アミャージング・グレイス

シュレディンガーの猫箱ってどんな話?」
 「あるところにシュレディンガーという残忍な男がいました。彼は"科学的実験"と称して、毎晩罪のない猫を箱に入れて毒殺していたのです。夜になると、実験室のケージの中、今日は自分が殺されるのではないか、そう恐れた猫たちが一斉に泣き出すのでした。そんな中、一匹だけ落ち着いてあくびをしている猫がいます。
 『お前、死ぬのが怖くないのかい?また空を見たくないのかい?』
 『ぜんぜん。だってぼく、ここでうまれたんだもの。空なんてみたことないよ。ぼくにとっちゃ、実験を受けることが生きる意味なんだ』
 そうでした、首にB-108と入った名札をかけているその猫は、博士がどこかから捕まえてきた猫ではありません。いつか捕まえた猫が、実験をする前に生んだ仔猫を博士が育てたのでした。父猫は知らず、物心ついたときには母猫も実験にかけられて死んでしまっていました。
 『早く実験を受けて、博士のお役に立ちたいなぁ』
 そんな望みとは裏腹に、B-108はなかなか実験に選ばれませんでした。情がうつったのかって?いえいえ、残忍な博士に限ってそんなことはありません。十分大人にならないと、ちゃんとした実験結果は得られないと考えたとか、そんな理由でしょう。

 毎晩猫が殺されて、面倒くさがりの猫神さまもとうとう重い腰をあげました。『はぁ、人間界までおりていくのは面倒だにゃあ。猫バスを呼んでくれるかにゃ?にゃに?メイのところへ行ってる?トトロはまた再放送してるにゃ……しかたにゃい、歩いていくにゃ』
 
 『…生と死が重ね合わせで存在する…箱を開けるまで確定はしない…むにゃむにゃ』
 今夜も猫を一匹毒殺した博士は、夢の中でも実験をしているようです。

 『ひどいやつだにゃ。ひとつ、こらしめてやるにゃ』
 猫神さまが魔法をかけると、どうでしょう。シュレーディンガー博士の体がみるみる縮んでいきます。猫神さまは、猫サイズになった博士をつまみあげて運びます。博士はまだ寝ぼけているのか、猫神さまのぷにぷに肉球に抱きついて気持ちよさそうです。
 
 ドスン、と実験装置のついた箱の中に放り込まれて、シュレディンガー博士はようやく目を覚ましました。
 『ううーん、ここはどこだ?なんで俺はこんなところにいる?』
 『聞くが良い、シュレーディンガー。わしは猫神だみゃ。猫を残酷に殺しまくったお前を罰するためにやってきたんだにゃ』
 『なんだと!神など非科学的な存在がいるはずがない!』
 『それを言うなら、お前の"重ね合わせの生死"とやらも十分非科学的だにゃ。思考実験だけでやめておけばよかったが、もう黙ってられないにゃ。それ、自分がどこにいるか見てみるにゃ』 
 
 シュレーディンガー博士は、あたりを見回して青ざめました。 
 『マクスウェルやラプラスみたいに悪魔に食わせてやってもいいが、せっかくだから自分の体で実験の結果を試してみるといいにゃ。お前の仮説があってるのなら、半分くらいは生きられるかもしれないにゃ』
 猫神さまは、そう言うと闇の中に溶けるように消えていきます。にやり、と笑った口元だけが暗がりに残って浮かんでいます。博士はそれに向かって急いでよびかけました
 『やめてくれ!助かるはずがない!』
 『実験は成功しないと認めるかにゃ?』
 『認める!認める!もう二度と猫で実験はしない!一生猫を大事にして暮らす!だからどうか命だけは助けてくれ!』
 猫神さま(の口元)がへの字型になりました、どうやら何か考えているようです。
 『それじゃあ、一回だけチャンスをやるにゃ。猫たちの中で、お前の代わりに実験を受けてくれるやつ一匹でもいたら、代わりにお前を助けてやるにゃ。さあ、きいてみるにゃ。誰か!シュレディンガー博士の代わりに実験をうけるやつはいるかにゃ!?』
 猫たちは、これを聞くと、ここぞとばかりにケージをゆすって騒ぎ立てます。
 『誰がそんなやつの代わりになるか!』
 『俺の妻も弟も殺されたんだぞ!』
 『そこで苦しんで死ぬがいいさ!お前の言う"科学"とやらの犠牲になって!』
 猫神さまの口元は、もう一度ニヤニヤ笑いを作って、今度こそ消えてしまいました。猫たちの呪いの大合唱を聞きながら、シュレディンガー博士は、もうこれまでか、とうつむいていました。しかしそのとき、
 『ぼくが実験をうけるよ!』
 一匹の猫がケージから飛び出しました。それはあの、B-108でした。

 【コーラス】
 ―B-108は一度も空を見たことがない
 ―B-108は一度も海を見たことがない
 ―生まれたその日に母親は箱の中で死んだ
 ―ずっとずっと、実験で死ぬ猫たちを見ていた

 ―B-108は自由という言葉を知らない
 ―B-108は希望という言葉をしらない
 ―どうか泣かないで、僕は実験のために
 ―そのために生まれてきて幸福なのだから

 ―B-108の生は定められた生
 ―B-108の生は確定された生
 ―けれどそうではない生とはどんな生だろう
 ―どうかおしえて、シュレーディンガー博士
 【コーラス終わり】

 『僕が、博士の代わりに実験を受けます。僕はそのために生まれてきたのだから!』
 まだ仔猫のB-108は、ケージの出口から思い切りジャンプしたけれどテーブルに届かず、激突寸前にくるり、と回ってどうにか床に着地しました。近くのケージに飛び移って、テーブルの上の実験装置を目指します。ほかの猫たちは、ケージの中から『あんな残忍な男を助けるのはやめるんだ!』『どうせ助かったって、また平気な顔で猫を殺し始めるぞ!』と口々に騒ぎますが、B-108はそれを聞かずに一目散に上っていきました。博士は箱の中で震えながら、その声を聞いていました。とうとう小さなB-108が装置の元にたどり着き、その蓋を脚でノックします。するとどうでしょう。一瞬のうちに博士は箱の外へ、元の体の大きさに戻っているのを見つけました。その代わりに、B-108の姿は消え、どうやら箱の中へと入ったようです。博士はあまりに突然のことが続き、何がなんだかわからなくなっていました。
 (全部夢だったのではないだろうか?)
 しかし、振り向くと、B-108のケージが開いています。それに…ああ、これはどうしたことでしょう!にゃーにゃー騒いでいる猫たちの声、それが何を言っているかがわかるのです。
 『なんてことだ!お前なんて助かるべきじゃなかった!』『猫神さま!戻ってこいつをねずみにしてやってください!』
 (どうも夢でも幻覚でもないらしい。それじゃあ、この箱の中には…!)
 博士は再び青ざめると、ゆっくり箱の元へ近づいて行きました。
 『ああ、俺はなんということをしたんだろう!自分の実験のために沢山の猫を殺して、それに何も感じなかった!こうして命を肩代わりしてもらってようやくわかった!猫の命も人の命もその重さに代わりなどないのだ!』
 博士はそう叫ぶと、震える手で箱の蓋を開けました。果たして―B-108はそこに横たわっています。
 『おお!B-108!なんとかわいそうなお前!ほかの猫たちの言うとおりだ!お前が俺の代わりに死ぬことなどなかったのだ!』
 博士はさめざめと泣き、B-108の体を抱き上げてそう言いました。
 『にゃー』
 すると、奇跡が起こりました。死んだと思ったB-108が博士の手のひらの中で立ち上がり、一声鳴いたのです。
 『おお!おお!B-108!良かった!お前は死んでいなかった!』
 『にゃー』
 『いや、実験が成功したかなんて、もうどうでもいいんだ。お前は俺の身代わりになろうとしてくれた!俺はそれを生涯忘れはしないだろう』
 『にゃー』
 『いいや、お前が用済みなんてことはあるものか!お前は死ぬために生まれてきたのではない!俺がお前に教えてやろう。あの海も、空も。そして自由も、希望も!お前がおまえ自身の生を選び取ること、その喜びを!』
 『にゃー』
 『そうだな、まずはお前に名前をつけてやろう。実験番号なんかじゃない、素敵な名前を!』

 それから博士は、捕まえていた猫をすべて解放してあげました。何匹かは逃げる途中でちょっと博士の顔をひっかいていきましたが、もちろん博士はしたいがままにさせました。それからB-108―今は新しい名前を与えられた猫を連れて、旅に出たのでした。

 『そうだ、俺の命を助けてもらった喜びを伝えるため、お前と猫神さまを讃える歌を作ろう!』

 博士は喜びとともにその歌を口ずさみ、ドアを開けて太陽の下へ踏み出します。実験室に残されたシュレディンガーの猫箱の、その蓋はきっともう二度と開くことはないでしょう。生とは、いつも不確定なものなのです

 【コーラス】
 アミャージング・グレイス
 なんてあま〜い響きだにゃ
 猫の恵みは私を救ってくれる
 命続く限り猫を讃え続けるにゃ」(終)