8月30日 トークセッション

●前書き●
 8月30日に開催されたトーク・セッション二回目です。今回は先立ってサイードの『知識人とは何か』の第一章を配って、そこから発展させる形で4時間ほど話しました。一万文字弱、そこそこ長いのでご注意。


①最初の提言:冒頭で語られる二つの思想家による知識人のイメージは再編成できるのではないだろうか?グラムシは知識人を、教師、聖職者などの伝統的知識人と、近代の市場と関係し、広告・宣伝を行う「専門家」とも言えるような有機的知識人に二文した。一方でバンダは知識人を「哲人王」というような浮世離れした孤独な思想家として描いた。こうした相違・また分け方は、現代では違うやり方があるのではないだろうか?
 例えばバンダは知識人の極論の例としてイエスソクラテスを挙げている。ここで知識人のカテゴリの方法として、「現状の維持を目指す者」と核心、「新しい変革をもたらす者」というものを提案する。これに従えば、イエスは変革をもたらすもの、マスメディア、広告宣伝に代表されるグラムシ有機的知識人は維持―大きくみれば政府をサポートし、現状を維持する側と捉えられる。ソクラテスソフィストもこの二分法によく当てはまる。ソクラテスは伝統を破り、新しい精神の変化をもたらそうとしていた。
 ここでの「変革者」は、バンダの知識人像に近いものの、より広い範囲を含んでいるように思える。ただ自分の世界に閉じこもるのではなく、より社会、大衆に対して開いているイメージを持つ。


グラムシのものもバンダのものも、サイードが言うように西洋的な像という限定がある。その「西洋的」はキリスト教、資本主義との関連を見ていくことが出来る。


③この文章の中で、「知識人はどういう領域にいる/職業についている人か」という問いと、「知識人はどのような行動をする人か」という問いが混同されているから、そこに注意しなくてはならない。職業について言えば大学教授、弁護士、ジャーナリスト……と挙げていくことになるが、行動について言えば、「大衆や政府に迎合せず、リスクを覚悟で発現を行う……」などと定義されていく。


グラムシとバンダ、グールドナーとフーコーの四つの知識人像を引いて、サイードの意見へとつなげていく。
 サイードは「ケーモークン」だよねっ。


⑤サイードは、知識人には自分の意思をリプリゼント……表現する1:技能と2:意志や反論を受ける覚悟 が必要だと述べる。
 そして、「行動についてはどのようなことをしてもいい」とも述べられるが……この場合、テロはどのように扱われるのだろうか?
 ここから「知識人」のカテゴライズが難しく……というより拡大し領域が曖昧になっていく。例えばウサマ・ビン・ラディンの行為を「知識人ではない」と明確に言い切るにはどのように出来るだろうか?彼は暴力という手段でレプリゼントを行ったのではないか?
 ⇒しかし「マイノリティを代表し、擁護するのが知識人である」と述べられているが、「マジョリティを攻撃すること」が必ずしも知識人に必須ではない。
  ⇒これに対し、サイードが後に述べる「自由と公正」、また反論を受ける覚悟、使命、という概念でテロを退けようとすることも出来るかもしれない。しかしテロリストと呼ばれている人々は、少数者を代表する、という点においても、また彼らの視点から見た自由と公正、それこそイスラーム原理主義者にとっての自由と公正、という説明をするだろうし、覚悟、使命という点も申し分ない。


⑥日本では「知識人」と呼ばれる人は誰を指すだろうか?福沢諭吉板垣退助?あるいは渡辺一夫?ここで語られている知識人とのズレを感じる、それは欧米における知識人の歴史が日本に適用されないことに基づくズレなのだろうか?
 しかしサイードは知識人の目指すべき普遍性についても語っている。自由と公正というキーワードがそこに掲げられる。だとすれば日本人であるかどうか、というボーダーは越えられるはずだ。


⑦現代の日本においては、知識人と呼べる人間は目立たず、政治・社会に与える影響はほとんどないように思える。現状においては、サイードの提示するような「政府・権力に属さない」知識人であるよりも、政治家・官僚の世界の中に入っていって、その内側から変えようとする方が実際により大きな影響を与えうるのではないか?
 
 ⇒政治システムそのものの中に、こうした知識人を受け入れられるような、変化・改革のシステムをうめこんで置く、という方法が考えられる
 
 どのような思想であっても、そこには一貫性があるため、その思想がマイノリティであるうちは常に反対勢力から欠点を指摘され、穴が見えやすく改善が促されるが、ひとたびマジョリティとなるとそうした欠陥が見えづらくなる。
 自分が属する集団・思想への批判的センスがないと、思想・システムはよどみ腐敗してしまう。


⑧実際に思想は政治にどのように影響しているだろうか?
 例えば「ネオリベ」による改革が、80年代アメリカで行われた。保守でありながら福祉国家も目指すバランス。良い点と悪い点、未完成の点があり段々と改善されていった。
 ⇒しかし日本では改善前の未完成のネオリベを導入したまま、「思想を用いた政治ゲーム」が行われるようになってしまう。

ネオコンとかネオリベとかなんかネオつけるの好きですよね。語尾に〜ネオ、とかつける萌えっ子はどうだろう。「早く起きないと遅刻しちゃうねお?」


⑨日本の思想アレルギーはどこに根ざしているのだろうか?
1:学生運動の失敗? ⇒他の国でも学生運動は起こったはず。日本だけの特殊な事情が?
2:それ以前の「お上」体質にあるのではないか?
☆オウムなども関係している?「わけの分からないもの」への恐怖感。


⑩学者と芸術家の立場が変わってきていること。
 以前は、特に芸術家は「分かりづらいことを市民へと代弁」する役割があった。価値・思想・哲学を誰でも受け取れるように。
 しかし大衆消費社会の中で、芸術の一部は商品化され、消費されるようになり、分かりやすいものだけがかたられる。これは芸術だけでなく学問に関してもそう。
 一方でこれに抵抗するように、例えばファイン・アートなど、芸術家にしか理解出来ないような芸術、というものへのベクトルが働いている。しかし最初の「代弁・代表」の目的からは大きく外れてしまった。

☆「学問・芸術のポップ化」という手段は雑誌・テレビ媒体でも行われてきた。たとえば「誰でもピカソ」「平静教育委員会」といったテレビ番組(どっちもビートたけしだ……)他にも「世界で一番受けたい授業」「爆問学問」など。しかし、個人的にはそれらは学問の入口になるどころか、ごく浅い段階で視聴者を留める方向へと向かっているように見える。表面的な面白さを持たないものへは手を出さないようになってしまうのではないか。学問の喜び、勉強のリピーターとなるのは、むしろ難しさと自主的な探求と発見にあるのではないか。
 
 ⇒しかしその理論では、インターネットという非常に利便性の高い「探求」ツールがあるにも関わらず、上記の「発見の喜び」は逆に薄れているように思える。一見バラバラの事象の関連性を見つける、という楽しみも学問にはあるが、これもネットと親和性の高そうな考え型……なのになぜ学問は未だ一般に手が届かないままなのだろうか?


⑪マスメディア・アンプ論
 マスメディアは、世論、視聴者の望み・欲望を増幅するアンプのようなもの。そこから生まれるフィードバックが再び吸い込まれハウリングを起こす、というイメージで捉えることが出来る。
 
 田中真紀子が人気になったとき、彼女の秘書への態度などの悪い点を指摘した番組が報道されたとき、沢山の投書「真紀子さんをいじめないで下さい」が届き、真紀子賛同の番組以外が作れなくなってしまった。

☆番組に対する投書・電話という方法は非常に強い力があるらしい。以前イラク戦争の際、テレビによく出ていたコメンテーターが、「番組終了後、電話をかけてここがよかった、悪かった、と言うことが、番組の方向、コメンテーターの出演を決定する」と発現しているのを聞いた。視聴率は人数で言うと膨大だが、その中で電話をかける人数はごく少数。しかし、視聴率では視聴者の意見、本音を汲み取ることは出来ないため、僅かな投書・電話が貴重な意見となる。

☆真紀子報道に関連して、オウム報道も同様のことが言える。マスコミは全てバッシング側に回り、不当逮捕や冤罪を連発した。ここにおいては「世論はオウムが犯罪者集団・悪人として映ることを望んでいる」という図式は正しいように思える。これは「得体の知れないもの」が悪であってほしい……逆に「理解できる存在であっては困る」から、というような感情が働いているのだろうか。
 原発事故の際の枝野長官への応援と、菅首相へのバッシングは、イメージによるものか、実際的な評価によるものか。
「ここは評価出来るが、ここは評価できない」、またオウムなら「犯罪・テロは許すことが出来ないが、事件に関わり無い一般の信徒の信仰心は尊重されるべきものである」といった二面的な意見はメディアでは映し出されない。支持率は支持⇔不支持に二分化され、オウム事件では信仰心という基本的人権の保護対象までが攻撃を受けた。


⑫もはやテレビ・本・ネットという媒体もマジョリティ化している。「あたらしいマイノリティ」を作る、という作業が出来ないだろうか。例えば多メディアのコラージュによるもの。

 政治において、新しいマイノリティ……既存政党とは異なる党が台頭する可能性はないだろうか?
 ⇒二大政党制は非常にすぐれたシステムである。二つの党が持つ緊張感が、上述のような腐敗を防ぐ一方で、片方が政権を持っているときは安定して政策を進めることが出来る。多党制にしてしまうと、常に連立の必要があり、政策の一貫性が保てず不安定になる。
 ⇒アメリカに比べて、日本における欠陥は参議院との間でねじれが起きやすいこと。


⑬震災の後、結局(表面的には)日本は変わらなかった……
 
 もはや「神=カリスマ=絶対価値を持った思想」は現れず、人々は常に多数の中から選択を迫られる、という状況が続くだろう。
 「こいつにさえついていけばOK!」と思える人物は登場できない。
 「神」の概念の変化として捉えることも出来るはず。「大きな物語論」とも関係?
 
 既存のキリスト教(他ユダヤイスラム・仏教でさえも)の持つ人間と超越的な神、という境界がはっきりと区切られたような神のイメージに対して、より人と神、人と他者が連続しているようなイメージが現れてきているのではないか。これは日本のアニミズムとより近いイメージといえる。

 ⇒むしろキリスト教では新プラトン主義、グノーシス主義、スコラ哲学の頃に唱えられていたものに近いのでは?
 ⇒アニミズムに近い、と言っても「東洋的」という一般のイメージだけではない。それともまた異なるもの。

 さらには「科学の法則」という要素さえも、そうした神の(=超越的な)領域、として捉えることも出来るかもしれない。
 ⇒「理性的な神様」という存在

☆「ねぇ彼女、俺と連続しない?」

 これらの「神」は、行動の指針となるものではない。すなわち「教え」に従うのではなく、よりどころとして、など他の存在となるのではないか。社会・政治への直接の動機とはならず、それらは人間の意志で哲学・思想の中から決める必要があるのではないか。
ロールズは非常に敬虔なクリスチャンだったが、自分の思想からは(表面的には?)信仰を排除している。

 ⇒イスラムにおいては、今でも「行動の指針」となっているのでは?


バタイユの言う「フェティッシュ(特定の衣類・装身具への愛着・物神崇拝)「コケティッシュ」な価値が流行となっている。
 ニーチェバタイユ⇒フェティッシュ⇒超人⇒神はいない⇒(ニーチェ)という円環の理!
 トランスジェンダーの存在、GID性同一性障害)女装について⇒服装でジェンダーを見ること自体が変化し始めている。

 ジェンダーが代表だが、様々な分野で「越境」が行われている。バトラーが言うようなジェンダーの越境、コンピューターのハードウェア⇔ソフトウェアの関係も機能の越境と言える。
 定義が無いカオスの状態ではなく、よりゆるく、例えば「男でも女でもありえる」というような可能性を残したまま、定義づけが行われている。

 ⇒これを政治へと援用すると、指導者と大衆(被治者)との境界も曖昧になっているのではないか。


⑮貴族制
 貴族制ではない=民主社会においては、「大衆はそのままでも大丈夫=政治・社会をしっかりと把握して、正しい判断=選挙を行う」という考え方が前提にある。このため、「市民教育」というものは行われない/行えない。

 貴族的立場……ここで述べられているのとは異なるかもしれない「知識人階級=政治家・官僚となる立場」は社会の運営のためにあった方がいいと考える⇒しかし貴族制には腐敗と隣り合わせという大きな問題がある。


⑯自由ではなく「何を禁止するか」ということが重要になっていく。
 常に祭礼を行うこと、殺人の禁止。もはや殺人ですらも「絶対的な価値」を持ち出して禁止することが出来なくなってしまった。
 「戦争」も同様で、完全には禁止されていない。

 「死に繋がるもの」は隠され、tabooとされる。
 1:死⇒自殺・殺人・戦争 また屠(殺)場も
 2:セックスもまた死と関連するためtabooとなる、という見方が出来る

 ⇒tabooであるからこそ、神聖なものとなる。社会にそう映る
  ⇒自殺を神聖なものとして捉える。死はそうだが、性的なものは?

 現代では死が遠ざけられて、死が身近に感じるということがほとんどない。関係性の消失⇒単純によほど身近な相手でないと葬式に行かない、などの事情も?個人の経験に依存。「葬式で笑う」という行為の意味が人によって異なる。
 ⇒葬式が形骸化してしまっている⇒死の形骸化、パターンのように捉えてしまうため、葬式でも死を感じられないようになる。
 「故人は○○でした……」とスピーチ。結婚式場のインチキくさい神父の説教にも重なる。パッケージ化・エンターテインメント化しているのでは?
  ⇒より高い金を払って行う葬式=よりよい葬式。金額以外のモノサシがなくなっている。
   ⇒同様のことが結婚式にも言える。高額・ゴージャスな結婚式が幸せのモノサシになる。個人の趣味だけでなく社会の目も関連。

 同様に、「多くの経験がある」=「価値がある」という捉えられ方への懐疑。

 一方で「葬式」という形式があることで守られているものもあるのでは?

☆「おい!俺と結婚という形骸化に歯止めをかけようぜ!」
 「……どういうこと?」
 「結婚してくれ!」

 「金」という点を考えていくと、「金さえあればOK・生き残れる」……例え人と異なる思想を持っていても、追放されたとしても……という「金の支配」は、卑俗に見える一方で非常に安全だと捉えることも出来る。
 例えば「思想の支配」が行われていると、その思想を覆そうとする勢力が常に現れて、革命・反乱が起こり得るという不安定さがある。「法の支配」でさえも「金の支配」の下に来ているのでは?
 ⇒視点を第三世界まで広げると、金の支配は膨大な搾取の上に成り立っている、と見ることが出来る。ここでは搾取されている国にいつか反撃を受けても現在の先進国側は十分ないいわけが出来なくなるのでは?

 金"も"思想の一つ。金でさえも絶対的な価値ではない、という見方もされている。
 ⇒エージング・マネー=歳を取る=使うほどに価値が低下していく金、またヴィンテージ・ギターのように古いほど価値が上がる金、というアイディア。株は?


⑰絵画作品の再現は、ハイビジョンから3D技術へ。油絵の厚みも再現することが出来るようになった。

「ところで、そこにある魂も再現できるんですかね?三次元で?」
「ああ、再現できるんじゃないの?」
「でも魂を構成するタマシイムは8次元物質で<検閲により削除されました>」


⑱思想家はすごい(ただしイケメンに限る
 思想家がマスクをつけて語り合えばいいんじゃないの? S−1グランプリ(優劣をつけるのか?)
「で、思想家のマスクマンはどこで語り合いますかね」
「そりゃ四角いリングの上でだろ?」

 肉体言語に対抗して肉体思想?
 ポップ・アート(コンセプチュアル=コンセプトありき)に対抗してポップ・思想(アートありき)。

 ネット……ユースト・ニコ生を使った新しい思想家スタイル。
 ⇒テレビの崩壊が歌われているが本当にそうだろうか?テレビは「誰もが見られる」というその存在こそが重要であるのでは?
 インターネットは選択肢が大量であるからこそ逆に不自由になる。大体の人はお気に入りに登録したいくつかのサイトを巡回する、というやり方が多く、これはテレビとさほど変わりがなく自由とは言えない。
 ⇒選択することが出来ない人が多いから、貴族性はまた現れるだろう。

 インターネットの言説は普及がある一方で局地的という問題、また思想以外の情報が漏れ出ている危険性がある。
 ⇒一般においても情報漏えいはほんとに怖い。スマートフォンの位置情報からの推測。中東のネットサービス購入。
 ネットを使う側が様々な情報を救われている。エシュロンとまでいかなくてもアキレス腱となる情報。
 ネット・リテラシーという語でカバーできないほど膨大な危険性があり、例えばスマートフォンリテラシーが知られているかは疑問。

☆GPS機能デフォルトでオフの僕。てか通信力低すぎて反応しない(キッズケータイ
☆「カレログ」ですか?わかりません。


⑲日本型ポピュリズム・政治の二項対立
 小泉政権の勝利は、問題を二項対立に持ち込んだことであった。
 
 市民それぞれが、無差別に一票を持っている、ということは本当に平等なのだろうか?政治に無関心な人間と、政治に強い関心を持って活動している人間が、全く同じ権利しか与えられない、という点から見れば不平等と見ることも出来る⇒差別選挙は?
 ⇒例えばある試験を行って、成績に関連して票がもらえる ⇒誰が問題決めるの?

 この点を改善しようとする際の問題は、無関心が負のイメージを持たされてしまうことにある。政治に関心がないことが「悪」としてみなされてしまう。白票を出すこと、投票に行かないことが悪いことになり、政治への意思表明が強要される事態にならないか?

 民主党の代表選挙もまた二項対立的なものだったのでは?また自民党的に……

 党員によるサポート票の重さが変わり、それが動向を左右している。

 「党執行部」とはどのような存在か?党の執行部と内閣は「ガッツリ分かれている」幹事長と総理……党の権力者は内閣に入りたがらない場合もある。なぜなら首相・大臣となると国民の矢面に立たされ、進退が危うくなるが、党に残っていればリスクを負わないままに権力を維持することが出来る。民主党の問題は全て首相に向けられ、党幹事長の○○という決断が悪い、という議論はほぼ見られない。

 自民党の際は派閥が関係していた。また当選回数が10回を超えないと到底役職・大臣にはつけなかったのが、今では当選回数5回ほどで総理になれる、という状況 ⇒民主党だから、ということも関係しているが……

 松下政経塾出身の議員……政治家養成の塾が増えている。旧制高校というエリート養成の場が無くなってしまったこと、そうした塾を出て、誰もが議員になれるという状況があって、しかし松下政経塾の出身者は、一方で落選した場合の補償がごく厳しい、という問題点もある。
 ☆だとしても!と言えるのが政治家です、とマックス=ウェーバーあたりが言いそう。


⑳企業に対しての知識人の文句、というのはより意味が大きいのかもしれない。レインフォレスト・アライアンスなど、企業を相手にジャーナリストなどが果たす役割は確かにある。企業が変わった例も沢山見つけられる。企業には『暴力装置』が国ほど完備していないから?

 六本木ヒルズは中心となるビルの周りに環状に建物があって、中心を支えていく、という構図を持つ。それぞれの企業が集まる中で、小さなコミュニティが形成され、小国家のような様相となっている。こうした一つの場所で完結したコミュニティ、というのが増えることで地方自治体よりも企業がその地域社会に果たす役割が大きくなるのではないか。

 ☆こうした小コミュニティ化、都道府県⇒市区町村⇒小コミュニティ化、という方向性が、震災における東北への興味の減衰と関わっている、とする論があった。独立しすぎて、東北でさえも他国とさほど変わりがない。
 
 しかし、当然都市国家のあやうさがある。

 政治に関する議論は気をつける必要がある。市民が決して知りえないこと、誰かしらの偏向が入っている情報しか得ることが出来ないという点に加えて、「未来」のことについてしか議論できない
 ⇒むしろ田中角栄小泉政権など「過去」をしっかり考える方向の議論が望ましいのでは?


■21 芸術家としての知識人。
秋元康は知識人?」
「あれは現象でしょ」
「現象としての秋元康だね。現象康」
「なにそれかっこいい」

 作家=知識人というモデルが過去にあった。トルストイが果たした役割などはその典型。
 しかしこのモデルは古くなり、様々なメディアからも登場していく。黒澤明、オノ・ヨーコ……無数に挙げることが出来る。

 現代ではテレビの普及から、「テレビが"知識人"と認めた人が知識人」という風潮がある。ジャーナリスト、例えば久米、筑紫、鳥越、田原……が知識人と見なされる。実際はこれら番組のプロデューサーなど、テレビ局、あるいは番組制作に権力を持つ人間が知識人?

 一方で古くからの知識人は、テレビ出演を嫌がる。


■22 
 アラブの石油王の力
……というより金の力。バルセロナのチームが始めてスポンサーを取ったのがカタール王室。
 それまで「利息を禁じる」という戒律のあったイスラムが、資本主義との融和を始めている……さらに言えばキリスト教的なもの。ハイブリッドになっていってる?「聖おにいさん」にムハンマドは出せない。

 介護のビジネス化は?
オイルマネーから老いるマネーだね」
「だれがうまいこと言えと」


■23 思想家発掘計画!
 松下政経塾のテレビ版を作る⇒モー娘。AKBのように組織。
  ⇒ポップ化の必要はないが、シリアスに終わらないこと、ユーモア・ふざけられることが重要
 学術的な役割を持たせること。例えば東大を外へ開いていく。何より芸大と関係させること、さらに外部からのゲストを。

 売名を避けるための匿名性。



■そのほか■

・貴族・市民・知識人の三角形。しかしこれこそが二大政党のイメージ。貴族的サイド、市民的サイドの二つが争い、外から思想家がチェック機構として機能する。

レディ・ガガは現地の若手デザイナーの服をいつも着ている。音楽家ではあるが同時に知識人、という例。
 →ジョン・レノンも、武満徹も、尾崎豊も、グレン・グールドも「レプリゼントの技能を持ち、リスクを負う」という定義では知識人ではないか。

・サイードの論では、「社会は停滞の方向性を持っている」という状態が先に設定されている。しかし本当にそうだろうか?

・芸術家と知識人は、かつては現代よりずっと重なりあっていた。トルストイしかり、作家は特に力を持っていた。
 
・哲学で「快楽」ということが言われる・テクストの快楽・視覚の快楽⇒絵画・音声の快楽・アイドルマスターの快楽