岡田淳さん講演会レポート

 児童文学作家の岡田淳さんの講演会に行ってきました。非常に有名な方なんだけど、海外のファンタジーばかり読み漁っていた僕は、岡田さんの作品はほとんど未読で、かろうじて「二分間の冒険」だけ読んだかもなー、という程度。それでも、非常に得るところの多い講演だったので、レポートしてみます。

 「これは講演会の度にいつもしているんですよ」という、「ドリトル先生の台所」の話から始まる。岡田さんは小学校の図工の先生を長くやっていたそうなのだけど、その図工準備室を様々に演出するなかで、「ああ、これは以前読んだドリトル先生の台所のようだな」とふと思ったのが始まり。どの本かも、その後にどうなるかも覚えていないのに、不思議とその台所のシーンだけは強く覚えていたのだという。背丈ほどもある大きなストーブがあって、そこに描かれている挿絵も、台所で肉をあぶって食べるのだけど、その肉汁が滴る描写もはっきりと覚えている。久しぶりに読み返してみよう、と学校の図書室で手にとって見ると、実際は挿絵もなく、「肉を炙る」のではなく、フライパンでソーセージを焼いている。

 「一体どうして、自分は間違って覚えていたのだろう?なぜこのシーンを強烈に記憶していたのだろう?」そこから色々考えはじめる。思い当たったのは、そこに登場する少年のこと。彼はここで、ドリトル先生と共に旅を始める。親から離れて、自由になる。そして彼の隣には、「信頼できる大人」であるドリトル先生の姿がある。岡田さんは、この少年に自分を重ねて、自由やドリトル先生にあこがれていたのでは、と感じる。

 それで納得したかと思うと、また違うときに、このことを思い出していたら、今度は当時の自分と両親と交わした会話が思い出される。それらの体験とドリトル先生の読書の体験がリンクしていたのではないか?そう考えが変わる。そしてまた、幾度も講演で話すうちに、色々と解釈が変わっていく。

 エピソードの中心にあるのは、ドリトル先生の姿から、「人は信じることが出来る」という思い。冒険への期待、自由へのあこがれから「人生は生きるに値する」そうして、人生を肯定してくれる、そうした力が児童文学にある、という思いを抱いているということだった。

 笑いを交えて話してくれたけれど、非常に感動的で、つい涙ぐんでしまいそうだったのだけど、ぐっと堪えることが出来たのが、僕自身がこのことについて同じ事を読み、考えていたからだと思う。その児童文学の特徴というのは、トールキンならば「幸せな大詰め」と呼んだだろうし、今江さん(児童文学作家)は、児童文学は子どもの「幸福を擁護するもの」と述べている。エンデであれば「希望であるわたしたちの中の子ども」のためもの、と言うだろうし、ケストナール=グウィンの本の中にも形を変えてこの考えが表れている。

 最近読んだルソーもここに付け加えていいかもしれない。彼も『エミール』の中で、「自然」そして「人間の本性」の善性、強さを子どもが持つ特徴の延長のように見ている。文脈はちょっと違うけれど面白い。

 文化人類学に繋げてみると、これも授業で読んだばかりのレヴィ=ストロース『野生の思考』の「具体の科学」を思い出す。この中で、呪術・儀礼と自然科学の違いとして、呪術は「因果関係を全体で捉えるもの」とされていた。一方で自然科学は、僕たちからすれば当たり前だが、因果関係を部分だけで捉える。「重力が働くから→物が落ちる」というように。ところが、呪術・魔術・超自然の力の考えでは、この因果関係をもっと拡張し、世界全体をも巻き込んでとらえる。
 一例として、エヴァンズ=プリチャードの見たアフリカのアザンデ族がある。シロアリにかじられて小屋が倒壊し、一人の男が怪我をした。自然科学に基づく考え方なら、[シロアリ→劣化→倒壊]という点にのみ因果を見るけれど、ここでは「なぜその男が、小屋が壊れたときそこにいたのか」が問われる。そして、その原因として「妖術」が引き出される。そのことにさえ「意味」を見出していく。

 僕が文化人類学に進もうとした理由、漠然としたファンタジーとの関連の一つがここにあるかもしれない。神話・儀礼・呪術の世界は、「全てに意味がある」という点でファンタジーと共通している。エンデが「バスチアンは無意味ばかりな現実世界から、全てに意味があるファンタージエンにやってくる」と書いてたのを思い出す。



 
 「ドリトル先生の台所」に自らのイメージを付け加えていた、というのにつながる話として、『ヤマダさんの庭』という作品のお話。ある日見た夢のイメージからで出来た本なのだそうだけど、ヤマダさんが自分の家に庭があったこと。そこに人魚が住んでいたことを次々と「思い出し」ていく話。それらを思い出すたび、ヤマダさんは「ああ、あれは本当にあったことだったんだな。本で読んだ話だとばかり思っていたよ」とつぶやく。そこでは意味の世界(ファンタジー)と現実が溶け合っている。
 夢で見た世界、本の中で体験した世界は、「現実そのもの」に他ならない―僕自身ずっと感じていたようなことだけど、このお話の素敵なところは、それが再び色鮮やかにもう一度やってきてくれるところだと思う。ヤマダさんは庭でそれを「再び見出す」。

 そうはいっても、同じことは実際に起こりえると思う。僕自身、大学に来る前に書いていた長編の中で似たようなシーンを描いていた。ある登場人物が絶望しそうになったとき、これまで読んだファンタジーの登場人物たちが引っ張り戻しに来る。それはまるで、外的な力のように、自分とは独立して存在しているようにはっきりと感じられる。そう考えてみると、童話が教えるのは「人間」なのだとも思えてくる。決して「モラル」そのものではない、と思うのは、モラルも人間の中で生きられて初めて価値が生まれているから。

 「思い出す」にもう一つ付け加えておくと、『くまのプーさん』のクリストファー・ロビンが、お父さんから話を聞きながら、「覚えてないのかい?」と問われて、「ぼく、思い出せそうだ」と答える場面。彼は100エーカーの森での出来事を、「現実そのもの」として生きている。
 
 岡田さんに起こったことは、僕自身も幾度と無く体験しているものなので、非常に強く頷いていた。例えば「ナルニア国物語」で、アスランの背中に乗ってルーシーとスーザンが駆けるシーンなんかは、強烈なイメージがあったのに、本を開いてみると挿絵はない。あるいは「はてしない物語」の後半。いくつものシーンが、途方も無く長い印象があるのに、実は3ページだけ……ということばかり。

 「ドリトル先生」では、僕はカゲロウに話を聞くシーンを覚えている。ドリトル先生が昆虫の言葉も覚えて、カゲロウと話すのだけど、カゲロウは一日しか生きられないので、先生は「人間でいえば数年の時間を私が奪ってしまった!」と嘆くという場面。
 岡田さんにならって、僕の中でその場面が残っていた理由を考えると、当時の自分がぜん息に苦しんでいて、死ぬことを強く考えていたからでは、と思い当たる。

 遠回りしたが、「ドリトル先生の台所」に戻ると、岡田さんがこれと「図工準備室」を繋げて考えたのは、わくわくするような冒険の始まりとなる場所となること。そして少年とドリトル先生のように、自分が子どもにとっての「信頼できる大人」になれれば、という願いがあったのだと思う。
 この話が僕の中へストンと落ちてきたのは、「結界」ということをずっと考えていたから。最初にそれを強く意識したのは、友人がやっていた古着屋で、そこには様々な人が集まってきていた。店には彼女やその友人の絵が飾られていて、その絵、並べられた商品、もちろん彼女自身の人柄、そして訪れる人々との交流によって、その場所には特別な空気が生まれていた。僕なりに言えば「結界が強固になっていった」すると、その場所ではいろんなことの意味が変わり始める。悲しみ、苦痛が切り離されたものではなく、やがて訪れる幸福への試練として位置づけられる。
 「居場所」という言葉はよく用いられるけれど、これも文化人類学で学んだ「固有な意味空間」つまり、呪術が効力を持つように、その場所では特有な意味の結び付けがなされる、そうした見方をしたら面白いかもしれない。
 
 僕自身は、大学に入学した後に立ち上げた「芸術ゼミ」を、そうした場所にしよう、「結界」を張ろう、という思いを持っていた。それは必ずしも「場所」である必要がなくて、「人」の周囲にも存在できる。簡単にいいかえれば「ムードメーカー」なんだけど、中二病的に「結界士」として自分を位置づけて。
(まあイメージとしては「ファイアーエムブレム」の支援効果 [隣接するユニットの攻撃・回避に+10%] が一番近いんですけどね)
 さっき話した長編小説でも「結界」という考えは大事なものとして登場させた。主人公の働く喫茶店がその「場所」。また、彼に近い存在として描かれる少女がいるのだけど、小説を書くうちに僕は彼女にどんどん惹かれていった。彼女は自身が苦しい状況でも、常に周囲の雰囲気を明るくするような結界を持っている。色々あるのだけど、最後には東大をモデルにした難関大学に合格する……というわけで、実は僕が東京大学を目指したメインの理由の一つが彼女の影響だったりする。
 とはいえ「なんで30歳で大学に?」という質問に、「自分の小説の登場人物に影響されて」と答えればポカーンとされるのが目に見えてるので、これは誰にも言ったことがなかった。もちろんもっと色々な理由の複合で、「これ!」という一つがあるわけではないのだけど。

 講演の後半では、実際に物語を作る際にどのようなことをしているか、というのを大盤振る舞いで見せていただいた……のだけど、自分がやっていることに近くてびっくり。例えば、物語の時系列にそって、登場人物たちの動きが示された「チャート」。群像劇や、大人数が会話するときにこうしたものを書くそうなのだけど、僕自身もう何年も前からやってたことでシンパシーどころでない。
 僕のノートが特徴的だと良く言われるけれど、実はこの「チャート」の作成が原型の一つだったりする。

 『扉の向うの物語』では、かなり詳細なアイディア帳と、設定資料集を作ってから書き始めたそう。また、物語に登場するブロックの模型も実際に作成。これも、僕自身が設定魔というやつで、件の長編の執筆の際には、部屋中に地図やら登場人物の相関図を張って、バインダーには100ページに及ぶ設定資料。ついでに舞台となる喫茶店のメニュー・ブックも自作していたので、「同じことしてる!」とこっそり嬉しくなる。

 最後に、『こそあどの森』を執筆した際のスケッチブックを見せていただく。チャートから始めたり、夢から始まったり、詳しい資料を作ったり……物語の最初、出発点はそのお話によって様々だけど、この場合は「絵」がその出発に。
 「物語の始まりは一つのイメージから」と語るル=グウィンの話を思い出す。(『闇の左手』の新装版の表紙はそのイメージが描かれたものですよ)


 スケッチブックで目を引いたのが、沢山の建物、家やそこでの部屋の間取り。三角屋根の部屋、地下のあるまるでツボのような家、樹と一体化している家……
 岡田さんにとって、「建物・建築」というのは特別な意味があるのかな、と思ってそれを質問してみる。図工の先生ということに関係して、実際に建築の勉強もされていたのかな?なんてことも感じて。答えは、特別勉強したわけではないけれど、建物や部屋の間取りは、物語の世界を納得(自分にとっても、読者にとっても)するために、よこう描いている、ということ。「リアリズムを持たせるため」とおっしゃっていたのだけど、これは多分、「ファンタジー世界に現実性を持たせる」のではなく、その「人物の」リアルさの納得、ということだと思う。生活している空間、そこでの行動や、また部屋の間取りや置いてあるものから人が見えてくる。

 芸術ゼミで建築に少し触れたからかもしれないけれど、人と建築というのは想像以上に深い関わりがあると感じる。「ファンタジーと建築」とノートの隅っこに書いたけれど、「部屋」というのは多分子どもにとっても身近に感じられるテーマ……というより「衣・食・住」は誰にとっても自分にひきつけられるものですよね。そう考えると「黒魔女さん」シリーズなんかもちょっと違って見えてくる。そういえば、と思い出すのは、以前「ようこそ先輩」で上橋菜穂子さんが食事やら食器やらの設定を大量に描いていたもの。
 (ちょっと意識的にスケッチブックに何か描こうかな……ところで文化人類学者はスケッチできなきゃいけなかった頃があったと思うのだけど、今はあまりそうでもない…?)

 ただし、単に「建築をファンタジーに取りこめばいい」ということでは全然なくて、逆にひっぱられないように気をつけるくらいでいいとも思う。そうした場所のイメージってのは、言葉より絵の方がずっと説得力あるだろうし。いつか本を出すときには、そうした素敵な部屋、建物の挿絵を載せたいなー、と思いました。建物の機能というより、その場所に付随するあれこれが大事……というわけで、円を描くように「場所」「結界」としての図工準備室にまた戻ってきたところで、レポートを終えようと思います。素晴らしい講演会でした。