秘密パスワード

 ある科学哲学者により、人間に組み込まれた秘密のパスワードが発見された。
 それは35行からなる不思議な呪文で、どの言語にも類似しないものだった。


 そのパスワードを口に出して唱えると、人間は跡形もなく消失する。
 霧のように、煙のように。
 いや、実際は何らかの素粒子として辺りに拡散するのだそうだが、
 何にせよその存在は失われ二度と戻ってこない、
 ということならば「消失」と言っても大差はないだろう


 不思議なことに、その消失した人間に対して、友人または家族はあまり悲しみを抱かない。
 存在が消えただけでなく、その人間の「存在感」までもがいくらか失われるようで、
 記憶には残っているのだが、どうも感情的になれない、ということらしい。


 誰かが消失したとき、人々は葬式をするかどうかに非常に迷った。
 最初は行われていたが、前述の「存在感」の理由から、ごく身近なもの以外は式には訪れない。
 「消失」を選ぶ者の、半数以上がもともと存在感が薄い人々で、
 離れて暮らしている場合、両親すらその存在を忘れていて、数年後に気付くというケースもあった。
 老人ホームなどから老人が次々と姿を消していくが、職員さえも誰が消えたのか
 よく分からない始末で、経営が厳しくなってことでようやく大勢がいなくなったのだと知る。


 メディアはこの現象を、最初は「自殺」と呼んでいたが、遺族と人権団体の要求で「自己消滅」と
 どうにも違和感のある呼び方へと変わることになった。
 痛みを伴わず(そう仮定されているに過ぎない)、
 死体を出さず、遺族に大きな悲しみを背負わせない。


 ある統計が新聞の紙面を飾る。それは従来の形の自殺者、
 すなわち飛び降り、飛び込み、薬物、練炭などの自殺者が激減したこと。
 また、「行方不明」と見分けがつかないこともこの現象の悩みの種だった。
 どこかで子供が家出をしたとして、それが家出なのか、
 自己消滅なのか遺書でもなければ判別できないからだ。

 
 社会にも変化が現れた。会社・職場は職員に重い責任や課題を負わせないようになった。
 自己消滅を招きすぎて多くの会社が倒産したからだ。
 それは相手に対する優しさというよりはむしろ距離を生み、結局「自己消滅者」は増加し続けた。


 若者にかぎらずあらゆる層での集団自己消滅が行われた。
 他人をアルコールなどで朦朧とさせ、「自己消滅」を強制する犯罪も起きたが、
 これも自身の意思で行ったものかそうでないかの判定が難しかった。
 最初は「非自己消滅宣言カード」を携帯させたが、
 当然それを持っていながらも発作的に「自己消滅」を行う者もいた。


 「自己消滅」の頻発で社会は混乱し、そのような「秘密のパスワード」が人間に
 設定されていたことの奇妙さ、神の存在、科学的な見解についてはほとんど語られず、
 あるいはそれはカルト宗教の形をとって表れることもあった。
 銃を乱射し大量の殺人をおかして警察が来たところで「自己消滅」をする、という犯罪が発生し、
 これが各国へ飛び火してパニックになった。
 さらには、少女を誘拐し、強姦し、脅迫し、精神的に虐待して自己消滅を促し、
 証拠を残さずにそれを何十回と繰り返していた凶悪犯がとうとう逮捕されたが、
 パトカーに押し込まれる前に既に「自己消滅」していた。
 凶悪犯罪者の七割が逮捕直前に「自己消滅」を行うようになり、「罪」の概念が揺らぎ始めた。


 人々は煙のように消えていった。
 しかし、その煙は、驚くべき効果をあげていた。


 数年後、気候観測によるデータを見て人々は驚愕した。
 「自己消滅」により発生した分子が、地球環境に働きかけていた。
 その「人間分子」は、すぐ「万能分子」とよばれるようになる。
 (どちらにしても奇妙なネーミングだが)
 「万能分子」は、大気中で温室効果ガスを減少させ、それも減少させすぎず一定に保ち、
 さらに硫黄酸化物、窒素酸化物その他化学物質を中和して公害を止め、
 地表では荒地に肥沃度を回復させ、塩類土を中和し、砂漠でさえ木の芽を芽吹かせた。
 上空ではオゾン層を復活させ、有害光線を吸収した。


 「自己消滅」の数が増えるほどに、地球環境は回復していった。
 その環境の回復した地球で、憂う人々はまた「自己消滅」を繰り返し、
 モラルは崩壊して凶悪犯罪が毎日のように行われ、警察官の「自己消滅」でさえ相次ぎ、
 やがて国家は崩壊し、世界は無政府状態へと以降した。
 
  
 ありとあらゆる「自己消滅」防止策は意味を持たなかった。
 情報はあふれ、拡散しすぎてしまった。インターネットを崩壊させてももはや無理だろう。
 毎日誰かが世界中のメールアドレスにそのパスワードをスパムさながらに送信している。
 携帯電話によく届いて消すのが大変だ。


 それではここで、そのパスワードを記しておこうと思う。
 発音ははっきりと、そして言うまでもないが自己責任で行うこと。


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