幸運のコイン

 毎朝、彼はコインを投げる。
 表が出たら、そのまま一日を過ごす。
 もしも裏が出たなら、あらかじめ用意しておいた毒を飲み干して死ぬ。
 それは彼の魔術だった。むしろ呪術といった方がいいかもしれない。
 死のリスクとの引き換えに、彼は強大な幸運を得られる、そうした呪いだ。


 今日で連続15回目の表、ついに呪術の効力が表れ始めた。
 道端で拾ったバッジが、写真へ、万年筆へ、
 さらにパチスロのメダルを通ってイヤリングへ、
 それが福引券、温泉旅行が骨董品へ代わり、さらにいくつもの道筋を経て、
 夜になると、彼の手には札束が握られていた。


 次の朝もまたコインは表。
 札束は宝くじと競馬と株と麻雀の代打ちで瞬く間に増え、
 銀行口座の額は一日ごとに桁が上がり、彼は仕事を辞めた。
 また表。その次の朝もまた表。
 資産家のパーティで非の打ち所のない美女と出会い、
 恋に落ちる最高のシチュエーションもおまけで付いてくる。
 危険な敵に負われて、彼女と夜の都市を逃げる間も、彼は自分が助かることを確信していた。


 コインはまた表。
 次は何を叶えよう。
 石油王、穀物商社の取締役、宝石商、僕らの知らない世界のどこかで開かれる華やかなパーティ。
 自分の二倍も年を重ねた最高のワイン。
 株式の買占めと財界へのアプローチである程度の権力も得られた。
 どんなコネクションも、彼が望んだ次の瞬間には向こうから近づいてきた。
 大物政治家に貸しもある。養子にでもなって地盤を引き継げば大臣も夢ではない。
 それとも宇宙飛行士にでもなろうか、いや、無重力ではコインがはじけないか。

 
 また表だ、もう何回目だろうか。
 彼はただの一度もイカサマをしていない。
 当然、コイン自体には何のしかけもない。
 途方もない小さな確率で、彼は表を出し続けた。


 そして、彼は、欲しいものを全て手に入れて、
 ……もしくは持っていたすべての欲求を使い果たして、
 退屈で退屈でたまらなくなってしまった。


 その朝、放ったコインは初めて裏を出した。
 彼は片方の眉を小さく上げると、嬉しそうに微笑んでグラスにワインを注ぎ、
 そこにずっと持っていた毒薬をそそぎいれた。
「ああ、なんて幸運なんだろう、なんて素晴らしいコインだろう。
 そうだね、お前は、本当のところ今日も表だったんだよ。
 だって私の最後に一つ残った願いを叶えてくれるんだからね」
 そう言うと、彼はためらわずにグラスを空にした。

 
 ――彼が眠るように息を引き取った少し後、その恋人がそっと部屋へと入ってきた。
 彼女は死んだ彼を見ても少しも驚いた様子を見せず、テーブルに近づくとコインを拾い上げる。
 指先でそれをまわすと、両面が裏になっていた。彼女が昨日の夜にすり替えておいたのだ。
 彼女は偽のコインを窓の外のエーゲ海へと投げ捨てた。
 胸のポケットから本物のコインを取り出し、亡骸の手に握らせてやった。
「馬鹿な男だったわ……というよりも、男が馬鹿ということなのかしら?」 


 彼女は部屋の中を探る。探し物が見つからずにふと思い立つと、カバンから銃を取り出す。
 そうだ、銃だ。華奢なその手には似合わないリボルバー
 弾装には6発入るところ、5発だけ弾丸が込められている。
 彼女はそれをぐるぐると回すと、自分のこめかみに銃口を当て……ためらわずに引き金を引いた。
 がちり、と撃鉄の鳴る音がして、弾は発射されなかった。


「ふふ……また生き延びたわ」
 顔を上げると、死んだ彼の胸元が膨らんでいるのが見えた。
 そこには部屋の金庫の鍵が、金庫の中から遺言状が見つかった。
 彼女は中身も見ずにそれを焼き捨てる。
 カバンの中から今度は書類を取り出す。
 遺産の全てを彼女に譲り渡すよう書かれた、偽造された遺言書だ。
 それを金庫へとしまい、鍵を元通りにしてから、ようやく一息つくと、
 彼女は銃を再び手に取って、いとおしそうにそれを撫でてつぶやく。
「素晴らしい幸運の魔術ね。向こうから全てが転がり込んできた。
 身よりもなく無一文だった私が、今では世界最高の大富豪だわ!」


「終わったのかい?」
 突然声をかけられて、彼女はびくり、と背を震わせて振り向く。
「あ……ああ、あなただったの。ええ。全部終わったわ」
 そこに立っていたのは彼女の浮気相手……というより元々の恋人だ。
「後は、ちょっとした茶番をするだけね。悲鳴を上げて、それからお葬式かしら。
 目薬を忘れないようにしなくっちゃ。その後は、もうどんな願いでも叶うわよ」
「そうかい、素晴らしいな」
 彼は彼女に口付けをする。
「ええ、だから後もう少しだけ我慢して待っていてね。大丈夫、ヘマなんてしないわ」
「ああ、分かってるよ。心配もしてない。何せ僕には幸運の女神が付いているんだからね」
 嬉しそうに微笑む彼女は、今部屋を出て行く恋人がポケットに忍ばせたサイコロ
 ―十面体をしていて、一面には女神の絵が、他の九つの面には骸骨の絵が描かれている―
 にまだ気付いていない。