アメリカン・ポップ・アート展 感想


 唐突だが、『西の魔女が死んだ』という小説の中で、主人公の女の子が、父親にこう聞くシーンがあったと思う。「死んだらどこへ行くの?」「きっと、完全な無だよ。存在も魂も何も残らない」彼女はその後で、西の魔女こと彼女の祖母の言う生まれ変わり、死後の魂の世界から安らぎを得ることになる。この小説には素晴らしい点があるけれど、このお父さんのシーンは僕は好きになれなかった。主人公の女の子は、きっとウォーホルの絵を好きじゃないだろうと感じる。

 また唐突だが、先日フランシス・ベーコン展に行ったとき、とても息が詰まる感じがした。比喩を使って話すと、ベーコンの絵を見ることは、バーかどこかで彼の隣に座って、理解しあえないことも分かってるのに延々と不毛で感情的な論争を声の限りに叫びあうような感じだった。「てめえなんか勝手にしろ!死ね!」で終わり僕か彼のどちらかがドアを叩きつけるようにして美術館を去る。

 一方で今日のウォーホル(後で書くけれど、今日僕が何か強く感じたのはアンディ・ウォーホルだけだった)は、似ているようで違った。彼はどこか遠く、何光年か離れた場所の惑星の上にいる。僕はやっぱり今回もウォーホルとは理解しあえないように感じている。にも関わらず、彼の惑星に向って、何か通信する信号を出して、向うからも返ってきて、それは何か嬉しいような、何か分かるような感じが―それはウソだとしても―する。

 以前ウォーホルのドキュメンタリーを二本ほど見た。一番印象に残っているのは、彼のエルヴィスやモンローの反復が、キリスト教の「イコン」である、という解釈だった。子供の頃に彼が通っていた教会の壁に大量にかけられていた聖画、彼の時代での聖人は、例えばモンローというアイドルだったという話。だからだと思うけれど、今日、ウォーホル・ルームとでも言えそうな天井の高い部屋にウォーホルの反復作品が沢山かかっている部屋に入ったとき、教会に入ったような感じがしたのだろう。おそろしく格好つけて言うなら、僕はそこに座り込んで、「祈り」という名目で展示のレビューを手元の電子メモ帳にバチバチ打ち込んでいた。

 上の反復の話にもう1つ、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」のアウラの考えを右手に持ったとすれば、左手に抱えていたのはこの言葉「自分の芸術の背景に死がなければ、それは背景がまったくないということです」 (ミヒャエル・エンデ)だけど、ポップアートの作品の背景に死はあるだろうか?これは後述。

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 ちょっと一息ついて、どんな風に展示を見たかという話。最近、美術館の見方が結構変わってきていて、まず全部の作品をかなり早めにあるいて見ていく。気にならなければ一瞥して次。逆に気に入るのがあれば立ち止まる。最後にたどり着くまでいつもは10分くらい。今日はかなりの量があったのでもう少しかかった。それから、どこかのイスにカタログが置いてあるからこれを開いて批評文を読む。ベーコンのときは、ベーコン自身のインタビューが乗っていてこれで見方が大きく変わった。

 今回はと言えば、いくつかあったけれど、まずポップアートがロスコやニューマンやデ・クーニングやポロック(?)の抽象表現主義の後、それに影響されつつも対抗する形で出てきたこと。(ポロックは以前展示を見たときこの人たちとちょっと違う+他三人はアメリカ外のバックグラウンド持ちなので?つき)これを確認。そしてポップ・アートはイギリスに端を見ることが出来るけど、ラウシェンバーグもウォーホルもジョーンズもリキテンスタインアメリカ生まれ。そして「大衆消費文化」というアメリカ特有のテーマ性を持ってること。

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 僕は抽象表現主義に対しては、ロスコ、ニューマン、ポロックの絵画を見たことがある。ポロック展はかなり詳しく書いたのノートがここ(https://twitter.com/donkeys__ears/status/174857639380008960/photo/1 https://twitter.com/donkeys__ears/status/174858105727889408/photo/1)にあるんですがとても見づらいですごめんなさい。
 
 この人たちの絵が好きです。ロスコはオレンジ色が落ち着くし包まれてる気分になる。ニューマンはチラッ、と部屋の中に見えたときから背筋がビリビリきました。ポロックは有名な作品よりも「ブラック・ペインティング」に夜の物語を幻視しました。だから、ポップ・アート展は正直そんなに楽しめないかな、とも思ってました。

 ところが、空けてみると反対。展示に入るより以前に、展示ポスターにあるウォーホルのキャンベル缶、それから入ってすぐのところにある、コレクションの持ち主の二人の顔のウォーホルの絵。これで頭がウォーホルにカチリ、と切り替わってしまった。この展示の仕方、他の人はどう受け取ってるんだろう?僕にとっては致命的なものだった。

 これでラウシェンバーグも、ジャスパー・ジョーンズも、そこにはポロックを思わせるような表現主義みたいなものも沢山あったのにも関わらず、僕はむしろそれらの絵を鬱陶しく感じるようになってしまった。ラウシェンバーグとかちゃんと見たらきっと好きなのに!『アンフォルム』の口絵の「ゴールドペインティング」とか「何これカッコイイ!」とずっと思ってたのに!ちくしょう!
 (『アンフォルム』を読んでから行くときっとよかったんでしょうねぇ、でも書いてることがまだ難しく感じるんです)

 僕の頭にこびりついてたのは、上に書いたとおり聖画、反復、死。でも後半のウォーホルまでのそれは、こういっていいならポップ以前のもの。例えばジャスパー・ジョーンズの「セミ」という絵が結構気に入りました。(Jasper Johns cicada で検索してね)が、これを何やら薄れさせてみたり、暗くしてみたり、みたいなアプローチはそれ以前の「死」のイメージとあまり変わらないように思えたんです。段々弱ったり、老いたり、腐ったりして死ぬ。人間と同じですね。

 一方で、段々とウォーホルに近づいていく感覚は受けました。ラウシェンバーグはまだ人の手が大きく入っていて、写真とかの外の素材と、それを配置し着色する人の手がメタ的に上にいる。ジョーンズになると、時折人間のほうが旗とか的とか素材に従事しているように感じることがある。「数字」「アルファベット」というモチーフはきっとそうですね。0〜9、あるいはA〜Zで「全てを表せる」=「反復出来る」ヘブライ文字とか初めにロゴスありきとか色々言えそう。あるいはどこまでも続くアルファベットのオールオーヴァー=ポロックに通じるところ。

 オルデンバーグは、と言うと今回の展示からはちょっと外れてたように感じました。この人、ポップアート飛び越えてもっと現代側に近いという印象。

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 そして、ウォーホル・ルームが現れる。大きくて天井の高い部屋に、ポスターのキャンベル缶はじめ有名な絵の数々。

 聖画―そう思ってみるからなのだろうけれど、全てが意味を持って見えてくる。(ウォーホルは無表情で「ちがうよ」とか言いそうだけれど)権力―偶像―自然―食物―死 ここで考えるのは、けれど、ポップアートを美術館に展示するというのはどういうことなんだろう?「いやいや、そんな問いかけはもう十分飲み込んでるんだよ。それにごらん、この部屋を。君も聖堂のようだと感じてるようじゃないか。ウォーホルのプリント作品は確かに複製技術によるものだけど、この空間は、インスタレーション作品としてここにある」
 
 そうは言っても僕は考える。友人が働いていた美容室の壁にかかっていたウォーホルのプリント。google画像検索すれば現れる高精彩画像。もしも作品が無限コピー可能かつ劣化しないものであれば、美術館に飾られ、配置されること自体が絵の意味を色々変えてしまうということ……という話はきっと「ミュゼオロジー=美術館学」というところの基本部分で出てくると思うので、ちょっとくらい本を読んでみよう。勉強不足。

 反復―これ以上ない反復、ジャスパー・ジョーンズの反復とは違って、ウォーホルのそれは変化はあるのだけれど、一つ一つの個別性が残らない反復……わかりづらいな。例えば、ジョーンズの数字の絵がある。0〜9までの数字が様々に着色されてて、それぞれが個性を持っているように感じる。ウォーホルのキャンベル缶は一つ一つ味のラベルが異なるのだけど、それぞれが独立してるのではなく、やっぱり同じ味のものも沢山ある。個別性がない。マリリン・モンローのほうもそうで、異なる彩色を確かにしてあるのだけど、それは無限個あるパターンを代表するいくつかで、どこまでも、無限に同じものを作ることが出来る。ように感じる。この反復は劣化のない反復。デジタルの反復に近い。思えば他の作品は、どこか劣化の楽しさを残しているように思える。劣化することが価値になる。

 死―ようやく一番話したかったところにたどり着いた。エンデの言葉を再掲「自分の芸術の背景に死がなければ、それは背景がまったくないということです」

 電気椅子の写真、飛び降り自殺する人の写真の聖画。そして反復。無限にいくらでも反復できるということは、死を回避することに等しい。リセットを押せば何度でも再会できるRPGのキャラクターは死なない。すると、『ゲド戦記』のこの言葉が思い出される「生が贈り物なのだとしたら、死もまた贈り物ではないのでしょうか?」
 マリリン・モンローがまたどこかで一枚複製される。反復されて、静止していること。立ち止まることはつまり死ぬことだと『ウォーターシップダウンのうさぎたち』は語る。それが極限に来たとき、死を感じる。というよりも生が無化されることで死もまた無化される。電気椅子の写真に象徴される死も、キャンベル缶やマリリン・モンロー同様に反復され、無限個に増えていく。

 それから、『西の魔女が死んだ』の話ももう一度思い出す。人間が死んだら、パチン、意識は途切れて後は無になる。なんて安らかなことじゃないか。この部屋にいるとそんな風に思えてくる。 

 人間くささや汚さがそこにはごっそり抜け落ちていて、手の介在が見えたこれまでの作家に比べて、そこにはもはや作品を選んだその手つきさえも見えてこない。偶然性も、対象を選んだ恣意も、どこかで消えてしまったように思う。

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 けれどウォーホルには、キャンベル缶のラベルが剥がれた絵がある。(andy warhol campbell torn で検索してね)無限×永遠に偏在する缶の傷つきが、永遠のほころび、「これまで同様の凡庸な死」へと引き戻す一枚。だからその一枚を、僕は憎んで嫌いながら、同時に大好きで安心するようにも思う。残念にも、嬉しくも思う。不思議なことに、そこではウォーホル流の虚無の方が崩れ落ちて、死後の魂の不滅や生まれ変わりの方がむしろ当たり前のように感じられてくる。

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 ウォーホル以降は割愛。ゴメンナサイ