7月30日 トーク・セッション その2 /5

④選挙・差別選挙

●「もはやAKB総選挙と実際の選挙って本質的に変わりがないよね」テレビみない僕には総選挙とやらがどんなものかよく分かりませんが、とにかくメディアが選挙に対して強大な役割を果たしている、という話。

●差別選挙の方がいいのではないか。
 1:票数に差をつける。職種がレアであればあるほど票数が多くなる。例えば医者・弁護士は多く、飲食業・サラリーマンは少ない
   ⇒「あれ、俺AV監督だけど500票ももらえるよ」はどうするの?
 2:簡易テストを課して合格点に達した場合だけ投票できる
 3:政策リストへの賛成・反対のポイント制にする
   ⇒誰がその問題・リストをつくるのか?そこで有利不利が決まるのでは?
 4:票の売買が行えるようにする。東京の二十歳の貧乏なフリーターは喜んで売るだろう。
   ⇒リバタリアン的にはどうなの?
   ⇒格差拡大につながる
 
●熟議によって、国民の意識を向上させる、という方法は無いだろうか。裁判員制度のように、国民を教育し、リテラシーを身につけさせる。 ⇒どのような方法でも何らかのバイアスがかかるのでは?

●右派と左派はどのように決定される?
 ⇒経済では比較的分けやすい。小さな政府⇔大きな政府。経済活動の自由⇔福祉国家などで分けられる。
 ⇒一方思想では、内部でもさまざまな考えがある。左派の党派争いはずっと激しかったし、穏健⇔ラディカルで大きな違いがある。右派でも親米か反米かなどで違いがある。

●そもそも、民衆は「政策」によってでさえ、まっとうに、よく考えて政治家を選んだ、というようなことがこれまであっただろうか。拡大すれば、これまでのどの時代においても常に、現代と同じように、イメージ、人脈など、政治の本質とは違う要因を基にして選挙を行ってきたのではないか。そうなると「間接民主制」という制度そのものが、「正当な」「正しく国民の意思を反映する」選挙が出来ないという根本的な問題を抱えているのではないか?という疑問に突き当たる。

◇以前「ケータイを活用した直接民主制」というのを考えたことがある。送られてくる法案に対して、すべて国民審査が行われる。法案はあまりに毎日、沢山送られてくるためにメディアで取り上げている暇もない。与党・野党が三行づつ書いた説明文を読んで賛成・反対を決める。この形とはいえなくても、やがて技術を駆使した直接民主制は可能か。
 ⇒もしも不可能だとするなら、何人で不可能になるのか。しかしその「何人目」というのは一義的に決定できないだろう。

●しかし果たして現在の(政治・社会などさまざまな)状況を変えるべきなのだろうか?
◇昔、「あたしンち」という漫画で、母親が「今のままでいいじゃない!」というスローガンで市議か何かに当選する。これは笑い話なのか、それとも…
・例えば、震災の復興を行うにあたり、道州制を導入する……というような、無理に新しいことを行うのではなく、たとえ問題があるとしても現在の状況である程度まで復興を行い、そこから考えるべきでは?
 ⇒新しいものを導入することの混乱、というデメリットが存在する。


⑤裁判について

●日本では、「提示型」裁判や「明確化」裁判が行われる場合がある。
・「提示型」は、自分の関わっている問題を裁判にして、メディアに取り上げてもらうことで、例え敗訴になっても(もしかしたら敗訴になるからこそ)国民の意識を喚起する、一種のアドボカシーとして機能する。
・「明確化」はその問題のあいまいになっている部分を明確化するために行う。これも裁判そのものではなく、外部への影響という点で共通するか。

●一見これと関係ないように見えて、魔女狩りの裁判も、「行為そのものを裁くのではない」という点で類似しているのではないか。
魔女狩りの容疑者は「私はこんなことをしていません」ではなく「私はこういう人間ではありません」と弁明している。
靖国の参拝に関する裁判もまた、その参拝の行為そのものではなく、心情・信仰などの「意味」を裁いている。

◇人間はそもそも人間を裁けるかどうかにも右往左往しているのに、果たして意味を裁くなどということが可能なのだろうか?そこには、美の基準を人間が定める、というような無理が感じられる。「モーツァルトよりベートーベンの方が優れている」という言葉のナンセンスさを考える。

アメリカで裁判が多いのはどうして?それは「勝てるかもしれない」という期待があるから。アメリカでは、日本の感覚からするととんでもない結果が出る可能性があるので、明らかに不利な場合でも「とりあえずやってみる」ことへの動機がある。
 ⇒事故が起きて一番最初にやってくるのは、警察でも保険会社でもなく弁護士「裁判をするときは私の方へ」と名刺をばらまく。
・その一方で、日本の選挙は専門家が非常に厳格にやっている。「こんなのはおかしい」と思うような判決はまず出ない。とっても正確。

●裁判はどんなときに起きるのか、また起きるべきなのか。その根本的な基準を問う。「裁判とは何なのか」という問いに近いかもしれない。

●裁判は紛争処理、事後処理のために行われる。法律がそもそもそのように出来ている。トラブル・シューティング的なものであって。先に立って、犯罪を防止するようなものではない。

◇この話はキヨシローの「警察に行ったのに」という曲を思い出させる。モチーフになっているのは、ストーカーされていると言って警察に行ったのだが相手にしてもらえず、結果殺人事件が発生した事例。警察もまた、事後処理として動く部分が大きいのだろうか。予防という部分は、あまりに不確定すぎるのか。

●しかし「決闘法」という法律の仕組みもあったよね?これをベースにして今まで来てもよかったじゃないか。どうして禁止されるようになったんだろうか?(日本の仇討ちというのも同様に)
 ⇒そこには不確定要素があまりに多すぎて、政府が統治するのが難しいためではないか。

◇「本人たちの同意さえあれば、何をしてもいい」という考え方はどこまで行けるのだろう?リバタリアンは決闘法を許可するだろうか?安楽死も、自殺も、臓器売買も、クローン人間も、そこに立てばすべて肯定的に受け止められるか?では不死が発明されたとしたら?
 この本人の同意、という意味では決闘法と仇討ちは結構違う。
 例えばセックスなら、本人同士の合意があれば合法、片方の同意がなければレイプになる。
 殺人なら、本人同士の合意があれば決闘、片方の同意がなければ殺人事件となる
 集団自殺なら、本人同士の合意があっても(相互)自殺幇助、片方の同意がなければ無理心中。

◇「同意」というのは、どこまでが本人なのだろう。それを無効にする考え方は人間の尊重という考えを傷つける。一方でそれを尊重しすぎれば今度はあらゆる価値が無効化されていく。同意の上なら何をしてもかまわない、本当に?
 人間の意識は、はたして完全に外界から切り離された存在だろうか。同意はどのようなプロセスで行われるのか。社会、人間の作る共同体が人間の一部なのだとしたら、同意というのも個人で行えるのではなく…


⑥『カオス的な秩序』

●例えばサッカー。ある一人の選手の能力のうち、どこがよく伸びるのか、また試合でどう生きるのかは全然分からない。だから、総合的にすべての部分を延ばすような練習をする。たとえばリフティングが全然できないプレイヤーが、試合では空間的にボールを使ってゴールまで運べたりする。

●総合、全体として眺めること、それとは対照的に、近代科学…というよりデカルトの段階から、事物は分解されるようになった。より細かい部分への分解と分析、その細かい一つ一つの部分で秩序を発見しようとした。
 これに対し、全体を重んじ、個々の部分はカオスのままにさせておく見方がある。長い間、デカルトタイプ、分析タイプによって科学が推し進められてきたが、近年また総合、全体として眺める、ということも注目されなおしてきている。
 現代では、この両方の感覚を持って進むことが必要になるのではないか。カオスとしての全体を抱え持つ…


⑦医療について

●医療においては、このカオス=全体 ⇔ 秩序=分解 の対立はどうなるだろうか?
 医学においては「分解」を行うことが大前提になる。治療は患部に対して行うもの。心臓が悪いときに「身体全体」の話はしない。
 一方で「全体」を見ようとする考え方も進み始めている。例えば「痛み」は患部の異常だけでは説明できない場合がある。患者が痛みを訴えている場合、もしもまったく異常が無かったとしてもそれは「症状」なのだ。痛みは最も具体化、客観視しづらいものである。それを感じるのは主観でしかない。傷が外に現れない場合。
 
●理論と実際の治療の間で乖離が起きている。例えば看護士は、ナイチンゲールの書いた分厚い本と格闘して、大量の理論を勉強していく。その理論は個別の、「分解された」状況には精通するが、例えば全体、個人、患者の精神のケアなどの能力は身につきづらい。
 同様に、「良いお医者」と呼ばれるのは、「やさしい言葉をかけてくれる医者」であって、研究している人々ではない。

「うつ」の状態を治療することは常に正しいのだろうか?例えば「うつ」がその人に現状にとって正常な状態、あるいは新しい場所へ向かうための過渡期とは考えられないのか。例えば……
 ⇒これまでの状態Aから→うつの状態Bとなっている。本人は実はC、新しい状態へ行きたいと考えていて、それが本当の解決であるはずなのに、薬などでAに戻してしまう、ということが起こりうるのでは?

●心理学においても、上記の看護士のような状況がある。手続き的に、一般的な対症療法によって「救われました」と言われることには疑問を感じる。これらもやはり、理論に基づくものである。患者を救うことが出来るのは、医者であるのか、家族であるのか。
 これまでは家族の機能が非常に大きかったが、それがほつれてきている。

◇「精神の強制的治療」のモチーフは、例えば『時計仕掛けのオレンジ』や、ウルフの『ダロウェイ夫人』他にも多くありそうだ。現代医療は狂人となったニーチェをどのような方法で治療しようとしただろうか。「うつ」は脳内の科学物質に問題がある、具体的なものである、という説明には違和感が残る。
 僕自身、何度か精神的な危機に瀕したことがあり、しかしそれらを解決したのは、合理的には到底説明出来ない、ある種の体験だった。だから、あるカウンセラーに対して、ある哲学者が仏教的なアプローチを提示して反論されたとき(「そのような方法ではなく、これまで心理学的な積み重ねが!」)違和感を拭えなかった。

◇いやしくも、「芸術で誰かを救いたい」などと考える者がまだこの21世紀にも存在するとして、「しかしお前、芸術家よ、救いとは何か?」刺すようなその質問を常に問いかけ続けないでいるなどということが出来るのか?

◇けれどね、同時に僕は言っておきたい。ある女の子は―この世界で最も弱いと思われたようなその一人は―そんな問いも必要とせず、どのようなイデオロギーの持ち主だろうとまぶしく見上げるような高潔さで、数人の子どもたちのために走って見せた。命どころか、彼女の名前や名誉、その存在そのものと言っても過言ではない、それを全て天秤に雷光の瞬く間ほどの逡巡も見せずに乗っけて見せた。
 彼女は結局敗北したが、僕は目の前で、その子ども達が、『一瞬にして』救われるのを見た。そのような行為は医療にはなりえない。マニュアル化は不可能で、あえて書き記すなら「死を賭す」そのこと。だからその救済はもう魔法だった。(彼女の物語は僕の頭の中に未だ眠っている)

◇だから「救いの本質」などというものについて語ることは出来ないが、僕は少なくともその断片について言うことは出来る。それは、優しい誰かが、自分のために命を賭すことで現れる奇跡である。それが誰の身にも―救う方にも救われる方にも―訪れるとは到底いえないが、もしそのような機会があったら、どうか迷わないで。

◇家族の機能、共同体の機能、というのは既に言い古されているという気もする。個人化、共同体の崩壊という話なら、既に明治・大正に言われ始めている。教育、育児放棄児童虐待。老人福祉、孤立化……
 これら全てを「問題」という言葉で言い換えていいのか。政策、NPOの力でまとめなおそうとすることは本当に可能なのか?いや、当然可能だろう。実際に様々な団体が様々な結果を出している。しかし同時に、そうした崩壊が文明の、便利さの代償である、という考え方もある。都市、文明、科学と医療の発展と共同体の崩壊は表裏一体で分かちがたいもの。
 だとすれば「共同体の再建」こそ叶わぬ夢。全て歪んだ形でのみ実現され腐っていく……


⑧震災後のユートピア

●参加者の一人が声を落とし、「これは誤解を生む言葉かもしれないが」と前置きして話し始めた。「震災が、東京に起きて、そしてその当日、翌日のような日々がずっと続けば良いと思った」と述べる。

◇僕も見た。誰もが徒歩で道を歩いている。人々の顔には、確かに不安があるだろう、疲れも見える。井の頭通りはひどい渋滞だ。けれどクラクションは鳴らされない。僕は見た。コンビニの前でおばさんが飲料水を配っていた。マジックで書かれた「休憩所」の文字。僕は聞いた。下北沢のライブハウスは避難所として、宿泊所となったという。いくつかのホテルも無料解放したそうだ。僕は見た。疲れて見える人に誰かが声をかけている。座り込む老人に誰もが手を貸す。僕は見た。エプロン姿の女性が、近所を回り一人暮らしの老人達に声をかけて回っているのを。誰もが困っている人を救おうとしていた。利益の追求などという昨日までの生活原理の方がファンタジーに思えた。外国はこぞって日本の「統制の取れた」様子を絶賛した。そこには「美談」の胡散臭さとナショナリズムを煽る口調があった。しかし僕は見た、そこに広がっているのはそうした言論には到底覆せないユートピアだった。カタストロフの後のユートピア。誰か叫んだだろうか?「神の国は近づいた」と。
 しばらくして本屋に災害ユートピアを題する本を見つけた。

●「原始宗教は―」最初の参加者が続ける「オットーが語っているけれど、一つの恐怖があった。例えば自然災害に対してのもの、その畏怖の対象としての恐怖へと祈りを捧げることで、宗教は出来、共同体が生まれた」

◇都市機能と文明が麻痺し、資本主義が意味を失い、科学は役立たなくなって、そして上に書いたように、代償を失ったことで、共同体が一瞬にして復活したというのか?

●「都市は、そういった、原始宗教にあった恐怖を、どこまでも排除するという機能を持っている」

●「また、その共同体において、『犠牲となったもの』が『聖なるもの』となる。」

◇例えばラスコー・アルタミラの洞窟壁画に描かれているのは牛など「食べられて」犠牲となった動物達が。
 それは兵士達、特攻兵たちにも言えるのかもしれない。公のために、家族のために、犠牲となった人々を九段に祀り、知覧に祀る。


⑨長寿と医療

●「長寿は、本当に無批判に良いものである、と言い切れるのだろうか?」
 <より長い生を!一年でも長ければよい、一日でも、一時間でも、一秒でも、長ければ長いほどよい。>

◇僕はひどいぜん息だった。しかしその病気があってこそ本を読むようになったし、内向的な性格、人格形成に多大な影響を与えているため、もしもあと10年遅く生まれていたら(ぜん息の特効薬的な薬が出来ていたため)違う自分になっていたと確信している。
 そこでの自分が凡庸な存在だとしたら、自分はぜん息によって多くのものを得ていることになる。 
 ⇒病気を無批判に悪いと言い切ることは出来ないのでは?あるいはドストエフスキーの「てんかん」も彼の作品に影響を与えたし、風邪を引いたとき、病気にかかったときの両親の看病が親子の絆を深める機能を持つ⇒薬で一発で治してしまう。

●薬学はカオスに満ちている。何がどのように効くかはよく分からないままに、効いているから使っている、という状況がある。
 「それは、鍵と鍵穴の関係、これを飲めばこれに効く、というようにはいかない。」