二騎の会 『雨の街』 感想

 劇の感想です。ツイッターベースなのでやや読みにくいでしょうか?ご容赦を。
 土日までやってるようなので、興味を持たれた方はぜひ。
 http://www.komaba-agora.com/line_up/2013/05/nikinokai/

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■二騎の会『雨の街』@こまばアゴラ劇場を観劇してきた。個人的な経験を強く呼び起こされる物語で驚く。(1)
 
■以下ネタバレを含みます。もしも明日・明後日行く方がいたらご注意を。

■多分22歳頃、バンドを一生懸命やってた頃、少しだけ仲のよい女の子がいた。知り合ったのは同じ企画に出演して友達になったバンドのライブ。というよりその打ち上げ。(2)

■「デヴィルズ」というバンドで、ヘヴィーメタルかと思えばそんなことは無く、どっちかといえばポップロック。シンセがキラキラ鳴ってる感じ。バンド名の由来は、曲名が全部「肉体の悪魔」とか「マクスウェルの悪魔」とか「悪魔が来たりて笛を吹く」とか悪魔と入ったものばかりだったから。(3)

■で、その女の子は確かベースの従姉妹だった。打ち上げの居酒屋で隣の席になって、あれやらこれやら話したら、お互いに児童文学が好きということで意気投合する。(4)

■(「児童文学が好き」以外の理由で異性と意気投合した記憶がありません……)

■ただ、お互いがでっかい片思いをしていることで恋愛対象にならないのはすぐに分かり、デヴィルズのライブの後に一緒にご飯食べる、くらいの付き合いだった。(5)

■あるとき、デヴィルズが「ラプラスの悪魔」という新曲を演奏して、その帰りにファミレスで「あのラプラスって何?」と質問された。僕は知ったかぶりをして、かなりオカルト交じりの説明をしたような気がする。(6)

■「世界中のありとあらゆるデータを……原子の一粒に至るまで把握して計算できる悪魔がいたとしたら、次に起こる未来を完全に予測できる」とかなんとか。(7)

■そこから、「人間に自由意志はあるか無いか」とまあ良くありそうな話へ移っていく。僕は自身がバンドをやっていて、それこそ「オリジナリティの悪魔」に取り付かれていたわけで(ちなみに、後に僕はデヴィルズにこの題名の曲を提供することになる)…(8)

■…自由意志を否定されかねない「ラプラスの悪魔」はネガティブな考えとしか捉えていなかった。狭量な話だと思うが、それ以外の視点があるとは思っても見なかったのだ。(9)

■だから、彼女が「やー、その決まってるってのマジいいねー」(キャラは僕の脳内脚色が含まれます)と、その考えをポジティブに捉えるのがさも当たり前のように、同意を促してきたとき、僕はうまく理解することが出来なかった。(10)

■「いや、ちょっと待って」僕は色々反論したと思う。全て決定付けられているんだ。そこには僕らの自由意志が介入されない。こうして話すことも、いや、話したいな、とか誰かに恋する気持ちでさえも、前もって決められたものなんだ、とか色々。(11)

■彼女の反論はこうだった「えでも、それはそうだとしても、自分が、自分で、『自由だー』っと思っていれば、それで自由っしょ?」(キャラはry)(12)

■僕の「オリジナリティの悪魔」が目覚め、さらに反論をした。色々な例えを使って。「それはNPCみたいじゃないか」「NPC?」「ノンプレイヤー・キャラクターって言って、ゲームとかで、話しかけても同じパターンでしか返せない人。まあロボットみたいな」(13)

■ここでようやく演劇『雨の街』へ。こことは違う異世界「雨の街」に迷い込んだ男。彼を助けて家に泊めてくれる女性。彼女は一日中雨を眺めて暮らしている。彼女を見ていて、僕が最初に感じたのが「NPC」のようだ、という印象だった。(14)

■実は、そこから例の女の子との会話を連想したのだった。劇の中の彼女は、次第に分かってくるのだが、同じようなセリフしか言わない。おそらくは30か40ほどのセリフのパターンがあり、それをうまく組み合わせる。(15)

■演劇ではセリフも限られるから、最初はそれには気がつかない。しかし、徐々に、彼女の反応が一定であること、繰り返されていることに違和感を感じ始める。同じようなセリフでは、彼女は似たような表情をし、似たような動作をする。(16)

■それがNPC、ある有限のパターンを組み合わせて人に対処するような存在に見えてくる。(いや、僕たちだってそのパターンが多いだけで、有限なものじゃないか、という話は置いといて)(17)

■やがて、彼女は「存在」というよりも「現象」であるように思えてくる。『クロス†チャンネル』というゲームがある。ある一週間を何度も何度も繰り返す、というストーリーだ。何百回、何千回というループが行われたとき、登場人物の一人が言う(18)

■「私は神様になりたかった。今まではそれが無理だった。それは「存在」から「現象」になるということ。でも、今の私たちは現象に近い。」それぞれの一週間はそれぞれ異なっているけれど、何千回と繰り返すうちにいくつかのパターンが生まれてくる。(19)

■「涼宮ハルヒの憂鬱」を見た/読んだ人は「エンドレスエイト」を思い出してもいいかもしれない。ある有限個のパターンがあったとしたら、それは現象であり、現象は永遠である。(ちょっと待ってね今説明します)(20)

■『雨の街』の女性を、いくつかの行動・会話のパターンで構成されたNPCのようだ、と考えてみる。ゲームのNPCなら、そのデータを全て手に入れれば、何度でもそれを再現できる。それはそのキャラクターの全てを手に入れたということだ。(21)

■同じように、『雨の街』の女性のパターンを全て記憶したとする。言葉、表情、行動、そのパターンの全てを。「お茶を入れますね」「お役に立てず申し訳ありません」(22)

■そうして彼女の全てを、自分の中で再現出来るようになったとする。それは数百かもしれない、数千かもしれないが、有限である。それをすべて覚えたとき、彼女がいなくなってしまっても―つまり「透明」になってしまっても―会話することが可能になる。(23)

■これは相当な個人的解釈である、ということは分かってもらえていると思うけれど、僕にはそんな風に見えていた。「透明になっている」というのは、妄想でもなければオカルトでもない。彼女は「透明になった彼」という現象を手に入れている。だから、会話することが出来る。(24)

■だけど、この考え方じゃあるひとつの(あるいは他にも?)セリフが残されてしまう。「私が透明になった後なら、あなたの助けになるかもしれないのですが」僕は、このセリフだけが劇の物語の中から浮き出して見えた。静かに発せられるセリフだけれど、印象に残っている。(25)

■もう一度、僕の友達の女の子の話に戻ろう。僕たちは結局、ライブ終わりに会う以外にはデートみたいなことはしないまま疎遠になってしまったけれど、22歳の僕が、彼女といっしょにこの劇を見に行ったと想像してみる。(26)

■劇が終わったあと、きっと僕は「あの男は街を出て行ったよ」と話すだろう。そして彼女は「いや、きっとあの家に残ったよ。そしていつか透明になるんだ」と答えるだろう。(27)

■おしまい。