウィックのエピソードくらいしか知らない。アメリカで以前、HIVと同性愛者が一まとめにされて差別されていたこと、けれどそれは知識でしかない。パレードに参加したことで、僕自身がそのフロートの団体 living together にアクセスするきっかけにはなったけれど、沿道から、もちろんツイッターからでも「あなたはそれを支持しているんですね?どうお考えですか?」と聞かれたのなら、それは知識ではなくて主張を聞かれている。「まだ良く知らないんです」と出てくる答えはこう。「デモ」の参加者の態度としてはこれは問題に思えるけれど、パレードならそうとも言えないだろうか。tokyo rainbow pride のウェブサイト、代表挨拶には以下のように書かれている

【マジョリティに向かって「私たちはここにいる」と声を上げ、マジョリティの中に分け入って「共に生きよう」と手を携える。LGBTフレンドリーな支援者たちと共に行進し、多様性を共に祝福することが、その第一歩だと思っています。】

 「多様性を共に祝福する」という言葉にうなずくけれど、そこで止まらず知識も、意見も、主張もより積み重ねて行きたいとも思う。

・具体的な話では、パレードは音楽がガンガンにかかって楽しいし、シュプレヒコールが無くて気楽なのはそうなんだけど、もっと色々楽しめないかなぁ、なんてことも考えてしまう。クラブみたいにときおり止まっては交差点でみんなで踊ったり(昔知人がそういうパフォーマンスをしたそう)移動型のテーブルを引きずって何か飲みながらリラックス、パレード内を駆け抜ける聖火ランナーだったりパフォーマーで重層的にしたり、ラップやポエトリー・リーディングをしたり、演劇も音楽も、インスタレーション・アートなどもっとアートを持ち込んでもいいし「公的・日常的でオープンな空間である路上に祝祭を持ち込む」ことを楽しみたい。

アメリカン・ポップ・アート展 感想


 唐突だが、『西の魔女が死んだ』という小説の中で、主人公の女の子が、父親にこう聞くシーンがあったと思う。「死んだらどこへ行くの?」「きっと、完全な無だよ。存在も魂も何も残らない」彼女はその後で、西の魔女こと彼女の祖母の言う生まれ変わり、死後の魂の世界から安らぎを得ることになる。この小説には素晴らしい点があるけれど、このお父さんのシーンは僕は好きになれなかった。主人公の女の子は、きっとウォーホルの絵を好きじゃないだろうと感じる。

 また唐突だが、先日フランシス・ベーコン展に行ったとき、とても息が詰まる感じがした。比喩を使って話すと、ベーコンの絵を見ることは、バーかどこかで彼の隣に座って、理解しあえないことも分かってるのに延々と不毛で感情的な論争を声の限りに叫びあうような感じだった。「てめえなんか勝手にしろ!死ね!」で終わり僕か彼のどちらかがドアを叩きつけるようにして美術館を去る。

 一方で今日のウォーホル(後で書くけれど、今日僕が何か強く感じたのはアンディ・ウォーホルだけだった)は、似ているようで違った。彼はどこか遠く、何光年か離れた場所の惑星の上にいる。僕はやっぱり今回もウォーホルとは理解しあえないように感じている。にも関わらず、彼の惑星に向って、何か通信する信号を出して、向うからも返ってきて、それは何か嬉しいような、何か分かるような感じが―それはウソだとしても―する。

 以前ウォーホルのドキュメンタリーを二本ほど見た。一番印象に残っているのは、彼のエルヴィスやモンローの反復が、キリスト教の「イコン」である、という解釈だった。子供の頃に彼が通っていた教会の壁に大量にかけられていた聖画、彼の時代での聖人は、例えばモンローというアイドルだったという話。だからだと思うけれど、今日、ウォーホル・ルームとでも言えそうな天井の高い部屋にウォーホルの反復作品が沢山かかっている部屋に入ったとき、教会に入ったような感じがしたのだろう。おそろしく格好つけて言うなら、僕はそこに座り込んで、「祈り」という名目で展示のレビューを手元の電子メモ帳にバチバチ打ち込んでいた。

 上の反復の話にもう1つ、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」のアウラの考えを右手に持ったとすれば、左手に抱えていたのはこの言葉「自分の芸術の背景に死がなければ、それは背景がまったくないということです」 (ミヒャエル・エンデ)だけど、ポップアートの作品の背景に死はあるだろうか?これは後述。

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 ちょっと一息ついて、どんな風に展示を見たかという話。最近、美術館の見方が結構変わってきていて、まず全部の作品をかなり早めにあるいて見ていく。気にならなければ一瞥して次。逆に気に入るのがあれば立ち止まる。最後にたどり着くまでいつもは10分くらい。今日はかなりの量があったのでもう少しかかった。それから、どこかのイスにカタログが置いてあるからこれを開いて批評文を読む。ベーコンのときは、ベーコン自身のインタビューが乗っていてこれで見方が大きく変わった。

 今回はと言えば、いくつかあったけれど、まずポップアートがロスコやニューマンやデ・クーニングやポロック(?)の抽象表現主義の後、それに影響されつつも対抗する形で出てきたこと。(ポロックは以前展示を見たときこの人たちとちょっと違う+他三人はアメリカ外のバックグラウンド持ちなので?つき)これを確認。そしてポップ・アートはイギリスに端を見ることが出来るけど、ラウシェンバーグもウォーホルもジョーンズもリキテンスタインアメリカ生まれ。そして「大衆消費文化」というアメリカ特有のテーマ性を持ってること。

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 僕は抽象表現主義に対しては、ロスコ、ニューマン、ポロックの絵画を見たことがある。ポロック展はかなり詳しく書いたのノートがここ(https://twitter.com/donkeys__ears/status/174857639380008960/photo/1 https://twitter.com/donkeys__ears/status/174858105727889408/photo/1)にあるんですがとても見づらいですごめんなさい。
 
 この人たちの絵が好きです。ロスコはオレンジ色が落ち着くし包まれてる気分になる。ニューマンはチラッ、と部屋の中に見えたときから背筋がビリビリきました。ポロックは有名な作品よりも「ブラック・ペインティング」に夜の物語を幻視しました。だから、ポップ・アート展は正直そんなに楽しめないかな、とも思ってました。

 ところが、空けてみると反対。展示に入るより以前に、展示ポスターにあるウォーホルのキャンベル缶、それから入ってすぐのところにある、コレクションの持ち主の二人の顔のウォーホルの絵。これで頭がウォーホルにカチリ、と切り替わってしまった。この展示の仕方、他の人はどう受け取ってるんだろう?僕にとっては致命的なものだった。

 これでラウシェンバーグも、ジャスパー・ジョーンズも、そこにはポロックを思わせるような表現主義みたいなものも沢山あったのにも関わらず、僕はむしろそれらの絵を鬱陶しく感じるようになってしまった。ラウシェンバーグとかちゃんと見たらきっと好きなのに!『アンフォルム』の口絵の「ゴールドペインティング」とか「何これカッコイイ!」とずっと思ってたのに!ちくしょう!
 (『アンフォルム』を読んでから行くときっとよかったんでしょうねぇ、でも書いてることがまだ難しく感じるんです)

 僕の頭にこびりついてたのは、上に書いたとおり聖画、反復、死。でも後半のウォーホルまでのそれは、こういっていいならポップ以前のもの。例えばジャスパー・ジョーンズの「セミ」という絵が結構気に入りました。(Jasper Johns cicada で検索してね)が、これを何やら薄れさせてみたり、暗くしてみたり、みたいなアプローチはそれ以前の「死」のイメージとあまり変わらないように思えたんです。段々弱ったり、老いたり、腐ったりして死ぬ。人間と同じですね。

 一方で、段々とウォーホルに近づいていく感覚は受けました。ラウシェンバーグはまだ人の手が大きく入っていて、写真とかの外の素材と、それを配置し着色する人の手がメタ的に上にいる。ジョーンズになると、時折人間のほうが旗とか的とか素材に従事しているように感じることがある。「数字」「アルファベット」というモチーフはきっとそうですね。0〜9、あるいはA〜Zで「全てを表せる」=「反復出来る」ヘブライ文字とか初めにロゴスありきとか色々言えそう。あるいはどこまでも続くアルファベットのオールオーヴァー=ポロックに通じるところ。

 オルデンバーグは、と言うと今回の展示からはちょっと外れてたように感じました。この人、ポップアート飛び越えてもっと現代側に近いという印象。

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 そして、ウォーホル・ルームが現れる。大きくて天井の高い部屋に、ポスターのキャンベル缶はじめ有名な絵の数々。

 聖画―そう思ってみるからなのだろうけれど、全てが意味を持って見えてくる。(ウォーホルは無表情で「ちがうよ」とか言いそうだけれど)権力―偶像―自然―食物―死 ここで考えるのは、けれど、ポップアートを美術館に展示するというのはどういうことなんだろう?「いやいや、そんな問いかけはもう十分飲み込んでるんだよ。それにごらん、この部屋を。君も聖堂のようだと感じてるようじゃないか。ウォーホルのプリント作品は確かに複製技術によるものだけど、この空間は、インスタレーション作品としてここにある」
 
 そうは言っても僕は考える。友人が働いていた美容室の壁にかかっていたウォーホルのプリント。google画像検索すれば現れる高精彩画像。もしも作品が無限コピー可能かつ劣化しないものであれば、美術館に飾られ、配置されること自体が絵の意味を色々変えてしまうということ……という話はきっと「ミュゼオロジー=美術館学」というところの基本部分で出てくると思うので、ちょっとくらい本を読んでみよう。勉強不足。

 反復―これ以上ない反復、ジャスパー・ジョーンズの反復とは違って、ウォーホルのそれは変化はあるのだけれど、一つ一つの個別性が残らない反復……わかりづらいな。例えば、ジョーンズの数字の絵がある。0〜9までの数字が様々に着色されてて、それぞれが個性を持っているように感じる。ウォーホルのキャンベル缶は一つ一つ味のラベルが異なるのだけど、それぞれが独立してるのではなく、やっぱり同じ味のものも沢山ある。個別性がない。マリリン・モンローのほうもそうで、異なる彩色を確かにしてあるのだけど、それは無限個あるパターンを代表するいくつかで、どこまでも、無限に同じものを作ることが出来る。ように感じる。この反復は劣化のない反復。デジタルの反復に近い。思えば他の作品は、どこか劣化の楽しさを残しているように思える。劣化することが価値になる。

 死―ようやく一番話したかったところにたどり着いた。エンデの言葉を再掲「自分の芸術の背景に死がなければ、それは背景がまったくないということです」

 電気椅子の写真、飛び降り自殺する人の写真の聖画。そして反復。無限にいくらでも反復できるということは、死を回避することに等しい。リセットを押せば何度でも再会できるRPGのキャラクターは死なない。すると、『ゲド戦記』のこの言葉が思い出される「生が贈り物なのだとしたら、死もまた贈り物ではないのでしょうか?」
 マリリン・モンローがまたどこかで一枚複製される。反復されて、静止していること。立ち止まることはつまり死ぬことだと『ウォーターシップダウンのうさぎたち』は語る。それが極限に来たとき、死を感じる。というよりも生が無化されることで死もまた無化される。電気椅子の写真に象徴される死も、キャンベル缶やマリリン・モンロー同様に反復され、無限個に増えていく。

 それから、『西の魔女が死んだ』の話ももう一度思い出す。人間が死んだら、パチン、意識は途切れて後は無になる。なんて安らかなことじゃないか。この部屋にいるとそんな風に思えてくる。 

 人間くささや汚さがそこにはごっそり抜け落ちていて、手の介在が見えたこれまでの作家に比べて、そこにはもはや作品を選んだその手つきさえも見えてこない。偶然性も、対象を選んだ恣意も、どこかで消えてしまったように思う。

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 けれどウォーホルには、キャンベル缶のラベルが剥がれた絵がある。(andy warhol campbell torn で検索してね)無限×永遠に偏在する缶の傷つきが、永遠のほころび、「これまで同様の凡庸な死」へと引き戻す一枚。だからその一枚を、僕は憎んで嫌いながら、同時に大好きで安心するようにも思う。残念にも、嬉しくも思う。不思議なことに、そこではウォーホル流の虚無の方が崩れ落ちて、死後の魂の不滅や生まれ変わりの方がむしろ当たり前のように感じられてくる。

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 ウォーホル以降は割愛。ゴメンナサイ

ジーククローネ発売記念交流会 レビュー

 GREEから発売されたばかりのトレーディング・カードゲーム、『ジーククローネ』の発売記念交流会@秋葉原に行ってきました。

 カラオケパセラのパーティルーム……ってこんな風になってるんだ、と感心。座り心地の良い椅子と広いテーブルは、カードショップには悪いけれどゲームをするにはぐっと良くて、環境も大事だよなー、と思わされることしきり。

 驚いたのは、最初にGREEの方から挨拶があったきり、あとは3時間の間ひたすら対戦、対戦。新発売のゲームの体験会なのに、「イベントだ!」という感じは全くなくて、「こんなもんなのかなぁ」と思わされる……のだけれど、後から思い返してみればむしろ武道の大会じゃないけれど、質実剛健、対戦する以外に何を語らんや。つまるところ、3時間、時間を忘れてたっぷりカードゲームを楽しむことが出来ました。

 前回の体験会に比べると、その楽しさは段違い……というか別モノでしたね。各スターターデッキに含まれているレアカードの使い方で、戦略の幅が大きく広がるのを感じられました。
 

 僕はカードゲーム完全初心者(これまでゲームしたことも、カードゲームを主題にしたマンガ・アニメを見たこともない)で、前回体験会まではイマイチつかめていなかったカードの楽しさを今回少しだけ垣間見たような気がしました。

 まず、ゲーム終盤の「戦争」とも形容出来そうな総攻撃。ここでのカタルシスがとても楽しい。これが凄すぎてよく守りを忘れカウンターを食らってしまう。相手も守りが強かったりすると、将棋で相手を詰ませるとき熟考するような感覚もありました。

 で、終盤が見えると今度は中盤、ここでは「攻めながら守る」という非常に頭を使う場面になってい(ることがようやく今日分かってき)て、そうなると強めのキャラクターを沢山入れておけば「逆転登場」「アシスト」にガンガン使えるなー、と考えたりして、これまであまり見えていなかった「戦略」を立てることが感じられました。カードゲーム、奥が深いし考えさせられるんだな、と。


 デッキやゲームの話は、僕はまだまだ素人なのでこの辺りにして、カードゲームを初めてみて何を楽しんでいるのかな、ということを少し。

 僕はおそらく、そんなに沢山お金は使わず、ゆるく楽しみたいな、と考えています。(今のところは……)他のゲームをやったことがないので比較できないんですが、この『ジーククローネ』はそれには結構適してるような気はします。システムはシンプルなんだけど、序盤・中盤・終盤と局面があって、戦略が色々見えて、考え込むのが楽しい。勝敗にはこれも今のところそこまで興味がないのだけど(今日何回勝って負けたか全然覚えてない……)上に書いたような戦略を考える楽しさはたっぷり味わえたことからも。

 カードゲームは、毎週のように沢山の「大会」があって、勝ち負けを競っていて、その楽しさも分かるように思うのですが、僕は今回のようにおしゃべりを交えながらまったりプレイする会、みたいなものにもっと参加したいなー、と思いました。初心者で身の回りに対戦相手が全然いないと、入口は狭いのです。実際、今回のイベントが「トーナメントの大会」だったら、僕はすぐに敗退してそれほど楽しめなかったようにも思います。

 これも初心者意見ですが、ジーククローネだけじゃなくてカードゲームというものそれ自体に慣れてないから、いろいろミスをしてしまうんですね。今日も沢山やらかしました。これが真剣勝負だったらと思うと怖くなります。もう次にプレイするときは大会かなー、と思うと緊張して二の足を踏みそう。まったりプレーヤー向けのリーグ戦みたいなのがあったらなー、と思ったりも。

 ともあれ、もう少しTCG体験を続けようと思います。今感じているのは、トレーディングカードゲーム,TRPG,ソーシャルゲーム,MMORPG,アーケードゲームの、重なったり違ったりするところを色々比較出来るだろうということ。比較して何するか、というのが実際は一番重要なのだと思いますが、今はまだそれぞれを楽しめればと思っています。

二騎の会 『雨の街』 感想

 劇の感想です。ツイッターベースなのでやや読みにくいでしょうか?ご容赦を。
 土日までやってるようなので、興味を持たれた方はぜひ。
 http://www.komaba-agora.com/line_up/2013/05/nikinokai/

 ★ ★ ★ ★ ★ 

■二騎の会『雨の街』@こまばアゴラ劇場を観劇してきた。個人的な経験を強く呼び起こされる物語で驚く。(1)
 
■以下ネタバレを含みます。もしも明日・明後日行く方がいたらご注意を。

■多分22歳頃、バンドを一生懸命やってた頃、少しだけ仲のよい女の子がいた。知り合ったのは同じ企画に出演して友達になったバンドのライブ。というよりその打ち上げ。(2)

■「デヴィルズ」というバンドで、ヘヴィーメタルかと思えばそんなことは無く、どっちかといえばポップロック。シンセがキラキラ鳴ってる感じ。バンド名の由来は、曲名が全部「肉体の悪魔」とか「マクスウェルの悪魔」とか「悪魔が来たりて笛を吹く」とか悪魔と入ったものばかりだったから。(3)

■で、その女の子は確かベースの従姉妹だった。打ち上げの居酒屋で隣の席になって、あれやらこれやら話したら、お互いに児童文学が好きということで意気投合する。(4)

■(「児童文学が好き」以外の理由で異性と意気投合した記憶がありません……)

■ただ、お互いがでっかい片思いをしていることで恋愛対象にならないのはすぐに分かり、デヴィルズのライブの後に一緒にご飯食べる、くらいの付き合いだった。(5)

■あるとき、デヴィルズが「ラプラスの悪魔」という新曲を演奏して、その帰りにファミレスで「あのラプラスって何?」と質問された。僕は知ったかぶりをして、かなりオカルト交じりの説明をしたような気がする。(6)

■「世界中のありとあらゆるデータを……原子の一粒に至るまで把握して計算できる悪魔がいたとしたら、次に起こる未来を完全に予測できる」とかなんとか。(7)

■そこから、「人間に自由意志はあるか無いか」とまあ良くありそうな話へ移っていく。僕は自身がバンドをやっていて、それこそ「オリジナリティの悪魔」に取り付かれていたわけで(ちなみに、後に僕はデヴィルズにこの題名の曲を提供することになる)…(8)

■…自由意志を否定されかねない「ラプラスの悪魔」はネガティブな考えとしか捉えていなかった。狭量な話だと思うが、それ以外の視点があるとは思っても見なかったのだ。(9)

■だから、彼女が「やー、その決まってるってのマジいいねー」(キャラは僕の脳内脚色が含まれます)と、その考えをポジティブに捉えるのがさも当たり前のように、同意を促してきたとき、僕はうまく理解することが出来なかった。(10)

■「いや、ちょっと待って」僕は色々反論したと思う。全て決定付けられているんだ。そこには僕らの自由意志が介入されない。こうして話すことも、いや、話したいな、とか誰かに恋する気持ちでさえも、前もって決められたものなんだ、とか色々。(11)

■彼女の反論はこうだった「えでも、それはそうだとしても、自分が、自分で、『自由だー』っと思っていれば、それで自由っしょ?」(キャラはry)(12)

■僕の「オリジナリティの悪魔」が目覚め、さらに反論をした。色々な例えを使って。「それはNPCみたいじゃないか」「NPC?」「ノンプレイヤー・キャラクターって言って、ゲームとかで、話しかけても同じパターンでしか返せない人。まあロボットみたいな」(13)

■ここでようやく演劇『雨の街』へ。こことは違う異世界「雨の街」に迷い込んだ男。彼を助けて家に泊めてくれる女性。彼女は一日中雨を眺めて暮らしている。彼女を見ていて、僕が最初に感じたのが「NPC」のようだ、という印象だった。(14)

■実は、そこから例の女の子との会話を連想したのだった。劇の中の彼女は、次第に分かってくるのだが、同じようなセリフしか言わない。おそらくは30か40ほどのセリフのパターンがあり、それをうまく組み合わせる。(15)

■演劇ではセリフも限られるから、最初はそれには気がつかない。しかし、徐々に、彼女の反応が一定であること、繰り返されていることに違和感を感じ始める。同じようなセリフでは、彼女は似たような表情をし、似たような動作をする。(16)

■それがNPC、ある有限のパターンを組み合わせて人に対処するような存在に見えてくる。(いや、僕たちだってそのパターンが多いだけで、有限なものじゃないか、という話は置いといて)(17)

■やがて、彼女は「存在」というよりも「現象」であるように思えてくる。『クロス†チャンネル』というゲームがある。ある一週間を何度も何度も繰り返す、というストーリーだ。何百回、何千回というループが行われたとき、登場人物の一人が言う(18)

■「私は神様になりたかった。今まではそれが無理だった。それは「存在」から「現象」になるということ。でも、今の私たちは現象に近い。」それぞれの一週間はそれぞれ異なっているけれど、何千回と繰り返すうちにいくつかのパターンが生まれてくる。(19)

■「涼宮ハルヒの憂鬱」を見た/読んだ人は「エンドレスエイト」を思い出してもいいかもしれない。ある有限個のパターンがあったとしたら、それは現象であり、現象は永遠である。(ちょっと待ってね今説明します)(20)

■『雨の街』の女性を、いくつかの行動・会話のパターンで構成されたNPCのようだ、と考えてみる。ゲームのNPCなら、そのデータを全て手に入れれば、何度でもそれを再現できる。それはそのキャラクターの全てを手に入れたということだ。(21)

■同じように、『雨の街』の女性のパターンを全て記憶したとする。言葉、表情、行動、そのパターンの全てを。「お茶を入れますね」「お役に立てず申し訳ありません」(22)

■そうして彼女の全てを、自分の中で再現出来るようになったとする。それは数百かもしれない、数千かもしれないが、有限である。それをすべて覚えたとき、彼女がいなくなってしまっても―つまり「透明」になってしまっても―会話することが可能になる。(23)

■これは相当な個人的解釈である、ということは分かってもらえていると思うけれど、僕にはそんな風に見えていた。「透明になっている」というのは、妄想でもなければオカルトでもない。彼女は「透明になった彼」という現象を手に入れている。だから、会話することが出来る。(24)

■だけど、この考え方じゃあるひとつの(あるいは他にも?)セリフが残されてしまう。「私が透明になった後なら、あなたの助けになるかもしれないのですが」僕は、このセリフだけが劇の物語の中から浮き出して見えた。静かに発せられるセリフだけれど、印象に残っている。(25)

■もう一度、僕の友達の女の子の話に戻ろう。僕たちは結局、ライブ終わりに会う以外にはデートみたいなことはしないまま疎遠になってしまったけれど、22歳の僕が、彼女といっしょにこの劇を見に行ったと想像してみる。(26)

■劇が終わったあと、きっと僕は「あの男は街を出て行ったよ」と話すだろう。そして彼女は「いや、きっとあの家に残ったよ。そしていつか透明になるんだ」と答えるだろう。(27)

■おしまい。

call/recall 感想

 先々週の舞台『call/recall』について、もう内容がかなり遠くなってしまったけれど感想を。

 以前感想として「気分の悪くなる舞台」ということをつぶやいたけれど、これはちょっと複雑な話で、以前よりいくつかの劇で考えていたことが今回にも当てはまった。
 もう一つの感想としては「人間」に出会えなかった、というもの。

 
 まず残念だったのが、ダンスの印象が見ているときから散漫で、ほとんど楽しめなかったということ。「ダンスはどうだったか?」と聞かれると、舞台を見終えたその日でも何も覚えていなかったと思う。目の前の薄暗い空間の中に、あまりに情報量が多すぎたこと、また役者が発言しているとき、声だけを聞いているのではなく発言者に集中してしまう…よってダンサーの動きが追えなかったのでは、ということを思う。舞台上に役者が登場して台詞を言っていると、ダンスがぜんぜん見えなくなってしまった。

 ダンスが「あった」な、と思い出せるのはただ3つのシーンで、まずは「ちがう、ちがう!」と連呼してダンサーを躍らせるシーン。この場面自体も、コンテクストから切り離された怒号、それこそ単に自意識を見せられているだけのようで、気分が冷めて見ていたのだけど、最後のほうになってくると「ちがう」という声が打楽器のように聞こえていって面白かった。

 もう一つは大勢のダンサーが駆け回って、最後に役者の一人がそれを受け止めるシーン。ただ、この場面を含めて、ダンサーと役者の関係性は(多くのシーンで見せられていたような印象があるにもかかわらず)あまり感じられなかった。上に書いたように「役者の台詞」に集中させられていることもあって、ダンサーと演劇というまったく別々の作品が同時進行になっているような印象が残っている。そして僕はダンスのサイドをノイズとしてしか見られなかった。

 「見方」というのが確立していないのかもしれないが、薄暗い照明のせいか位置のせいか、それとも役者とダンサーの動きの違いのせいか、目の前の空間が「スクリーン」のように、つまり二次元平面のように捉えていたようにも思う。こうなると、三次元の動きのダンスは面白く感じられない。

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 「気分が悪い」と書いたのは、かなり以前の劇『竜送りの夜に』また先日の東京デスロック『東京ノート』、他にもさまざまな劇で感じていることだけれど、物語のコンテクストから切り離されたところで、怒りであったり絶望という負の感情を大きく描こうとして、結果それが「生」の形で、客席に単にぶちまけられているように感じるということ。特に客席と舞台が近い場合や、今回のように「ストーリー」が解体されていて「お話」として見せられていないとき、つまり客席と舞台の区分があいまいになっている場合、僕にとって舞台は「現実」そのものに感じられる。そこで突然のように表明される怒りの感情は、不快・苦痛としてこちらに迫ってくる。もちろん怒りの表現すべてが嫌だといってるのではなく、それが「劇化」もしくは「意味づけ」されていないことに問題を感じる。誤解を招きそうな言い方だが、それは突き詰めていけば舞台上で一方的な暴力が振るわれたり、動物の死体を唐突に見せられるのと地続きだと思う。さらに、そうして現実の延長のように見えるのだけれど、観客の側はそれをただ耐えることしか出来ない。こちらから何も言い返すことも交渉することも出来ず、耳元で怒声を浴び続けているのにただ黙って耐えることしか出来ない苦しみにおかれる。僕はそうした場面が訪れるたびに、それこそ暴力を振るわれているような、意味もなく殴りつけられたような感情にさせられ、耳をふさぐことになった。観劇した日の夜はそれが耳に残って、ネガティブな気持ちになってなかなか眠れなかった。

 一つ言えば、それだけネガティブさを忍び込ませてくる鋭さ、そこには貴重なものを感じる。好きな言葉の一つに、「芸術とはすべて刃であり、観客は一度傷つけられその傷が癒えるときに感動を得る」というのがあるけれど、それだけ傷を得る作品というのにあまり出会っていないことを考えると、問いかけを持った作品だとは言える。それにしてももっと上手な傷つけ方がほしい、とも思う。

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 最初に書いた「人間」に出会えなかった、という話。役者の中を次々と言葉が通り抜けていく、という演出は面白く、たとえば噂が広まっていくというよりは、他人の言葉を身体化して、声に出すと「他人とそっくりに見える」という不思議な効果を生み出していたと思う。話者と聞き手が次々に入れ替わるのは「理解」ということに新しい見方を与えてくれたように思うし、たとえば自分自身、誰かにショックなことを言われたらそれを自分自身でも言い直してみたらいいのかも…などということを感じさせられた。

 ただし、役者たちのキャラクター付けとストーリーがあまりに中途半端なものに思えた。最初の「あの人」の物語が語られていく時点(それはモチーフもそうだし、断片的な語られ方もそうだけど)でストーリーに対する興味をかなり早い段階で奪われてしまった。劇全体を楽しめなかったのは、このストーリーがあまりに普通に、俗なものに聞こえたところが大きいと思う。

 他人の見ている側面と自分の見ている内面との間にズレがあったり、それどころか「自分のことも自分でわからない」そうしたテーマが背景に見えていて、それは僕自身にとっても実感のあることなのは確かなのだけれど、うまく表現されて伝わってきたかといえば首をかしげる。ごく当たり前の話を陳腐な物語で語っているような印象がぬぐえなかった。

 これまで挙げた、次々に話者と聞き手が変更したり、ダンスがあったり、物語が断片になっていたり…というさまざまな方法があるから、物語とそれらが絡み合い、さまざまな意味を見せてくれるのかも…という予測をもって見ていたのだけれど、僕には読み取れるものがなかった。これならば、もっと抽象的な段階でとどめておけばよかったのに、というのが感想となってしまう。物語の必然性が見つからず、「別に内容は落語の何かでもかまわなかったのじゃないか?」と疑問に感じている。

 そのストーリーの上で、断片化された物語を演じる役者たちは、方向付けがいくらかされていたようにも思うけれど、「役」というものははっきりとは見えないままだった。それぞれの個性が見えてこないままに過ぎていき、まるで「朗読する装置」がベルトコンベアに運ばれて舞台に出てくるような印象が残る。役者本人と客席との向き合い方という意味でも、あるいはストーリーの中で構築された役の、という意味でも、そこには「人間」としての存在が感じられず、何か風や波のような、現象と対話をさせられたようなむなしさがあった。

岡田淳さん講演会レポート

 児童文学作家の岡田淳さんの講演会に行ってきました。非常に有名な方なんだけど、海外のファンタジーばかり読み漁っていた僕は、岡田さんの作品はほとんど未読で、かろうじて「二分間の冒険」だけ読んだかもなー、という程度。それでも、非常に得るところの多い講演だったので、レポートしてみます。

 「これは講演会の度にいつもしているんですよ」という、「ドリトル先生の台所」の話から始まる。岡田さんは小学校の図工の先生を長くやっていたそうなのだけど、その図工準備室を様々に演出するなかで、「ああ、これは以前読んだドリトル先生の台所のようだな」とふと思ったのが始まり。どの本かも、その後にどうなるかも覚えていないのに、不思議とその台所のシーンだけは強く覚えていたのだという。背丈ほどもある大きなストーブがあって、そこに描かれている挿絵も、台所で肉をあぶって食べるのだけど、その肉汁が滴る描写もはっきりと覚えている。久しぶりに読み返してみよう、と学校の図書室で手にとって見ると、実際は挿絵もなく、「肉を炙る」のではなく、フライパンでソーセージを焼いている。

 「一体どうして、自分は間違って覚えていたのだろう?なぜこのシーンを強烈に記憶していたのだろう?」そこから色々考えはじめる。思い当たったのは、そこに登場する少年のこと。彼はここで、ドリトル先生と共に旅を始める。親から離れて、自由になる。そして彼の隣には、「信頼できる大人」であるドリトル先生の姿がある。岡田さんは、この少年に自分を重ねて、自由やドリトル先生にあこがれていたのでは、と感じる。

 それで納得したかと思うと、また違うときに、このことを思い出していたら、今度は当時の自分と両親と交わした会話が思い出される。それらの体験とドリトル先生の読書の体験がリンクしていたのではないか?そう考えが変わる。そしてまた、幾度も講演で話すうちに、色々と解釈が変わっていく。

 エピソードの中心にあるのは、ドリトル先生の姿から、「人は信じることが出来る」という思い。冒険への期待、自由へのあこがれから「人生は生きるに値する」そうして、人生を肯定してくれる、そうした力が児童文学にある、という思いを抱いているということだった。

 笑いを交えて話してくれたけれど、非常に感動的で、つい涙ぐんでしまいそうだったのだけど、ぐっと堪えることが出来たのが、僕自身がこのことについて同じ事を読み、考えていたからだと思う。その児童文学の特徴というのは、トールキンならば「幸せな大詰め」と呼んだだろうし、今江さん(児童文学作家)は、児童文学は子どもの「幸福を擁護するもの」と述べている。エンデであれば「希望であるわたしたちの中の子ども」のためもの、と言うだろうし、ケストナール=グウィンの本の中にも形を変えてこの考えが表れている。

 最近読んだルソーもここに付け加えていいかもしれない。彼も『エミール』の中で、「自然」そして「人間の本性」の善性、強さを子どもが持つ特徴の延長のように見ている。文脈はちょっと違うけれど面白い。

 文化人類学に繋げてみると、これも授業で読んだばかりのレヴィ=ストロース『野生の思考』の「具体の科学」を思い出す。この中で、呪術・儀礼と自然科学の違いとして、呪術は「因果関係を全体で捉えるもの」とされていた。一方で自然科学は、僕たちからすれば当たり前だが、因果関係を部分だけで捉える。「重力が働くから→物が落ちる」というように。ところが、呪術・魔術・超自然の力の考えでは、この因果関係をもっと拡張し、世界全体をも巻き込んでとらえる。
 一例として、エヴァンズ=プリチャードの見たアフリカのアザンデ族がある。シロアリにかじられて小屋が倒壊し、一人の男が怪我をした。自然科学に基づく考え方なら、[シロアリ→劣化→倒壊]という点にのみ因果を見るけれど、ここでは「なぜその男が、小屋が壊れたときそこにいたのか」が問われる。そして、その原因として「妖術」が引き出される。そのことにさえ「意味」を見出していく。

 僕が文化人類学に進もうとした理由、漠然としたファンタジーとの関連の一つがここにあるかもしれない。神話・儀礼・呪術の世界は、「全てに意味がある」という点でファンタジーと共通している。エンデが「バスチアンは無意味ばかりな現実世界から、全てに意味があるファンタージエンにやってくる」と書いてたのを思い出す。



 
 「ドリトル先生の台所」に自らのイメージを付け加えていた、というのにつながる話として、『ヤマダさんの庭』という作品のお話。ある日見た夢のイメージからで出来た本なのだそうだけど、ヤマダさんが自分の家に庭があったこと。そこに人魚が住んでいたことを次々と「思い出し」ていく話。それらを思い出すたび、ヤマダさんは「ああ、あれは本当にあったことだったんだな。本で読んだ話だとばかり思っていたよ」とつぶやく。そこでは意味の世界(ファンタジー)と現実が溶け合っている。
 夢で見た世界、本の中で体験した世界は、「現実そのもの」に他ならない―僕自身ずっと感じていたようなことだけど、このお話の素敵なところは、それが再び色鮮やかにもう一度やってきてくれるところだと思う。ヤマダさんは庭でそれを「再び見出す」。

 そうはいっても、同じことは実際に起こりえると思う。僕自身、大学に来る前に書いていた長編の中で似たようなシーンを描いていた。ある登場人物が絶望しそうになったとき、これまで読んだファンタジーの登場人物たちが引っ張り戻しに来る。それはまるで、外的な力のように、自分とは独立して存在しているようにはっきりと感じられる。そう考えてみると、童話が教えるのは「人間」なのだとも思えてくる。決して「モラル」そのものではない、と思うのは、モラルも人間の中で生きられて初めて価値が生まれているから。

 「思い出す」にもう一つ付け加えておくと、『くまのプーさん』のクリストファー・ロビンが、お父さんから話を聞きながら、「覚えてないのかい?」と問われて、「ぼく、思い出せそうだ」と答える場面。彼は100エーカーの森での出来事を、「現実そのもの」として生きている。
 
 岡田さんに起こったことは、僕自身も幾度と無く体験しているものなので、非常に強く頷いていた。例えば「ナルニア国物語」で、アスランの背中に乗ってルーシーとスーザンが駆けるシーンなんかは、強烈なイメージがあったのに、本を開いてみると挿絵はない。あるいは「はてしない物語」の後半。いくつものシーンが、途方も無く長い印象があるのに、実は3ページだけ……ということばかり。

 「ドリトル先生」では、僕はカゲロウに話を聞くシーンを覚えている。ドリトル先生が昆虫の言葉も覚えて、カゲロウと話すのだけど、カゲロウは一日しか生きられないので、先生は「人間でいえば数年の時間を私が奪ってしまった!」と嘆くという場面。
 岡田さんにならって、僕の中でその場面が残っていた理由を考えると、当時の自分がぜん息に苦しんでいて、死ぬことを強く考えていたからでは、と思い当たる。

 遠回りしたが、「ドリトル先生の台所」に戻ると、岡田さんがこれと「図工準備室」を繋げて考えたのは、わくわくするような冒険の始まりとなる場所となること。そして少年とドリトル先生のように、自分が子どもにとっての「信頼できる大人」になれれば、という願いがあったのだと思う。
 この話が僕の中へストンと落ちてきたのは、「結界」ということをずっと考えていたから。最初にそれを強く意識したのは、友人がやっていた古着屋で、そこには様々な人が集まってきていた。店には彼女やその友人の絵が飾られていて、その絵、並べられた商品、もちろん彼女自身の人柄、そして訪れる人々との交流によって、その場所には特別な空気が生まれていた。僕なりに言えば「結界が強固になっていった」すると、その場所ではいろんなことの意味が変わり始める。悲しみ、苦痛が切り離されたものではなく、やがて訪れる幸福への試練として位置づけられる。
 「居場所」という言葉はよく用いられるけれど、これも文化人類学で学んだ「固有な意味空間」つまり、呪術が効力を持つように、その場所では特有な意味の結び付けがなされる、そうした見方をしたら面白いかもしれない。
 
 僕自身は、大学に入学した後に立ち上げた「芸術ゼミ」を、そうした場所にしよう、「結界」を張ろう、という思いを持っていた。それは必ずしも「場所」である必要がなくて、「人」の周囲にも存在できる。簡単にいいかえれば「ムードメーカー」なんだけど、中二病的に「結界士」として自分を位置づけて。
(まあイメージとしては「ファイアーエムブレム」の支援効果 [隣接するユニットの攻撃・回避に+10%] が一番近いんですけどね)
 さっき話した長編小説でも「結界」という考えは大事なものとして登場させた。主人公の働く喫茶店がその「場所」。また、彼に近い存在として描かれる少女がいるのだけど、小説を書くうちに僕は彼女にどんどん惹かれていった。彼女は自身が苦しい状況でも、常に周囲の雰囲気を明るくするような結界を持っている。色々あるのだけど、最後には東大をモデルにした難関大学に合格する……というわけで、実は僕が東京大学を目指したメインの理由の一つが彼女の影響だったりする。
 とはいえ「なんで30歳で大学に?」という質問に、「自分の小説の登場人物に影響されて」と答えればポカーンとされるのが目に見えてるので、これは誰にも言ったことがなかった。もちろんもっと色々な理由の複合で、「これ!」という一つがあるわけではないのだけど。

 講演の後半では、実際に物語を作る際にどのようなことをしているか、というのを大盤振る舞いで見せていただいた……のだけど、自分がやっていることに近くてびっくり。例えば、物語の時系列にそって、登場人物たちの動きが示された「チャート」。群像劇や、大人数が会話するときにこうしたものを書くそうなのだけど、僕自身もう何年も前からやってたことでシンパシーどころでない。
 僕のノートが特徴的だと良く言われるけれど、実はこの「チャート」の作成が原型の一つだったりする。

 『扉の向うの物語』では、かなり詳細なアイディア帳と、設定資料集を作ってから書き始めたそう。また、物語に登場するブロックの模型も実際に作成。これも、僕自身が設定魔というやつで、件の長編の執筆の際には、部屋中に地図やら登場人物の相関図を張って、バインダーには100ページに及ぶ設定資料。ついでに舞台となる喫茶店のメニュー・ブックも自作していたので、「同じことしてる!」とこっそり嬉しくなる。

 最後に、『こそあどの森』を執筆した際のスケッチブックを見せていただく。チャートから始めたり、夢から始まったり、詳しい資料を作ったり……物語の最初、出発点はそのお話によって様々だけど、この場合は「絵」がその出発に。
 「物語の始まりは一つのイメージから」と語るル=グウィンの話を思い出す。(『闇の左手』の新装版の表紙はそのイメージが描かれたものですよ)


 スケッチブックで目を引いたのが、沢山の建物、家やそこでの部屋の間取り。三角屋根の部屋、地下のあるまるでツボのような家、樹と一体化している家……
 岡田さんにとって、「建物・建築」というのは特別な意味があるのかな、と思ってそれを質問してみる。図工の先生ということに関係して、実際に建築の勉強もされていたのかな?なんてことも感じて。答えは、特別勉強したわけではないけれど、建物や部屋の間取りは、物語の世界を納得(自分にとっても、読者にとっても)するために、よこう描いている、ということ。「リアリズムを持たせるため」とおっしゃっていたのだけど、これは多分、「ファンタジー世界に現実性を持たせる」のではなく、その「人物の」リアルさの納得、ということだと思う。生活している空間、そこでの行動や、また部屋の間取りや置いてあるものから人が見えてくる。

 芸術ゼミで建築に少し触れたからかもしれないけれど、人と建築というのは想像以上に深い関わりがあると感じる。「ファンタジーと建築」とノートの隅っこに書いたけれど、「部屋」というのは多分子どもにとっても身近に感じられるテーマ……というより「衣・食・住」は誰にとっても自分にひきつけられるものですよね。そう考えると「黒魔女さん」シリーズなんかもちょっと違って見えてくる。そういえば、と思い出すのは、以前「ようこそ先輩」で上橋菜穂子さんが食事やら食器やらの設定を大量に描いていたもの。
 (ちょっと意識的にスケッチブックに何か描こうかな……ところで文化人類学者はスケッチできなきゃいけなかった頃があったと思うのだけど、今はあまりそうでもない…?)

 ただし、単に「建築をファンタジーに取りこめばいい」ということでは全然なくて、逆にひっぱられないように気をつけるくらいでいいとも思う。そうした場所のイメージってのは、言葉より絵の方がずっと説得力あるだろうし。いつか本を出すときには、そうした素敵な部屋、建物の挿絵を載せたいなー、と思いました。建物の機能というより、その場所に付随するあれこれが大事……というわけで、円を描くように「場所」「結界」としての図工準備室にまた戻ってきたところで、レポートを終えようと思います。素晴らしい講演会でした。