劇団工 「RAIL IN THE MIRROR」


あらすじ

 アリスが気がつくと、そこは森だった。次々に現れる姉妹や友人たちは、『不思議の国のアリス』の登場人物の名を名乗るが、どこか現実とは様子が違う。この世界が「夢」であると考えたアリス。しかし彼らは不思議なルールを定めていた。「アリスは幸せでなければならない」「みんなはアリスが大好き」「殺しあわねばならない」「鏡を通ってはならない」アリスは優しい人々の中で幸福な夢を楽しむ。
 しかし、現実のものと思われるささやき声が聞こえるようになってから、自分が何かを忘れていると感じるようになる。人々はアリスにそれを思い出させないように気を使うが、彼女はついに自らが愛されていただけでなく、また人々に疎まれていたということを思い出す。
 結局、アリスはそうした自分の中の醜い面を克服し、幸福な夢の中へと留まり続けることを決めた。「夢の世界」も、また一つの現実であるかというように。「そういえば、まだ気になっていることがあるの……」ふとつぶやいた小さな疑問。そこから夢の世界はほころび始める。「チェスならばマスは白と黒のはずなのに、なぜ赤と黒なの?私はなぜ赤い手袋をしているの……赤?私は、誰に、何をしたの!」彼女の暗い感情が、誰かを傷つけ、おそらくは取り返しのつかない死を与えたことが暗示され、幕。

★★★★★

 完全な妖精物語はすべて「幸せな結末の慰め」をもたねばならない。 ―J.R.R.トールキン『妖精物語について』


 「ルール:この物語はファンタジーで、それゆえにハッピーエンドで終わると信じなければならない」
 ハッピーエンドか?バッドエンドか? 劇のスタート地点からすると曖昧だ。 『不思議の国のアリス』を二章目から読み始めたと思えばよい。ファンタジーならば、現実への帰還によってハッピーエンドが訪れる。主人公の成長、弱点や関係の克服、めでたしめでたし。ところがこの世界では何かが「隠されて」いる。登場人物たちがルールを読み上げたとき、「ようし、僕も一つ、劇を見る上で観客としてルールに従ってみよう」と思い立つ。そこで引っ張り出したのが上のトールキンの言葉、そして「ハッピーエンド」のルールである。謎は明かされ、苦難は乗り越えられ、そして我らがアリスは観客へ笑顔を向けるだろう。―後から考えれば、この時点で僕自身がすでに鏡を通りぬけてしまっていたことが分かる。


 ストーリーを思い返して見ると、一通り人物紹介や設定が明かされた後、クライマックスに至るまでの中間地点は、話もあまり進まない。しかしそれが悪いかといえばそんなことはなく、それを助けているのが様々な仕掛け。何を差し置いても舞台美術。最初に幕がかかっていたのは駒場小劇場で見るのは多分初めて。幕が開けば、そのビジュアルに圧倒。さらにこのセットがとにかく動く。出てきたり、引っ込んだり、ちょっとイメージは異なるけれど、アリスということもあって「飛び出す仕掛け絵本」を思い出した。そして床のチェス盤もインパクトがある。


 様々な「魅せる」点が、劇が進行する傍らで発見できる。空の時計や看板は「鏡の世界」であるため逆さまに描かれ、登場人物達の衣装もそれぞれチェックがあったり、ところどころに「白黒」「赤黒」模様が見つかる。さらに、登場人物はそれぞれチェスの駒の役目を与えられていて、舞台の盤上をルールどおりに動く。ビショップは斜めにしか進めないし、面白いのは二人のナイトが登場してピョンピョン跳ね回るとき。そうしてみていると、アリスだけがマスの境目に立つことにも気がつく。


 そうして「目移り」しているうちに、ゆっくりと物語が進んでいく。演劇と、映画や小説との違いは様々に語られるけれど、この劇ではこの「目移り」がそのポイントだった。ベンヤミンか誰かがどこかで書いていた気がするが、映画は劇と似ているが「視点が固定」されている。クロースアップ、ズームアウト、観客が「見るべきポイント」が暗黙のうちに示される。ところが劇ではそれが分からない。アリスとチェシャ猫が会話しているが、脇にいる眠り鼠と帽子屋の目配せがより多くを語っていたりする。そもそも会話よりも、そのチェス盤上の動きに注目してしまったりもする。かと思えば、意味深なセリフに引き戻されたり。「ルールは世界だ!ルールがなければ自由も存在しない!」


 「体験型アトラクション」というのは妙な例えだが、こうした「目移り」というか、あれこれ発見したりすることによって、劇、というよりもある種の「ゲーム」に「参加」しているように感じられた。ストーリーのゆったりとした進み方のその隙間に、だからこそ僕は十分な発見を行うことも出来た。こうして、劇の中に入りこめるか、劇の中の時間間隔に自分をチューニング出来るか、がこの舞台を楽しめるかどうかの鍵になったと思う。そして舞台・衣装・演出、さらには照明と音響も、その目的を一貫して目指し、成功していた。



 しかし、見ているうちにどうもストーリーが不穏になってきたぞ……現実から聞こえてくるアリスを疎む声。しかし慕う声もある。そうだ、ハッピーエンドを信じよ!いつからか、ルールというより僕自身が「物語」と盤を挟んでゲームをしているように思い始めた。見事ハッピーエンドが訪れれば僕の勝利。戻ってきた記憶、アリス自身も鏡の中にいることに気がつかなかった。しかしそれを乗り越えて、幸せなお茶会が実現した。勝利の確信もつかのま、彼女は夢の世界へと残るという。僕はここで、この物語がファンタジーの典型の一番最初を踏み外していたことにようやく気づく。『アリス』の物語はもちろん、『はてしない物語』も『ナルニア物語』も『ホビットの冒険』も最初に出発した「帰るべき場所」が示されていた。しかしこの物語は、最初から夢の中で始まったのだった。「出発点」が無い以上、「帰還」も存在しない―これはむしろ「ミステリ」だったのだ。敗北を知って思い出したこと。初めて看板を見たとき『「rail」を鏡に写せば「Liar」になるよなぁ』どんでん返しに騙されたが、気分よく劇場を後にする。「ミステリ」は騙されることを楽しむものだから。

 そういえば、冒頭のトールキンの言葉だが、すぐ後にこう続くのであった。
 「悲劇」が「劇」の真の姿であり、その最高の機能である 


 ★★★★★


 書きそびれたが、演技、特に立ち居振る舞いと表情が良かった。ファンタジックな舞台であるため、大げさな表情が許されている、ということもあるんだろうけれど、「表情」がキャラクタそのものに付随するように演じられていたのはとても楽しい。特に眠り鼠の「オドオド」に、チェシャ猫の「ニヤニヤ」は効果音がその辺に浮かんでるみたいでした。三月兎の"ヘヴン状態"も見ていて楽しかった(ボクっ子……!)
 

 最初、そしてラストで繰り返される、各キャラクタが手に鏡を持って、詩を朗読するように言葉を発し、唱和を行うところは、それこそ「ファンタジー」を思わせるお気に入りの場面。冒頭では現実から劇への没入を促し、ラストでは鏡が投げ捨てられる印象的なシーン。
 真っ暗闇となった後に「アリス」かあるいは「マザーグース」に出てきそうな詩が朗読されるシーンでは全身が総毛だつ。ここまで長い暗転を少なく、音楽を流し続けていた理由はこの暗闇の静寂のためにあったのではないか。あのシーンだけは、現実―舞台―夢がひとつに溶け合い、「ミステリ」などと書いたけれどその枠も超えて、言葉が直接に投げかけられる。乱暴だが、この一つの短い詩の朗読のために、劇全てが「前奏」を奏でた、という見方も許されるのかもしれない。

 また、その唱和の演出は、『FOREST』という古いエロゲを思いださせる。エロゲ持ち出してすみませんが、こちらも『不思議の国のアリス』をモチーフにし、夢の中での幸福、不和の克服、というテーマがあって通じるところが多い。これは妖精物語なのでちゃんとハッピーエンドになるんだけど、僕が最後までハッピーエンドを信じて敗北したのもこのゲームのせいかも。

 ラスト直前のお茶会のシーンで、アリスが夢から覚めないことを決意したシーンは「人の世は夢にあらずや?」という『鏡の国のアリス』の最後の言葉を思い出させる(PVにも引用があるけど、実際に言ってたっけ?)。もう一つまたもやゲームで思い返すのが「うみねこのなく頃に」これもファンタジーか、ミステリか、を最後まで問い続ける話だったが、とある結末に主人公が幸福な夢であることを受け入れようとした矢先、重大な過ちに気づく……という流れがよく似ている。騙されたことに大きな「快感」を感じられたのはこれのおかげかも。

 他にも、「苦しい現実よりも、幸福な夢の中で安らう」というモチーフはわんさか探し出せそうだ。古くは映画「ビューティフルドリーマー」から、最近では「ハルヒ」のエンドレス・エイトまで。物語の「主題」みたいなものを探せば、アリスの他者へのマイナスの感情が、実際は「鏡」に映った自分の醜さへの自己嫌悪であること、そして改めてみればそれに気づけること、その自分を受け入れられること……といった成長ものともいえる。けれど、この辺りは「約束」というか「型」以上のものではない。最後の赤い手袋のひっくり返しのためのものに思えて、僕は心理的なメッセージとはとらなかった。


 気づきといえば、アリスがむしろ「幸福な夢」の世界を選ぶこと。上に書いた『うみねこ』『FOREST』だけでなく、当然ファンタジーの全てがこうした終わりを許さず、もちろんこの劇でも奈落があんぐり口を開けている。誰だって、夢の中でエヘエヘと留まり続ける、ドリーム・エンドを予想はしない。エンドレスエイトだって終わったのだ(こうして考えてみると、あれってむしろ「終わらない」ことを描いた現代的なアプローチにも思えてくる……)でも、あの瞬間ふと思ったことは、どうも現実が夢のように(それも大抵は悪夢だ)思えているから、「覚めない夢、終わらない夢」という結末も、もしかすると「不条理」とばかり受け取られないのかもしれない。個人的な印象かもしれないけれど、「お約束」の型は破け始めているように感じる。ドリームエンドの何が悪いの?
 アリスは殺人の罪をも受け入れて、それでも夢の世界で幸せにくらしました。めでたしめでたし。

  ★★★★★

 何か解釈めいたことを話そうとすれば、何人かの口から出たセリフ「ルールを変えてくれるかもしれない」だったり、「自由意志」や認識論に踏み入ることもできそう。最近デカルトはじめ、自由やら認識やらの哲学本を読んでたせいだな。先輩=ドードーの口にする「ルールは世界だ」という言葉の繰り返しと組み替えも楽しいが、鏡と通ったアリスが自身の自我を変えられていたことは認識論を考え出すとグルグル回ってしまう。ここでは「性格」と「自我」あるいは「心」と「主観」が切り離せるものになっている。そんなときに記憶を無くしてしまえば自己の同一はどうするのか。しかも記憶を取り戻したアリスは「鏡を抜けた」アリスであり、記憶自体は歪んでいなくても、受け取る人間が異なっている。

 「8マス目を超えて」チェス盤の外へと辿りついたアリスが手にしたのは単に絶望なのか。ミステリで終わるのなら悲鳴が幕を落とせばいいのだけど、登場人物たちがどんな立場かによって微妙に救いが異なる。つまり、彼らがアリスによって純粋に構築された存在なのか否か。この正答は出す必要は基本的にはないのだけれど、僕が推理(あるいは妄想)していたもう一つのシチュエーション(これもとある児童文学からなんだけど、ネタバレになるので知ってるひとだけ頷いてください)つまり、アリスは自殺しており、植物状態で見ている夢がこの世界、という仮想では意味を持つ。

 アリスの、例えば「首」ではなく、赤いのは「手」であり、これは自殺でなくて殺人を示唆する。僕は当初、登場する人物たちは現実に実在する人というより、アリスの内面のシンボル的な存在なのかとも考えていた。例えば眠り鼠は「臆病」で、三月兎は「喜び」というような。それならば「殺し合い」というルールは、自分の弱さを克服する行為と肯定的に捉えられる。
 「自分の中の悪い部分」を、鏡の中=歪められた自分の方が改善できる、つまり良心なんてものは全て歪んだ偽物かもしれない、というパラドックスを考えるのも楽しい。自分の悪い部分を見つけたとき「こんなのは本当の私では無い」とそれこそ鏡の向うに投げ捨てた記憶がよみがえる。逆に考えれば、どこかいびつな良心の方がストレートなそれよりずっと信頼出来るようにも思う。

 これと真逆に、登場人物たちは全員実在彼・彼女たちの「霊」のようなもので、殺されたことを恨まず、むしろアリスを哀れみ、その心が崩壊しないように皆で夢の世界を作り上げた――と言うのもやはりとあるゲームの受け売りからの妄想だが、これはこれで、ラストの絶望にスパイスを足すだけか。