call/recall 感想

 先々週の舞台『call/recall』について、もう内容がかなり遠くなってしまったけれど感想を。

 以前感想として「気分の悪くなる舞台」ということをつぶやいたけれど、これはちょっと複雑な話で、以前よりいくつかの劇で考えていたことが今回にも当てはまった。
 もう一つの感想としては「人間」に出会えなかった、というもの。

 
 まず残念だったのが、ダンスの印象が見ているときから散漫で、ほとんど楽しめなかったということ。「ダンスはどうだったか?」と聞かれると、舞台を見終えたその日でも何も覚えていなかったと思う。目の前の薄暗い空間の中に、あまりに情報量が多すぎたこと、また役者が発言しているとき、声だけを聞いているのではなく発言者に集中してしまう…よってダンサーの動きが追えなかったのでは、ということを思う。舞台上に役者が登場して台詞を言っていると、ダンスがぜんぜん見えなくなってしまった。

 ダンスが「あった」な、と思い出せるのはただ3つのシーンで、まずは「ちがう、ちがう!」と連呼してダンサーを躍らせるシーン。この場面自体も、コンテクストから切り離された怒号、それこそ単に自意識を見せられているだけのようで、気分が冷めて見ていたのだけど、最後のほうになってくると「ちがう」という声が打楽器のように聞こえていって面白かった。

 もう一つは大勢のダンサーが駆け回って、最後に役者の一人がそれを受け止めるシーン。ただ、この場面を含めて、ダンサーと役者の関係性は(多くのシーンで見せられていたような印象があるにもかかわらず)あまり感じられなかった。上に書いたように「役者の台詞」に集中させられていることもあって、ダンサーと演劇というまったく別々の作品が同時進行になっているような印象が残っている。そして僕はダンスのサイドをノイズとしてしか見られなかった。

 「見方」というのが確立していないのかもしれないが、薄暗い照明のせいか位置のせいか、それとも役者とダンサーの動きの違いのせいか、目の前の空間が「スクリーン」のように、つまり二次元平面のように捉えていたようにも思う。こうなると、三次元の動きのダンスは面白く感じられない。

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 「気分が悪い」と書いたのは、かなり以前の劇『竜送りの夜に』また先日の東京デスロック『東京ノート』、他にもさまざまな劇で感じていることだけれど、物語のコンテクストから切り離されたところで、怒りであったり絶望という負の感情を大きく描こうとして、結果それが「生」の形で、客席に単にぶちまけられているように感じるということ。特に客席と舞台が近い場合や、今回のように「ストーリー」が解体されていて「お話」として見せられていないとき、つまり客席と舞台の区分があいまいになっている場合、僕にとって舞台は「現実」そのものに感じられる。そこで突然のように表明される怒りの感情は、不快・苦痛としてこちらに迫ってくる。もちろん怒りの表現すべてが嫌だといってるのではなく、それが「劇化」もしくは「意味づけ」されていないことに問題を感じる。誤解を招きそうな言い方だが、それは突き詰めていけば舞台上で一方的な暴力が振るわれたり、動物の死体を唐突に見せられるのと地続きだと思う。さらに、そうして現実の延長のように見えるのだけれど、観客の側はそれをただ耐えることしか出来ない。こちらから何も言い返すことも交渉することも出来ず、耳元で怒声を浴び続けているのにただ黙って耐えることしか出来ない苦しみにおかれる。僕はそうした場面が訪れるたびに、それこそ暴力を振るわれているような、意味もなく殴りつけられたような感情にさせられ、耳をふさぐことになった。観劇した日の夜はそれが耳に残って、ネガティブな気持ちになってなかなか眠れなかった。

 一つ言えば、それだけネガティブさを忍び込ませてくる鋭さ、そこには貴重なものを感じる。好きな言葉の一つに、「芸術とはすべて刃であり、観客は一度傷つけられその傷が癒えるときに感動を得る」というのがあるけれど、それだけ傷を得る作品というのにあまり出会っていないことを考えると、問いかけを持った作品だとは言える。それにしてももっと上手な傷つけ方がほしい、とも思う。

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 最初に書いた「人間」に出会えなかった、という話。役者の中を次々と言葉が通り抜けていく、という演出は面白く、たとえば噂が広まっていくというよりは、他人の言葉を身体化して、声に出すと「他人とそっくりに見える」という不思議な効果を生み出していたと思う。話者と聞き手が次々に入れ替わるのは「理解」ということに新しい見方を与えてくれたように思うし、たとえば自分自身、誰かにショックなことを言われたらそれを自分自身でも言い直してみたらいいのかも…などということを感じさせられた。

 ただし、役者たちのキャラクター付けとストーリーがあまりに中途半端なものに思えた。最初の「あの人」の物語が語られていく時点(それはモチーフもそうだし、断片的な語られ方もそうだけど)でストーリーに対する興味をかなり早い段階で奪われてしまった。劇全体を楽しめなかったのは、このストーリーがあまりに普通に、俗なものに聞こえたところが大きいと思う。

 他人の見ている側面と自分の見ている内面との間にズレがあったり、それどころか「自分のことも自分でわからない」そうしたテーマが背景に見えていて、それは僕自身にとっても実感のあることなのは確かなのだけれど、うまく表現されて伝わってきたかといえば首をかしげる。ごく当たり前の話を陳腐な物語で語っているような印象がぬぐえなかった。

 これまで挙げた、次々に話者と聞き手が変更したり、ダンスがあったり、物語が断片になっていたり…というさまざまな方法があるから、物語とそれらが絡み合い、さまざまな意味を見せてくれるのかも…という予測をもって見ていたのだけれど、僕には読み取れるものがなかった。これならば、もっと抽象的な段階でとどめておけばよかったのに、というのが感想となってしまう。物語の必然性が見つからず、「別に内容は落語の何かでもかまわなかったのじゃないか?」と疑問に感じている。

 そのストーリーの上で、断片化された物語を演じる役者たちは、方向付けがいくらかされていたようにも思うけれど、「役」というものははっきりとは見えないままだった。それぞれの個性が見えてこないままに過ぎていき、まるで「朗読する装置」がベルトコンベアに運ばれて舞台に出てくるような印象が残る。役者本人と客席との向き合い方という意味でも、あるいはストーリーの中で構築された役の、という意味でも、そこには「人間」としての存在が感じられず、何か風や波のような、現象と対話をさせられたようなむなしさがあった。