劇団アシイルカ 『403 Forbidden』


 あらすじ
 
 三人の男女が部屋の中に閉じ込められている。拉致された理由に心当たりもなく戸惑っていると、一人の女が現れ、「この中の一人が10年前、イルカちゃんを殺しました。その証言をして下さい」と告げ、ルールを説明する。しかし彼女が呼ぶと「殺された」と言っていた少女「イルカちゃん」が三人の前に姿を現す。部屋の中のあるボタンを押すと、「証言」…というより10年前の事件の「再現」が始まる。これに失敗し、疑心暗鬼で険悪なムードになる三人。そのとき、スピーカーから男の声が聞こえた。彼は「実況者」インターネットの動画配信サイトで、彼らの困難を「脱出ゲームの実況動画」として配信していた。ゲームではなく、現実に拉致が行われていると知った男は、彼らにアドバイスを与え、「証言」を促す。  
 実況者の男は、ひきこもりを続けていた青年、過去のことを思い返すなかで、「イルカちゃん」が自分の幼なじみであることに気づき部屋を飛び出す。部屋の方でも、三人が次第に過去の記憶を取り戻し、三度目の「証言」が始まる。一人はイルカちゃんの姉、一人はアイドル時代のイルカちゃんの狂信的ファン、錯乱したこの男は殺され、また途中には「実況者」が現れゲームの仕掛人のイルカちゃんの母親を殺害、自らも罠によって死ぬ。残った三人のうち一人は外へ。部屋に残されたイルカちゃんとその姉は閉ざされた世界で遊び続ける。

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 「殺人と狂気なんて何も珍しくない。毎晩だって見ることが出来る。手近な劇場に行ってみなさい」  

 去年からいろいろ劇を見てきたけど、発狂したりその末に殺人がおこったり、というのを何度見ただろうかと思う。いろいろな狂い方もあると思うけど、「見せ方」というのも結構多様で、例えば「見ているこっちもおかしくなりそうな」狂気だったり、逆に狂った人は理解できない存在、として突き放すやり方もあった。  
 この物語では、序盤で登場人物の一人スドウが「狂ってるんですよ。頭のおかしなやつなんだ」と発言するが、三人を拉致監禁し、ピストルで脅す母親の娘への「狂気」の愛がまず登場する。最初の数十分、僕は彼女の台詞がつまらなく聞こえていた。「テンプレート」という語があるけれど、全てがどこかで聞いたような「狂い方」。狂気が典型化されてしまっているようで、冷めてみていた。


 それが唐突にひっくり返されるのは、「実況動画」のシーンが始まったときだった。母親キサキは、自分自身ウェブカメラの前に登場し、「はーい、こんにちはー!」「まあ、がんばったんですよー」と非常にフランクに話し始める。背筋が凍り付くような場面だった。後から、彼女は娘のイルカちゃんが頭に怪我をし、何らかの知能障害を抱えたのち「パソコンばかりしていた」と分かる。虐待ととれる動画を視聴者に向けて公開し、「これ、マジキチですよね?」と実況者に言われても「えー、いや、これは違うんですよー」と笑う彼女。その口調はどこの実況動画でも耳に出来るようなもので、そうした普通さの中に狂気が現れているのがたまらなく怖かった。上につまらない、と書いたその類型化された狂気と重層化されて、理性を持ちながら狂っている状態、というのは矛盾しているようだけど。

 さらに不安感を強めるのは、この「実況」されているというシチュエーションだった。劇中劇、箱の中の箱、という形式は演劇だけでなくどんな物語でも出てくるけれど、この「実況動画」はそれをズラしているように思えた。劇中劇なら、劇の中の人物がそのまま観客になるが、実況動画の場合は、「視聴者」というこの場に…あるいはどこにもいない異なる観客を作り出す。彼らは幻の存在ではなく、実際に動画に「コメント」をどんどん書き込んでいく。


 舞台ー実況者ー動画視聴者 の三者が結ばれ、強力な 見る⇔見られる の関係がそこに作られる一方で、観客席はそのどれもと切り離されて宙ぶらりんの状態になる。舞台と客席を近づける、という劇は多々あったけれど、これはその逆に、客席を舞台から切り離す。あるいは、舞台の方が「画面」となってしまったのかもしれない。パエリアの部屋、動画視聴者、ウェブカメラの母親、舞台の4人、これら異なるフレームが、四分割された画面に表示されている、という仮定。

 あるいはその反対かもしれない。監視カメラは客席の真後ろにある。実況動画の映像=監禁された三人の様子は実際の画面には映らない。本当は、そこには、僕たち観客もいるのではないか。見る方から見られる方へ、しかも勝手なコメントをつけられる方へとシフトさせられる。生死がかかっている三人が必死になればなるほど、動画視聴者のコメントは爆笑する。真剣に舞台を見ている観客の自分も滑稽に見え、コメントされているのかと思えてくる。

 
 動画の視聴者たちは、物語が狂うほどに笑い転げていく。狂気もネタとして「消費」されているような感覚にゾッとさせられる。これは以前NGOやらで色々活動していたころの個人的な経験もある。真剣さほど滑稽なものはない、というのは身にしみている。逆に見れば、そうしたコメントと、このブログや自分のツイッターはどうか。色々理由付けは出来たとしても、おそらく完全には区切れず連続しているように思う。後は「技量=良い批評か否か」でしか測られないのかもしれない。



 実況者のパエリアの物語が突如挿入されるシーンは様々な妄想をかき立てられた。むかし今敏の『PERFECT BLUE』って映画があったのだけど、その中で唐突にこれまで起きていた猟奇殺人事件が、実際はテレビドラマのロケだった…という大転換(実際はこのテレビドラマ、という設定自体も妄想…だったかな?)が起きるのだけど、それを強く思い出していた。ひきこもりのパエリアのメールのやりとり。実況動画、ゲーム…最初の三人のやりとりは、実際のところは「やっぱりゲームだったのではないか?」あるいはパエリアの自作自演なのでは?もちろん、この全てが「劇」であるのだが、さっきのウェブ上の視聴者、というズラしが起きていることもあって、やらせ、妄想、作品と現実がごっちゃになっている。物語は「現実」というか、最初の三人の話へと収束したけれど、パエリアの世界と彼らの世界は本当に重なっていたのか?
 
 パエリアはかつての王子様として『魔法少女まどか☆マギカ』のテーマソングとともに登場し、その胸に「オワタ \(^o^)/」と書かれたTシャツを着ている。自分自身を動画の「ネタ」にしてしまったようで、この場面は舞台が「画面」であるかのように感じた。彼の母親がそのコンピュータを閉じると、音楽も止まる。  それはまるで、視聴者である自分が、アニメの世界、「二次元」に入り込んでしまったかのように見えた。「二次元に行きたい」というのは決まり文句みたいになっているけど、その悲惨な末路を見せられたようで悲哀を強く感じさせられた。そして、それも当然のように動画の「ネタ」とされて消費されてしまう。手はキーボードを探してさまよう「自演乙」「厨二病こじらせた結果がこれだよww」とコメントを打つために。


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 パエリアという「ネタ」を別にすると、後半の「狂気」はまた序盤と同様にテンプレート化された、「いわゆる」狂気、変態、という感じで再び冷めてしまった。一方で、それが狙いだったら、ということも少しだけ感じながら見ていた。つまり、パソコンの画面が閉じられたときに、動画の視聴者から観客席へと世界が戻ってきた、劇中劇が終わりを迎えたということ。だから、この「典型的」な狂気を冷めた視点で見ることが、勝手なコメントをつけながら動画を見る視点へと変えられたのではないか…そういう意図、あるいは他の何かを描いていたのかもしれないが、どちらにせよそれは明確には表現されていたようには見えなかった。そのため劇が終わりは中途半端な印象となってしまった。とは言っても、上に書いた衝撃はしばらくは忘れられないだろうと思う。