東京大学E.S.S. ドラマセクション 「マクベス」 感想

 パンフレットの最初に書かれた文字『「演劇」は「エンターテインメント」です』を呼んで早速不安にさせられる。シェイクスピア演劇にまつわる「伝統」そこからくる「シリアス」なイメージに対しての発言だろうと思う。
 シェイクスピアの時代には、確かに彼の劇は「エンターテインメント」として「も」楽しまれていたのかもしれないが、それは1600年の文脈ではないかと感じる。『マクベス』がエンターテインメントだとして、1600年のイギリス市民が、あるいは歴史の様々な人々が、あるいは現代のイギリスの人々にとって、「エンターテインメント」がどのようなものかは異なると感じる。重厚な運命がキャラクターたちに降り注ぎ、禍々しい災禍に見ているこちらまで悲痛の叫びを上げる―という「エンターテインメント」があっていい。

 その一文は「絵画はエンターテインメントです」とか「詩はエンターテインメントです」というくらい意味のないことだと感じる。ある意味においてはそうかもしれないけれど、「エンターテインメント」という言葉は僕にはエクスキューズにしか聞こえない。
 (ここでの用い方が他の「まず楽しんでもらうため、エンターテインメントとして作りました」というような意味とは違うとしても)

 演劇の内容としては申し分なかったと思う。というか、ただただ「マクベス」だった。音楽のポピュラーさがあまり効果的でなかったことを除けば、各パートもかなり良かった。にも関わらず、「演出」の点から僕はこの舞台が好きにはなれなかった。



 なぜかと言われれば、マクベスも、マクベス夫人も徹底的に「人間化」してしまっていたからだ。
 数ヶ月前、光文社古典新訳文庫で『マクベス』を読んだときのイメージと、この劇の二人はかけ離れていた。
 もちろん彼らは人間であってもいいのだけど、例えばシェイクスピアお得意の韻文、これを読み上げるときには、彼らは神話の中の英雄の言葉で語っているのではないか。

 一幕五場
 マクベス夫人『来い、悪霊ども―世にも怖ろしい残忍さで満たすのだ―私の血潮をどろりとこごらせ―さあ、来い、闇ぶかい夜、真っ黒い地獄の闇に身を包め』

 こうした言葉の「重み」が、頭上の翻訳字幕では十分に表現されていなかったような気がする―というかメディアの性質上どうにもならない。
 例えば蜷川幸雄は、『演出術』で確かこんなことを書いていた(うろ覚えです)
  
 「シェイクスピアの劇では、翻訳の文章が軽すぎれば分かりやすいが言葉の力が足りない。逆に重くすれば意味が取りづらくなる。そこで、文章は重いままでも、役者に勢いよく早口で発話させる」

 そんなわけで、「ハムレット」での超絶早口が生まれたのだと思う。
 ところが今回の舞台の字幕翻訳では、例えば安西(古典新訳文庫)の訳文を使うことは出来ない。重すぎて読んでいる間に話が進んでしまうからだ。

 

 
 訳文がそうだからかは知らないが、演出家のマクベスの解釈もこれに従うものだったと思う。
 マクベス夫人は魔女の黒い血を引き受けず、マクベスは英雄ではなく権力欲に狂った一人の男以上の者には見えなかった。
 韻と台詞以外で違和感を感じたのは、マクベスと夫人が抱き合うシーン。それは非常に人間的な、現代的な所作に見えて違和感を感じていた。
 役や演技の問題ではなく、これは演出の視点に思える。
 
 ところで、ラスト付近のレノックスがマクベスを讃えて殺されるシーン、これは安西訳には無いし、少しググって見た限りでは本文にはなかったのだが、オリジナルで付け加えたものだろうか?(異本にある?)
 マクベスが「それでも」王たる存在である、ということを示した台詞だけど、これが、マクベスの「運命に翻弄されながらもやり遂げる」姿を讃えるものなら、上で批判したことの埋め合わせにはなるかもしれない。言い換えれば「英雄」としてのマクベスが少し戻ってくる。

 確かにマクベスも夫人も、人間として浴深さの中に落ち込んでいたけれど、その背後にはあの魔女たちの、というよりその向うにいるはずの悪魔、サタンの姿が透けて見える。アダムとイブを誘惑したヘビのように、そうした「最も禍々しい」存在としての魔女、その邪悪な誘惑に乗って致死量の運命に押しつぶされる―ってな大仰なところがあまり見えなかった。魔女たちは「小悪魔」の域に留まり「邪悪・災禍」まで達していなかったように思います。
 
 古典新訳の解題で<陰惨な世界と赤い血>という節があるが、自分が抱いていた「血まみれ」な印象が、この舞台では薄く感じる。劇が進むほどに、狂気とともに「血の赤」が舞台を満たしていく。しかしその血は神聖さも含んでいる……そんなイメージを個人的には抱いていた。


 さらに探してみると、マクベスとバンクォーの幼少時代のシーンも無いし、ラストにフリーアンスを登場させるのもおそらくオリジナルと思われる。もしかしたらほかにも色々あるのかもしれない。上のレノックスのシーンはうまく付け加えたなー、と思ったけれど、この二つのシーンは見ているときから「シェイクスピアっぽくないなー」とかなりの違和感があった。悪いというわけではないけれど、現代的で脚本から浮いてる感じ。

 原作を削るのではなく「付け加える」ことってどうなんだろう?という疑問がわきあがったけれど、それはまた別の話。野田秀樹はじめ原作改変は色々な形でなされているし、単純にオリジナルじゃないから悪い、ということは全然ないと思うけど、イギリス人に「レノックスの最期いいよねー」と言って話がすれ違っちゃうのはちょっと辛い。まあ原作読めばいいんだけど。



 上の「重さ」「神話」と関係するところだが、ブランク・ヴァース(規則的な韻律(meter)は持つが、押韻(rhyme)は持たないのが特徴―wiki)がそれほど感じられなかったのが、もしかしたら一番不満な点だったと思う。それとも意識はされていたのに、僕がちゃんと感じられなかっただけ?

 名文、見所と言われてるらしい「tomorrow,tomorrow…」のところなんかはその典型で、マクベスが嘆きの感情を表現しようとして、叫んだり声を震わせているせいで、ブランク・ヴァースのリズムが全く出てなかったと思う。実を言うとここが最も残念だった点。英語、原文でシェイクスピアをやることの最大のメリットはこの韻文だろう、と僕は思っていたのでがっかりしました。演技は「迫真」だったのだが、それがむしろ邪魔になったように思う。

 上との関連というのは、シェイクスピアの劇は散文で書かれている部分は俗な部分、韻文になると「聖」というか、ここまで書いてきた言葉だと「英雄」のような、詩的な部分、重さを表現するものになっていること。韻文に入ると、観客はそこからシリアスな場面が始まる、と分かるらしい。これによって、二つの言葉⇔世界が区切られる、ということなんだけど、それがあまり伝わってこなかった。

 最後に付け加えると、音楽が最もマクベス夫婦の神話・英雄的部分をはぎとっていたように感じた。「メロドラマ」として、それこそ「エンターテインメント」としては効果的な選曲だったかもしれないが、独白・嘆くシーンでかかる曲は「ほら、悲劇だよ?」と言われているかのようで冷めてしまった。



 さんざん嫌いと言っておいてなんだが、それは演出の方向性の話であって、良かったと思う瞬間は沢山ありました。特にマクベスマクベス夫人・バンクォーの三人の演技は力強くて迫力を感じた。血のりはちょっとチープだったけど、バンクォーの亡霊が現れるシーンの入りはすごくドキッとさせられた。舞台も格好良かったし、照明も工夫していた……最前列で見てたのだけど、もっと高い位置から見たら楽しかったかもしれません。