「the CAVE」 2nd session (side:ロバ)
■1
この夜で一番印象に残っている話は、「悪魔は美しい」こと、そして「悪魔に、ルシフェルに救われるものがいてもいいのだ」という話。
だとすれば悪魔もある点で、慈愛の存在なのだ。
四層ある地獄の最後、コキュートスに囚われているルシフェルは(ザナルカンドの祈り子たち、あるいはアルティミシア城の七大罪との対決?)
「神よ、なぜ苦しむ人間とそうでない人間がいるのか!」反旗を翻した彼と共に、反体制デモよろしくシュプレヒコールをあげた悪魔とは?
オリュンポスの神々は、エッダの、トゥアハー・デ・ダナの、インドの神々は、その中に加わっていなかったのか?
非合理と合理の争い―今もそれはこの学び舎にも今もあるものだ。そうだとしたら僕は当然悪魔の軍勢の中にいる。
――悪魔が天使よりも優しくない?それは思い違いではないのか?
「おい、神よ!人間には手がないのか?人間に目はないというのか?」
シャイロックとなった堕天使は、哀れかのユダヤ人と同じ結末。
堕天したルシファーに天使長はその名を持って訪ねる「神とは何か?(ミーカーエル)」
おおっと!しかしここでバタイユが割り込む「神とは糞便!」
現代のスカトロジーへの耽溺は、耽溺そのものに耽溺している?
マダム・エドワルダ(幸福と富[エド]の守り手[ワルダ])のぼろきれへ、頭からぐりぐりもぐりこみたいと谷川が唄えば。
この新たな儀式はフンベニズム。いますぐ始めようフンベニズム!
しかし、J・I・谷崎は日本のバタイユなのか?
だとすると明日の雨はナオミを失った悲しみの涙なので。
お馬さんごっこで背中に乗せた洋服がやがて銀座のモガモボに買い叩かれても。
■2
江戸時代のかぶき者≒B・BOY
B・BOYはダンス・グラフィック・DJ・ラップ。
かぶき者なら講談・粋・ソバのすすり方だって必YO!なんだと。
300年前にも渋谷の宿場のあたりで、錦の羽織を来た彼は車をとっつかまえて遊郭へ。
「ござる」と「check it now!」が混ざり合って、
―「月も朧に白波の……ほんに今夜は縁起がいいわえ!」リリックを口ずさんで、鼓のビートで神さびるドラッグ。
しかし何故性は商品化されてしまうのか。
これまで見たどのAVよりも映画「月光の囁き」に興奮するということ。
大学生からマルクスを剥奪し、パッケージ化された性を押し付けて自由というラムで泥酔させる?
SとMでさえ類型化されるなら、サドの「悪徳の栄え」もすり減らされてしまうの?
類型化と想像力の終わらないレースを芸術と呼ぶならば。
cinii論文検索で君は「コンドーム」とキーワードを入れて150件を得るだろう。
でも秘密はいつだって君の隣に座って、知っている。
■3
昔々、一人のオタク少年がいた。
彼の恋は終わって、誰かが彼を笑い、誰かが彼をなぐさめ、例えば彼女のことを悪し様に罵ったかもしれない。
しかし彼の魂は美しかった、彼は後悔を持たなかった。
なぜ終わった恋は消えるものなのか?「付き合った人数」を数え上げるなら、永遠は見つかるまい。
過去?あれが?馬鹿な、「今」「ここに」あるじゃないか。5年前という今に、10年前という今に。
おお、ベアトリーチェ!ベアトリーチェ!振り向いてくれと念じる必要もなくもうそこに居る。
『芸術とは、死にゆく運命にあり、絶望に喰らわれている、肉塊にも等しい者へと、人間の尊厳を取り戻させるものである』
そして女子も含む、エロゲ経験ゼロの三人にひたすらその価値を説く僕がいました。
『セックスを経ても決して心は交換できない、という絶望は、セックスを丁寧に描くことでしか表現しえない』
僕は塹壕にもぐりこみまだ銃を構え抵抗する。
セックスが脱幻想化され、商品化され、あるいは類型化され、PTA側からも、性産業側からも、あるいは小説家からさえも(いいや、むしろ彼らこそが――!)消費し尽くされようと、さあ、僕らは中学教科書に乗っている、谷川俊太郎の「朝のリレー」を、バンクシーのように「なんでもおまんこ」へとすり替えていこう。
「なんでもおまんこなんだよ あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘もそうだよ やれたらやりてえんだよ」 ―『なんでもおまんこ』冒頭 谷川俊太郎
たった一夜の交わりによって、絶望の一瞬に心に灯火が見えるなら、それは芸術の本質、芸術『そのもの』だろう。
その価値は―兌換不可能なものであり、ピカソの深奥に匹敵する。
オタクの彼には見えていたのだと思う。
彼にとって恋も、愛も触れうるものだったのだ。
そしてそれは所有できる。確実に、2+2=4のレベルで。
君のポケットの中にある携帯電話と全く変わらない現実感で―
それは主観で、自分だけのものでありながら―きっと繋がっている。
母親と切り離された子どもが、それでもしばらく繋がっているように、性器の交わりもまた、パスを残すから。
あの優しい儀式の、ファンタジーの側面を僕は守るのだ。
バタイユ的側面はみんなよろしくー。
■4
医学部の端っこの方にそっとばれないように錬金術師パラケルススの銅像を作ります。
五行相克と五大元素、生かして、そして殺していく。雨が降ったなら木が伸びる。
サツキとメイの儀式で木々は根を伸ばし、葉を広げていく。
そうだね、男の身体の一部にも「根」を冠するものがあったね。
果てれば死である「メメント・モリ」しかして命が宿る「カルペ・ディエム」
洞窟のイメージは子宮へと通じる。再び生まれる通過儀礼としての「the CAVE」
母の胎内に描かれた芸術とは喜びと希望の思い出。
暗闇の中から外へ這い出す「イデアがもう見えない……」
さあ生まれ変わるのだ。
「そうだ、その機械は全ての人間に、我が子が生まれた瞬間のあの思いを取り戻させる。しかしその機械は売れなかった。だから世界は荒野になったのだ」
■5
ダンテとドナテロ、悪魔が美しくなければ、天使に祈る人間を誘惑できない。
地獄の底におりていくと、あれ?あそこにある道ってどこに通じてるの?
構想となったまま描けていない「ある独裁者専用の地獄」はやがて小説へ?
それとも生で話すとき専用の物語にしようかな、とも。
誤解を招きづらい話なら、他に放射能とアシタカの呪いに関しても。
てんかんがなければドストがないように、ぜんそくがなければ僕の表現もない。
「滅びはすでに私達の一部」とナウシカの言葉を、果たしてこれからの子どもたちはどのような心で聞くのか。
芸術と、現実と。
願わくば、まだ小さな小さなパス(小道)を、学問が広げ、結び合わせてくれますように。