文化人類学―社会主義―宗教学―科学―哲学―表象文化論―教育学

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 毎週月曜日には素晴らしい授業が集中していて、知的刺激が半端じゃないが、特に今日の人類学の授業は凄かったので少しまとめておこうと思います。途中、この授業と他の学問分野がどれくらい連結したのかを数えつつ……

 先日の社会学で、「人類学の民族誌、システムが明確でない社会を描く、という手法が通用しなくなってきており、社会学の一分野になっていく」という意見を聞いたのだけど、今日はそれに真っ向……ではないけれど、一つずらしたところから強烈に反論していたと思う。

 一番印象に残っていたのは、このような話。
相対主義の中で全ての学問が曖昧になって崩れ落ちていくが、その残骸の中から人類学と精神分析が再び立ち上がる、なぜならこの二つは徹底的な他者理解につとめ、しかもその上で、その他者理解を『不可能である』と認めている分野であるから」
 (おそらくシュルレアリスムという項でこの二つは結びついているのではないか)
 
 前回までは、モースとマルクス(とレヴィストロース)、という文化人類学社会主義という通奏低音が響いていた。「通奏低音」といったのは、そうした思想の枠組はプリントや話の影に枠組として見え隠れしているだけで、実際に語られるのは現実のアフリカのフィールドだから。これも不思議な授業形式だと思う。(ついていくのが大変だけど……)

 ◇連結その1:マルクス主義経済学あるいは社会学。モース、レヴィ=ストロースによって直結。


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 中盤に入った今日は、「妖術・呪術とウィトゲンシュタイン言語ゲームというこれまで考えてもみなかったテーマ。
 (ちょっと耳にはさんだだけだが『ウィトゲンシュタインと人類学』という論文があるらしい。今度探してきます。でも英語しかないんだって…)
 →ありました(情報のみ) WITTGENSTEIN AND ANTHROPOLOGY
  

 最初に出てきた儀礼の二つの区分、未来に向ける儀礼(日本で例えるなら「学業成就」)と過去に向ける儀礼(同じく例えるなら、何か悪いことがあったときの「お祓い」)があるのだけど、前者はどこか「企図」というバタイユの話を思い出しました。その後は妖術について色々。
 エヴァンズ=プリチャードが妖術と邪術について定義しているそう。これは以前も人類学の授業でなんとなく聞いた。妖術(ウィッチクラフト)は、生得的なもので、今日は触れてなかったけど、確か無意識においても発動するもの。「呪いの儀式」みたいなものは必要ない。大して邪術(多分一般的な「呪術」のイメージはこっちに重なると思う)は、修行したりして身につけられる後天的なもの。大抵の場合妖術の方が強いらしい。マリノフスキーの民族誌でも「妖術」と「呪術」は分かれてたけど、アフリカとどれくらい同一視していいのはイマイチわからない。

 ◇連結その2:今日の話ではテイストが薄かったけれど、儀礼・妖術の話は宗教学に深く結びついてるはず。


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 人類学者の浜本満の議論から、科学の体系と呪術の体系を比較。科学には「客観性」があり「実証可能」とするが、これを「物語生成装置」という言葉でクサビを打ち込んでいく。ある物語世界、つまり魔法が当たり前にある世界・社会の中では、魔法は「客観性」を獲得していると言えてしまうのではないか……という科学哲学のずーっと手前、かなり素朴な反科学論だけど、実際・現実にそうした世界観で暮らしている人の中に入ると、それは実感されるそう。

 ……というか、近代という中でもそれが再生産されているとも語れるかもしれない。それは様々な形で。単にスピリチュアルなんかを言いたいわけでなくて、ごく一般の人の中に、日常的に。はっきりとは言えないのだけど、「科学的」をすり抜けてしまいそうなことはいくつもある。恋愛を持ち出すと少しずれるかもしれないけれど……あとは芸術も。芸術に関してはさらに再反論もできそうだけどそれはまた別の話。

 呪術というのと結びつけると、昔友人がひどい肝試しの話を聞かせてくれたことがある。それは例えば6人で旅行に行ったとして、5人が1人をはめる、というもの。はめられる役をAくんとしよう。5人はあらかじめ打ち合わせをすませ、夜になったらまずは怪談話を始めて、そのうち「霊を呼ぼう」という話をする。方法は、詳しくは忘れてしまったけれど、丸くなって相手の背中に手を置いて体を揺らす。順番に霊が降りてきて、そうなるとその人はぶつぶつと霊の言葉を話すようになる。最初の1人はぶつぶつ言い始めたときは、他のみんなはわざとやっていると思って笑うのだが、それを続けているうちに1人ずつトランス状態に変わる。そしてグルの5人全員がそうなったとき、はめられる1人が恐慌状態に陥る、というひどい仕掛けである。怖いね。僕は叫び出さない自信ありません。

 意地が悪ければこんな問いかけが出来る。「しかし、霊が降りたことを『演じていた』はずの5人は、本当にトランス状態になっていなかったのか?」あるいはこうだ、「騙されて叫び出してしまった一人が、トランス状態に入ったとしたら、これこそまさに交霊術なのではないのか?」

 もし「ひぐらしのなく頃に」「うみねこのなく頃に」の2シリーズをプレイした人がいたなら、類似するものを感じると思う。人々がどれほどそれを信じるかによって、その出来事の「客観性」が決まる。これをひっくり返せば、自然科学について客観性があるということがはがれて、(人々がそうだと共通認識している限りの)「客観性」という限定されたものになってしまう。

 これは僕自身、原子力の授業を受けていて感じたことだった。つまり、原子力放射性物質の危険性と、自動車事故や火力発電所のそれと頻度、規模で比べても拭えない違和感はそこに残る。前者の危険について理解するためにはまず中学、高校、さらに専門の勉強をし、様々な実験器具を実際に扱うことで目に見えない原子の存在を身近なものにして、経験と理論の両方からしっかり理解して初めて「客観性」に寄与できる。そのギャップは専門化の説明がどれほど優れていても埋められず、一人一人が数十、あるいは数百時間をかけて、例えば親類全員が「放射能はアブナイ、死ぬ」と言っていても「いや、リスクはこのように計算できるんです」と説明できる存在に自らなるところまで来る必要がある。これを読んでいる人のほぼ100%が、親類全員が「自動車は事故を起こすから危ない、全部廃止だ!」と言ったとしても、全員を論理的に説得出来ると(少なくともそう試せると)思うと感じる。ポイントは「賛成―反対」ではなく「説明できるか―否か」
 
 そして、そうした人たちが集まるほどに「客観性」が高まる、という見方。もちろんそんなに単純とは思わないし、メディアや教育のあり方やイメージの持ち方色々あるので、一つの見方として。書いた側から「説明できるか否か」という問いかけそれ自体がアブナイと思い始めるくらいだし。

 ◇連結3:以上のように科学哲学に接続。科哲ゼミの皆様、色々反論をくださいませ。


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 ここでウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の議論にも突入。
(授業のネタ元はウィトゲン全集9巻の「確実性について」だそうな)
 ここで印象的だった部分を、授業のプリントから孫引きで。

『(科学的世界像におけるしかるべき理由を)適切とみなさない人に…出会ったと仮定しよう。……彼らは物理学者の見解を尋ねるかわりに、神託に問うようなことをするのである。(だからわれわれは彼らを原始人とみなす)彼らが神託を仰ぎ、それに従って行動することは誤りなのかこれを「誤り」とよぶとき、われわれは自分達の言語ゲームを拠点として、そこから彼らのゲームを攻撃しているのではないか』
 
 のやせんせーに「人類学から」あるいは「科学哲学から」と言ってこういう話するとどう返されるんだろ。先生の著作は新書一冊しか読んでない僕には怖すぎて出来ません。
 でも見て』ください。「原始人を誤りと呼ぶことが攻撃」、なんだか文化人類学とそのポスト・コロニアル批判を思い出しませんか?

 そことはずれるけれど、僕が思い出したのは『論理哲学論考』のこの一節。
  ―5・6「私の言語の境界が、私の世界の境界を意味する」

 ◇連結4:ウィトゲンシュタインとちょっとだけフッサールによる「哲学」あるいは駒場のコースでいえば「現代思想」へ。


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 ここらで一つ休憩がてらオマケの話を。さっき「ひぐらし」「うみねこ」を出したけれど、「相手が見ていないときだけ魔法が使える」「魔法と恐怖が深く結びつく」というのは、確か京極夏彦の本だったと思うけど、妖怪のあり方に通じる。妖怪は恐れられていないといけないんだよね確か。

 また、「神秘」っていう言葉ではオカルトに結びつく。森達也の『スプーン』で知ったのだけど、オカルトという語は「隠されている」というのが元の語義なのだそう。スプーン曲げは、多くの人が見ているほとうまくいかない。なので、テレビに映そうとすればかならず失敗するという……「見えない場所」が「観測不可能性」と結びついて、シュレディンガーの猫を連想したのを覚えている。

 その『スプーン』で印象的な場面があって、外国の、ある「超能力が使える」と有名な子どもたちの集団に、1人の日本人の子どもが混ざってしばらく遊んでいると、同様に超能力が使えるようになる、というもの。この話の真偽や超能力の実証を棚に挙げておいて語るとしたら、子どもはその「超能力の使える」物語世界の網に捕らえられて、使えることが当たり前の中に入りこんだ……上の降霊術の例になぞらえればトランス状態に入ったと言えるように感じた。

 また、子どもは「社会化されていない」からこそ、そうした力を持つ、という捉え方もあるそうな。ある地域では、処女と閉経した老婆が最も強い力を持つ、とされるけど、これは彼女たちが最も「社会」と繋がりのない存在だから、と理解できるらしい。もちろんある地域に限った話なのだろうけれど、魔女が老婆として現れてくる理由の一つなのかも、と思わないこともない。他の理由もいくらでも挙げられそうだが。


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 授業後にも質問しにいって、たっぷり30分色々と聞かせてもらう(これまで質問した時間を全部合わせたら2時間越えるんじゃ……はぁ贅沢)
 僕の質問は「ウィトゲンシュタインの『言語ゲーム』の枠組みと、フーコーの『エピステーメー』の枠組って違うんですか?似てるところはあるんですか?」

 答をとてもざっくりとまとめてみると、フーコーは言語(言説)の基盤になってる「制度」について語ろうとした。例えば「技術」も「制度」の一つだけど、活版印刷「技術」は、言語ゲーム自体を異なるものに変えてしまう。」
 で、ウィトゲンシュタインについては触れられなかったけど、こちらは「言語」にフォーカスしている。
 ただし、重なり合う部分もあるそうで、ここで出てきたのが、とにかく名前を聞きまくってるフーコー『言葉と物』今度はここから「人類」というところに入っていく。

 ◇連結5:その前に、この『言葉と物』は表象文化論の最重要文献の一つらしいので、そこにも。


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 フーコーは「人間」(という概念?)が1752年に誕生したと言ってるらしい(多分リンネの「ホモ=サピエンス=サピエンス」、もしかするとルソーの「人間」)
 その「人間」という概念の確立から、フランス人権宣言までたったの30数年(アメリカのバージニア権利章典ならなお早い)そこで重要な役割を果たしたのが、教育学の発表のために読んでいるルソー。

 ◇連結6:ちょっと無理あるけど、ここでルソーから教育学へリンク。学問の関連は以上です。

 ここで、「人類」が「動物」ときっぱり区切られることになた。中世までは動物と人間は様々に入れ替わるという視点があった。グリム童話しかり。日本の「鶴の恩返し」もしかり。この入れ替わりの話はアガンベンの『開かれ』も思い出します―また連結。コジェーヴつながりならバタイユに下ってもヘーゲルに上っても。ともあれ、「人間」という区切り方を『エミール』(ルソー)を読む前に気づかせてくれたのは役にたつかもな、と予感してます。ヘーゲルももしかしたら通じたりするのかな。

 「人間」概念と人権宣言、という連関は、これ以前にもちょろちょろ聞いたように思うけれど、まだはっきり知らない。フーコーを読むときに出会うことになるのかもしれません。今書いた哲学者たちの名前からヤバそうな予感だけはひしひし感じますよ。


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 とまあ、そんな感じで授業は終わって、ノックアウトされて向かった先が、ジェーン・グドールというチンパンジーの研究で有名な人の講演会。僕は環境団体にいたせいか、ぼんやりと彼女のことは知っていたのだけど、教養学部の学部長と30年来のお知り合いというのに驚き。同じ研究分野でフィールド先で初めて出会ったという素敵なお話を聞く。

 「チンパンジーの研究の中で、人間の定義がゆらいだ」というところが、さっきまでの授業と直結していて頭がクラクラしてくる。
 
 人間の定義:
  ①『道具を使う』というのがあったのだけど、他の霊長類も道具を使うことは分かってたから
  ②『道具を使って道具を作る』+『知識を次世代に伝える』という二つを定義にする見方があったらしい。

 ところが、グドールさんは、チンパンジーが「ガラスの破片で木を削って道具を作る」ところと、「それをほかのチンパンジーが観察によって身につける」のを観察して、これで②の定義が崩れたのだとか。
 
 講演の中で今西錦司生物学者・人類学者)の名前もあったから気になりました。生物系の人類学も簡単なのなら全然読みたいなー。何しろ生物の知識が中学で止まってるのがネックだけど。


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 長々と書いたけれど、当然ながら、僕がこの今日一日で、ものすごい知識を得たとか、コペルニクス転回を得たとかではないんです。ここで伝えたいこと、のようなものがあるとすれば、「発見」「気づき」が沢山あったこと。それによって、例えばウィトゲンシュタインを、ルソーを、フーコーを、例えば呪術を扱う人類学の民族誌を読むときの準備が一つ進んだこと。

 そうした「ものの見方」をいくつも集めておくと、難しい本を読むとき(あるいは授業も)に、それ以前ならわからなかったり、つまらないと思ってしまっただろう箇所から色々引き出せたり、理解が簡明になったりすると感じます。実際、以前は難解さのはるか彼方にあると感じていたウィトゲンシュタインフーコーを読む日が目前に近づいてる気がする。

 最近は、こうした「気づき」を集めるのが大学で学ぶとっても大事なことかなー、と感じています。それは、本や他のメディアでも得られるものだけど、大学の授業だとコンパクトに沢山拾える感じがあります。


 とまあ、そんなわけで、「やばいやばい」とつぶやきながら、寒さも忘れて帰ってきました。
 そして、熱が覚めやらないうちに4時間かけてパチパチ打ち込んだのがこの文章というわけです。
 文字カウントしたら6000字を超えていて驚いています。
 読んでいただけた方はお疲れ様でした。
 この文章から、最後に言ったような「気づき」がもし一つでも拾えたのなら幸いです!