7月30日 トーク・セッション その1 /5

●前書き
・七月終わりに大学の友人+αと色々と話し合ったのですが、その記録…を元に、僕視点から色々書き加えたものです。当日は15時間ほぼ連続で文字通り語り明かしました。
・ちなみに「●」で始まってるのが全体で話した内容で、「◇」で始まってるのが僕が勝手に付け足した部分……ってのが原則ですが、結構交じり合ってます。


基本的人権について

●人権の根本とはどこから来ているのだろうか?参政権、また財産権、自由権などが認められていく過程を考える。フランス革命アメリカ独立、その後ドイツでの社会権が成立するが、そこで憲法の中に描かれた人権の「なぜ」を問う。
 中学か高校の頃習った記憶があるが、こうした基本的人権は「自然権」の考え方と関係が深い。それは例えば「殺してはならない」「盗んではならない」というような価値で、どのような文明にもあった普遍的なもの。自然なもの、ということ。

◇僕は多分そいつにうなずいていたと思うけれど、今改めて「自然権」なんてのを聞くと、アリストテレスが「自然!自然!」と言って笑ってる姿が思い浮かぶ。または、北方民族でも、アフリカにもそうした民族がいたけれど、「殺すこと」が決して間違いではない、としたまま進んだ民族。それは当然、部族内で殺しあったわけではないけれど。あるいは決闘。合法的に殺しあうことが認められていた。日本には仇討ちの伝統もある。「殺してはならない―ただし―」条件をつけていいのなら自然法の磐石さが崩れていく。
 とまあ、この先は法学部のみなさまに任せよう。

●結局のところ、人権の「市民が政府を縛る」という考えはタテマエであって、実際は治者(政府)が被治者(国民)をコントロールするために自分に課しているもの、システムとして生み出されたものではないか。
 以下のような考え方がある。ある一つのパイ―ここではある一国の利益とか、そうしたものをまとめたもの―を考える。これを治者と被治者の間で取り合う。国民の反乱を防ぐためには、かれらが求めるものを、ある程度まで与える必要がある。グラフはある点まで上っていき、これよりも与えないと革命が起きる、というぎりぎりのラインがある。その点こそが「基本的人権」である、とする。

●しかし、そこで語られているものは「誰の」基本的人権なのだろうか。世界で主流とされている、そして日本も採用しているそれは、①キリスト教を背景として生み出された、②資本主義を背景として生み出された⇒基本的人権でしかないのではないか。

憲法は表向きには、国民が「勝ち取った」ものだが、裏では「立憲秩序」を保つための妥協の産物ではないのか?

◇僕はむしろ、権利が「使われる」ときのことを考える。後に出てくる法律の話の中では、法は細目化されているのではなく、むしろ解釈の部分が重要だという。人権が問題になるのは、「それが存在していない」ときと、「盾にして人権を行使する」ときではないか。既に身の回りに存在しているものに常に感謝する、というのはとても難しい。神棚を作って憲法を奉るようなものだろうか?ある老婆が戦後、星条旗に向かって手を合わせて「ナンマンダブ」と言った。あるいはレーニンに会いに行った農夫が村に帰り「新しいツァーリに会ってきたよ」と言った、そういうことか。
 人権は、それそのものよりも、それが侵害されるとき、変革されようとするとき、そうして争点になるときに姿を現すのではないか。すると、自然的に生まれたもの、勝ち取ったもの、という考えと同じように、上記のような「システム」という考え方もまた揺らいでくるという感じがする。それは数値でのみ表されるような金のような、共同幻想のようなものではないか。だとすれば、「権利のバブル」というような状況も起きるのだろうか?

●ところで、「基本的人権」とはそもそも良いものなのだろうか?

基本的人権を守ってくれよ! あれは、良いものだ!」 ―マ・クベ機動戦士ガンダム

◇無批判に、疑問なく、「基本的人権は絶対的に良いもの」って鏡に向かって10回繰り返して、まだ冷笑せずにいられるか?


②マスメディアの権力

●現代ではマスメディアが最高の権力ではないのだろうか?例えば、自民党のときは「麻生下ろし」が行われ、民主党になれば「鳩山下ろし」が行われる。いつだってネガティブ・キャンペーン(◇こういうタイトルの曲できそう)

●でも、メディアは「面白いもの」しか流せない、という縛りがあるから、主体的な権力とは言えないのではないか?

◇でもでも、それを言ったら立法だって、行政だって、誰か一人ないし小集団が自分の意向のままに世界を動かしている、って言えるのだろうか?権力はどこぞの金庫の中に大切にしまいこまれているのか。

◇権力がメディアにあって、それが「面白いもの」しか流せないのだとしたら。だとすれば、権力の源は、僕らが「面白い」と感じる、その感情、感受性、欲望のような部分にあることになる。だから思想家の中に「大衆をコントロールできる」という考えも生まれるし、実際にそれが行われているように「見える」けれど、これは実際疑わしい気がする。

◇僕は「魔女版・白雪姫」という作品を書こうとして下書きをしてある。あのお后さまの変わりに、小さな、いじらしい一人の魔女が例の「最も美しい人物」を告げる鏡を持っているのだが、王子様はそれを手に入れようとする。なぜなら「美を指し示す存在」を手に入れれば、大衆をコントロール出来る、つまり権力そのものとなるからだ。

村上龍が以前「F1を見に来た客はクラッシュの分もお金を払っている」と言ってたことがあった。二律背反、一方で安全であってほしいと心から願っていて、そのもう一方でおそろしい大事故が起きてくれないかと期待している。
 ベンジーはこう歌った「残酷な事件が多ければ多いほど週刊誌は飛ぶように売れる」
 ヒロトはこう言った「ステージでチンポ見せる分もチケット代に入ってるから脱ぐ!」(これは違う?)

◇僕たちは政治家が転落し、墜落し、地面に叩きつけられて首の骨を折るシーンをどこまでも楽しみにしているのではないか。福田首相の最後の記者会見での失言は何度も何度も流されていた。メディアのネガティブ・キャンペーンは、大掛かりなイジメ―それも正当に行える―ものではないか。悪口を言うことの快楽。「菅は無能だ!」と口にすること、書き込むことの気持ちよさ。人の不幸は蜜の味、メシウマ。僕らが「リア充爆発しろ」と叫ぶとき、それは嫉妬ではなく、むしろ「爆発することを知っている」ほくそ笑みなのではないか―

◇けれど、その視点だけ?また上書きされるように違う価値観がやってくる。僕らが彼らの、政治家の、あるいは政治の失脚を期待するのは、美への期待なのではないか?マイヤ・プリセツカヤの踊る「瀕死の白鳥」は、一羽の白鳥が最後の羽ばたきを見せて死ぬものだった。人も、桜も、その散り際がもっとも美しい。だとしたら、「首相おろし」の嬌声は、(あるいは多くのイジメでさえも?)決して悪意に満ち満ちたものだけではなく、美を追い求める気持ちが働いているのでは?クラッシュも、残酷な事件も、限界の地点において、人は最も人らしくなる。多くのドラマ、映画はそれを描いている…
 そうして僕ははたと手を打ち、この馬鹿げているかもしれない理屈をタイプする。「権力の源は、美である」

●メディアは「面白いもの」だけを流す、と書いたが、実際は違うのではないか?

◇『メディアは悪くない、あいつは素直なだけなんだ、ただ国民が求めるものを流しているだけなんだ、あいつは鏡なんだ!』―そういう意見があったとして、僕はこれはほんの少しずれていて、「メディアは『国民の求める面白いもの』であるだろうと想像しているもの」を流している、という気がします。
 そこに小さなズレが生まれる。視聴者はそのズレた場所に定着して、そこからまたズレが…と段々進んでいく。あまりにズレ過ぎると今度はゆり戻しも起こる。大体視聴者を大衆という束で見てしまってかまわないのか?

●「集団的想像力」について。集団の想像力?どういうことだろうか?

●例えば誰かが「AKB48いいよね!」と声を上げる。誰かがそれに応答する。自分で考えるよりも先に、他者の言葉が割り込んでくる。誰かの想像・感覚が伝染し、共有されていくこと。


③集団と個性

●メディアが指向するものと、その逆に個性を指向するもの(その『個性』自体が『作られたもの』という考え方もありますが)を二項対立で考えていってみよう。例えば、メディアが促すのは「みんな同じで安心」という方向だとする。なんかキムタクが着てる紫のダウンがはやったことあったよね。これに対して個性志向…自分自身ロックバンドをやってたんで非常にシンパシーを感じるんですが、これは「人と同じものはカッコ悪い」と考える。
 音楽で言うなら、CDを出せばいつも一位を取るようなポップ・ソングをメディアは促し、一方で個性志向はマニアックな音楽を求め、ときにはそれを誇ったりする。
 抽象的には、メディアからは「既に提示された答えを受け取るだけ」なのに対して、個性志向は社会・世界に対して「問う」側に立とうとする。

◇この話を聞くと、僕は文化人類学を思い出したりする。レヴィ・ストロースが、西洋文明を直線、一方で何百年も同じ暮らしをしてきたジャングルの中の民族を円運動に例えている。
 もっと分かりやすくするなら、「繰り返し」と「変化」。人間はこの両方を求めたがる…ってのは表面的には結構納得してもらえると思うのだけれど。それが直線(変化)と円(繰り返し)、またはメディア=安定(繰り返し)と個性志向(直線)と当てはめられる。
 音楽はこの二つを体現している。つまりリズム(繰り返し)とメロディ(変化)がほぼ同時に行われる。文学も詩も演劇もクリシェ、繰り返しながら変化する、というのは基本である。
 もっとこじつけるのなら、銀河の渦巻きやDNAの螺旋に触れたっていい。

●ある東大生が映画の恋空を見に行った、というエピソード。かれらは、そのストーリーがあまりに荒唐無稽に思えたのだけれど、ギャルたちがその映画を見て涙を流して感動しているのを見て、爆笑してしまってひんしゅくを買った、という話。

◇これはさまざまな示唆を含んだ問題かもしれない。また自分の小説の話。ある女の子が、「deep love」を読んでむちゃくちゃに感動して、「どうして芥川賞とかノーベル賞とか取らないんだろう?頭の悪い私でもこんなにも感動するのに」と語る。別に伝統的な価値観にしがみついたって、例えば「より多くの人間の精神の危機を救う物語が最も優れた物語」ということなら、大衆的な芸術が純文学やら純粋芸術やらに劣る要素なんて見当たらない。
 アニメやラノベが人に与える効果が「本物ではない」と叫ぶことに対し、賛同する声はそれほど多くないだろう。

◇「それは本当の救いではない」として、では本当とは何だろう?

◇阿部公房の「第四間氷期」の中で、未来は現在の人間がまったく予想しない形で訪れる、ということが描かれる。ときどき、アニメでもラノベでもネトゲでも、コンテンツを消費する中に、静かな平穏と呼べるようなものが横たわっていることを感じる。「ひぐらし」や「デスノート」の模倣・影響を受けた事件というものがあったけれど、メディアが注目していない、あるいは事件性が出ないから数値化できないかなたで、そうした作品群がどれほどの人の命を(これは決して誇張ではなく)救っているか、と考えることが出来る。
 モニタを前にしてニヤニヤするかれら(僕含む)がやがて主流になって、現実でのコミュニケーションがどんどん退化していって、けれどそこは思ったよりもずっとすごしやすく平穏な世界になるかもしれない。現在の人間は「キモい!」と叫んだとしても、未来に暮らす人にとっては。