7月30日 トーク・セッション その3 /5

⑩「物語」が先に用意されている

●科学や、前述の医療に当てはめてもいい。来るべき未来―ある状況がやってくるその前には、あらかじめ「物語」(ここではかなり広く「物語」を取る)の形で、人々の意識の中にそれが用意されている必要があるのではないか。

◇ナポレオンの支配の後、国民意識と民主主義への要求が準備されたことで革命が起きたこと、あるいは産業革命がなぜ中世の間起こらなかったのか、またあるいはルネサンスがどうしてあのタイミング起きたか、ということにも繋がる?

●例えば文学の形、特にSF、また詩によって。未来を描き出すこと……

◇エンデのモモのあとがきには、「この話は過去でも、未来でもありえるもの」という記述がある。


構造主義・哲学
●私達の中の、自己の自由、自由意志、「個性」の感覚は、実際はその社会の枠組の中での選択にしか過ぎないのではないか。
◇例えば、ネットゲームのキャラクター作成のように、あらかじめ用意されているパーツの組み合わせに過ぎず、出来るだけレアな組み合わせを選んで「オリジナル!」と叫んでいるだけではないか?


⑫「哲学はオワコン」ですか?
●現代の哲学は経済と深くかかわっている ⇒ 哲学さえも「有益」の枠の中で生きているのか?

●これまでも、哲学は「有益」であるべし、という考えは多くあった。変わったのは哲学の方ではなく、「有益」がほぼイコールで経済的なものを指すようになっただけではないのか。

◇「私が滅んでも、人間がいる限り第二、第三の哲学が必ずや現れるだろう!」


核兵器以外全部没収
●参加者の一人がこのような提案をする。各主権国家は、それぞれの軍隊をすべて廃止して、その代わりに核兵器のみを所持する。つまり、戦争がおきるとすればそれは100%核戦争となる。領土戦争は本質的に意味が無くなる。なぜならそれを得るための侵略は彼の地を焦土にすることを意味するのだから。あるいは攻撃対象を首都、政治機能を持つ都市に絞っても良い。
◇上述の災害ユートピアの話へと接続するのではないか。原始宗教の「一つの恐怖」であり、怪物・魔王・邪神としての核兵器があることで、それを恐れ続ける人々の共同体が構築される?


⑭英語帝国主義・言語・翻訳について
●東大において英語の支配が進んでいる。まずは入試。二次試験の英語は量が多いこと、リスニングの比率が高いことで帰国子女に有利な状況を作り出している。
●秋入学・英語入試・英語授業の流れは、教師たちに対して、英語力を向上させなさい、という圧力として働いている?

●東大の英語教育は、イングリッシュ・オンリークラスでさえ、「実用的な」力をつけるとは言いがたい。
◇授業自体は嫌いではなかったのですが、受験時の英語力を保持する、ということ以上の意味を感じなかった、というのが大半の生徒の感想のように思える。それならば英語論文を大量に読んで、一方コミュニケーションはNOVAにでも通った方がいいのではないか。

●しかし、問題は学問の世界が英語中心に回っていることではないのか?実際にレポートを書くとき、発表を行うとき、英語の論文を読む必要にせまられる。日本人も「世界に出るため」に英語で書くことが求められる。
●だからといって、初めから英語で考え、英語で書いていく必要があるのか?インドなど英語が準公用語の国には決して追いつけないのでは?また、言語と思考が密接な関係があるのだとしたら、日本語で考えることが減ることで、「英語的な」発想・発見しか出来なくなるのではないか?

●「英語に翻訳されていない本」に価値を見出そうとする活動がある。


●スイスの映画は、三ヶ国語が字幕無しで出てくる。
 ⇒誰もがそれぞれの言語をマスターしているのではなく、会話による表現がほかの地域で横断的に使われている。

ロラン・バルト:俳句はシニフィアンシニフィエが一体化すること


●翻訳文学は果たして劣ったものだろうか?文学部の「原著至上主義」への懐疑が表明される。「日本語が滅びるとき」外国語を推進する中で、日本語はどんどんその相対的価値を失っていく。古典文学へのアクセスを失っていく。高校の国語教育で、古典・漢文が切り捨てられ、英語へと回される未来は想像可能?
◇個人的には、例えば絵本の翻訳に関して言えば、翻訳されたものでも、子どもに与えるものは原著とほぼ等質であるように思える。児童文学はおそらく「物語」であって、「物語」のエッセンス部分は文学というよりも絵に近く、完全に翻訳可能で、さらに言えば音楽よりも「世界共通語」なのではないか、という考えを持つ。武満徹は「音楽は世界共通語と言われるが、実際はそうではない」と述べている。西洋音階から外れた、特に平均率を聞きなれた耳には、民族音楽は耳障りに聞こえる場合があるだろう。一方でアラビアンナイトを持ち出さなくても、世界の民話の類は翻訳され、その物語が全く異質で受け付けない、ということはそれほど無いように思える。世界中に散らばるかぐや姫の類型。
 
◇一方で「語り口」を重視する文学は簡単には翻訳されえない。フォークナーの短編を読んでいるとき、突然韻文に近くなるパートが現れる。英語ではそれに気がつくけれど、翻訳では全く気がつかないまま。そしてその最たるものが詩となる。カミュも自分が小説家であったからこそ世界的に有名になったのであり、詩人だったらはそうは行かなかった、との言葉を残している。詩は翻訳者、また時代の影響を大きく受けるだろう。


⑮文学の定義

ラノベは文学か?
◇そうではない、と答えるとある問題(連続性問題?)が生じる。つまり、ラノベから一枚ずつ絵を抜き取っていき、文体を少しづつ変えていったとき、どの地点においてラノベが文学化するのか。逆に言えば文学の定義とは何か、という話になる。ラノベに会話文が多いという指摘は、戯曲文学はどうなのか、という問いを喚起する。挿絵の話をするなら、例えば「小説ウィザードリィ」の『風よ、龍に届いているか』などは挿絵、表紙絵を一切省いているし、内容も、ゲームを闘争本能やタナトスの欲求などに昇華させた、「文学」と呼ばれているものに十分匹敵するもの。さらには『風よ〜』の作者の友人である古川日出男は、ウィザードリィに着想を得た『アラビアの夜の種族』で賞を受賞しているし、これは文学として認識されるだろう(さもないと、今ある小説の多くは文学から脱落してしまいそうだ。)

◇同じことが「純文学」という存在にも言える。文学と純文学の境界線は一律化なんて出来ないだろう。
◇「文学とは何か」という問いを「テクスト理論」というもので延々と問い続けたが、まだこれは十分に解決していないように思える。
◇さらに言えば、どこから「音楽か」という話にもなる。ある楽曲にノイズのエフェクトをかけていく。どの地点で音楽はノイズへと変わるのか。

◇むしろ、「文学とは何か」という問いが、どのような意図で、目的で発せられたのか、という点にこそ注目すべきではないか。上記の問いで言うのなら、ラノベは文学か?という問いがあって、「文学とは何か」という一見より根源的に思える問いは、実際は従属するものに過ぎないのではないか?

ラノベは「文学と漫画の中間として存在しうる」
◇ある授業で、葛飾北斎の書いた「北斎漫画」という書籍が紹介された。これは絵と文章が描かれていて、一枚絵の漫画のようになっている。こうした形態の作品が、江戸時代には結構見られるのだが、これらの本は武家、上層の人々の本棚から、ほかの文字だけの教養本と一緒にしまわれていたらしい。つまり、ラノベ的な絵と文字がいっしょくたになっていたものが、読書として、低俗なものとしてではなく捉えられていた。

ハリーポッターラノベですか?(ハーマイオニーは一期が最高にかわいいよね。ウィンガーディアム・レビオーサ!)


⑯いじめとメディア
●お笑いブームの到来といじめを関係付ける意見がある。果たしてこれは正当なものか?メディアが子どもに与える影響、という内容にも繋がっていく。構造主義の話とも。子どもたちは、メディアの提示するような形でしか恋に落ちることが出来なくなり、メディアの提示する心理状況で感動するのではないだろうか。

●インターネットでのいじめの問題は、加害者の匿名性が強いことで、旧来のように原因を除くことが難しくなったこと。そもそも教師や親がそれを発見するために、多大な労力や、コンピューターや携帯電話を盗み見する、といった人権侵害を含む行為まで必要になるという問題がある。
◇いじめ対処チームが、コンピューター・携帯の監視・盗聴を行う日が来ても驚かないだろう。常套句「子どものためを思って」「それによって子どもが守れるなら・自殺を防げるなら」
◇誰にも気づかれずに起きていたいじめが、例えば社会に出たときに時間差で効いてくる、ということも、ネット上いじめでは十分に考えられること。

◇記者が芸術家に様々なイジメについての資料を見せている。芸術家「なんてひどい!」記者「でしょう?この事態を何としても……」芸術家「なんて画一化されたイジメだ。想像力の欠如だ!私が子どもの頃は違った。もっと独創的なイジメが行われるようにならなければ!

◇「いじめられている君へ」へのアイロニーとして高橋源一郎が書いた文章。「いじめられている君へ。とにかく逃げろ」「社会に出た方がずっと恐ろしいいじめが待っている」教員、福祉、医療、プログラマなどいじめが多いとされる職種。閉鎖的社会、能力至上主義、決して子どもだけの問題とは言えなくなっている。インターネット依存とも関連し。


⑰名前について

●フランスのとある原始民族は、動物に名前をつけず、代わりにそれらを『リズム』によって区別していた。例えば短く五度、太鼓を連打することで、ある鳥が来たこと、そしてそれを射落とすために弓を構えることが伝達される。

●日本人の名前は、「親が子どもにどうあって欲しいか」の願いを込めてつけているものではないだろうか。優しい子に育って欲しいと思い『優子』。同じ名前の人間も居るにはいるが、それほど頻度は高くない。つまり名前と個人が1対1の関係となる。
 一方でキリスト教ではジョン、マイケルを初めとした聖人・天使の名前、イスラーム圏でも「モハメッド」など多くの同じ名前の人がおり、こちらでは名前:個人が一対多の関係となっている。それは創作というより選択となり、日本ほど「親の願い」という明確な形を取らないのではないか。

●「自分の名前の由来を調べてきなさい」という宿題は、10年前も今も同じように行われている。しかも全国で?

●光宙=ピカチュウ という名前⇒facebookに登録する頃になったらすぐわかっちゃうよね?


⑱SNSとアカデミズム

ツイッターで在野・大学の知識人たちが、その境界を飛び越えてクラスタを作っている。オンラインでの読書会に簡単に参加出来ることで、貴重な交流が出来る。

●最初は個人ホームページ、次にブログ、次にmixi、次にtwitterfacebook、これを一連の流れとするなら、次は何が来るだろう?
●インターネットの次なる進化。三次元的、よりリアルタイムになる?


ファイナルファンタジー10

FF10に埋め込まれている様々な象徴。例えばシン(sin/神)は上述の「犠牲となるものの神聖化」であり、一つの恐怖、原始宗教の畏怖の対象となる。シンに恐怖する人々の築く共同体、生贄の儀式が行われて、その後の平穏としてのナギ節(凪・和ぎ)の安堵感。
 これに対し、「神は死んだ」FF10-2の世界では、個人主義がぶつかり合い、華やかな中で人々は「自由の牢獄」に苦しめられているように見える。その世界はどこか冷たい。テーマソングにもその相違は表れている。10のテーマソング「素敵だね」の自然さと、10-2の幸田の商業的な印象。

FF10-2―自由の牢獄― ってサブタイでいいんじゃね?あるいは―自由からの逃走―。
◇ユウナかわいいよユウナ。


⑳読書はどうあるべき?
●何かを読み、「理解する」ということは一体どういうことを指すのだろうか。どの状態で「理解した」といえるのか。渡辺一夫は、読書しているとき、「常に何か読み残しているような気になる、(書物は)不気味なもの」と述べている。

●理解とは体験に近いものではないだろうか。自分の頭の中で、その本の内容を自由に組み変えることが出来る状態。
 また、その逆に「よく理解できた本はしっかりと記憶に残っている、忘れない」という事実から逆算も出来るかもしれない。

●自分の中であいまいながら形を取っていた思い、考えを、書物が「適切な言葉で言い表してくれる」という考え方。「ああ、それだ。僕が思っていたこと、言いたかったことはそれなんだ!」

●「共に考えることが出来る」擬似的ながら、相互通行が出来るように思える読書が「良い読書」なのではないだろうか。
 
●また一方で、分からないもの、難しいものを理解出来ないまでも読んでいく、ということも大切なことだと思える。
 わざと文章・内容・説明を難しくすることで、読者に学びを進めさせる、という作者もいる。例えばラカン

●それなら論文はどのように読むべきだろうか?
 ⇒数学のように読むという方法・意識がある
 ⇒その論文の考えかたを、批判・受容して、自分の持っている考えに組み込むことが出来たときに「理解した」と言える。

◇現在「読書術」と名のつくものを横断的に読んでいる。とりあえず役に立っているように思えるのはエンピツで印をつけること、それも様々なルールを決めて。また図形的にまとめていくこと。

◇この夏学期の体験では、一度おそろしく難しい文章を、必死こいてノートを取りまくって読む、という経験が、一般の文章を早く理解しながら読むことに大きく影響しているように思えます。

●先行している学問を崩し、さらに新しいものを組み立てる、「いい論文を書きたい」という気持ちが根源要求としてある。