7月30日 トーク・セッション その4 /5

■21:小説と演劇の違い

●演劇は、小説に比べて「実在の人物」を思い浮かべて執筆される場合がある。
 ⇒例えばシェイクスピア、また『シラノ・ド・ベルジュラック』もその要素が強い。

●ドイツ文学における「ビルドゥングス・ロマン」例えば「ヴィルヘルムマイスターの修業時代」や「魔の山

◇それはそれとして、「小説を読んで泣く」のって案外少数派なんですかね?僕、多分50%以上の確率で泣いてる気がするんですけど。児童文学だとこれはさらに跳ね上がる。散歩してるときに思い出し泣きもよくあること。映画も結構やばくて、近年のジブリハウルとかポニョとか号泣して目赤くして劇場出てくる。ところが参加者は「本を読んで泣くことはほとんど無い」とのこと。昔の友人も同じことを言っていた。
 
エヴァ破のシンジくんの「来いッ!」は、何度見てもスイッチ押されたみたいに涙出るよね。


■22:科学論文について

●科学においては、二つの「仕事」が存在している。
 ①科学の新しい理論を「創りだす」仕事と ②それらの理論を「検証・実証・構築」する仕事(サイエンス・ワーカー)
◇これは「科学革命の構造」の中でも似たような記述がある。「パラダイム・シフト」を起こす発見が行われると、その後に、その論理を磐石なものにするためのさまざまな証明・実験が行われる。
 ⇒しかしそうした過程が確立されるほどに、「専門バカ」と揶揄されてしまう、自分の研究範囲以外のことには疎い科学者(もっと悪辣なものでは、科学的見地に拘泥するあまりに、社会的な判断が出来ないという人格的な批判まで)の像を形作る。
 ここでは二つの疑問が挙げられる。
 ①科学者の専門化と、個人の多様な見識や教養の欠落、「専門バカ化」は本当に関連しているのか?
 ②その「専門バカ」は現在の大学のシステムが作っている、つまりシステムとともに改善が可能なものなのか、あるいはそれは近代科学に必然的なものなのか?

●科学論文は、文系の論文に比べて、他の論文のデータなどの「切り貼り」が多いという特徴がある。この実証結果と、このデータ、あのデータを切り貼りして、あらたな視点を付け加える。
 また、文系とは違い、「ファクト」つまり実験などで得たデータがそのまま価値実証となることがある。

◇この「ファクト」が、社会学などにおける「統計結果」とどれほど近い/離れているか。
●ワトソン・クリックの有名な二枚だけの論文。益川敏英クォークに関する論文

●数学論文を「理解」するとは?


■23 リテラシー・フリーの時代

●一昔前なら、「これは読んでいなければいけない・知っていけなければならない」という本・事象などが比較的定まっていた(ex:デカンショ)が、今ではそうしたものがなくなってきている。
 その中で、多くのものが等価値として扱われるようになる。一人で読みきれる量、十分理解できる量というのが限界があるからだ。「教養」がどこまでも横に広がっていき、もはやソクラテスを、ニーチェを、ドストエフスキーを、シェイクスピアを読んでいなくても十分に知識人として扱われる。ある一分野に詳しければ。
 また、コンピューターにデータが保管されることで、「博覧強記型」の天才は不要とされていっていること。


◇重ねあわされる現象として、「知らなければならない」ニュース・政治・社会問題・事件……もどこまでも拡大してしまう。「責任」を考えるとき、現代の人々は「知らなければならない」にラインを引くことが出来ない。広島・長崎の原爆、日本在住の難民、ブラジルの遺伝子組み換え問題、在日挑戦人問題、アパルトヘイトでの名誉白人、電池によるイヌイットの水銀汚染、イラク戦争の後方支援、東南アジアでの人身売買…一見自分(日本人)と全く関係ないような問題であっても、実は幾分かの関連があるとき、見方によっては責任が発生する。
 沖縄基地問題にかかわるある人は、「これは日本人全員に責任があり、かかわるべき問題」とはっきり述べた。しかし、そうだとしたら他はどうなのか?そしてその他は?グローバル化はどこまでも責任を薄く、引き延ばしていく。被害者でさえもが一種の加害者へ。


■24 法学について

●法学は「法の欠缺」と呼ばれる状況、つまり「ある問題に対して適用する法規が欠けている(存在しない)状態」(wiki)がある。「あえて」明確に定めないでいる場合もあり、さまざまな法の解釈、適用が重要となる。

英米判例主義、イスラーム法では全く異なる法体系、ここから基本的人権の多様・流動性にも繋がる。

●あるイスラームを侮辱する文章を翻訳した教授が大学で殺害(あるいは死刑の執行)される(五十嵐一悪魔の詩訳者殺人事件)


■25 経済について

サブプライムローン問題とは、「本当は」なんだったのか。少し勉強し、ある程度の説明を得たことで理解を得られたとしていいのか。
 経済を勉強する、ということに何度も挫折している。どう学べばいいのだろう?
 ⇒例えば『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』実際に起こった事例を描いた本を先に読み、そこから理論へと戻っていくという方法はどうだろうか?

●「金融工学」という分野。経済は数学へ、理系へと近づいている。東大でも理系から経済学部に入る学生がいる。
金融工学:資産運用や取引、リスクヘッジ、リスクマネジメント、投資に関する意思決定などに関わる工学的研究全般を指す。」(wiki

◇東大の法学・経済学部は、法:公法・私法・政策 /経済:経済・経営・金融 と区分されている。

●資本主義とラスコー・アルタミラ洞窟との関連付け。「増殖の儀式」として見ると、洞窟壁画は「獲物の増殖」経済は「資本の増殖」として見ることが出来る。


■26 イデオロギー

●さまざまなカルト教団のあり方、狂信性、プロパガンダの方法について。

●近年は、極左・極右のデモがある一方、その中間といえる比較的柔らかいデモが少なくなっているのではないか?
◇「サウンド・デモ」などを初め、アートとの接近、「若者が参加できる」デモの形態がイラク戦争以後出てきたように見える。ポップさを打ち出すその態度は、しかしアートではなく、アートに付随する資本主義、消費文化への接近ではなかったか?こうした総括をしている文章は書かれていない?一方で、60年代の学生運動のデモは、現在の「行進するデモ」とは全く異なり、むしろ警察との罵倒・闘争/暴力・小競り合いこそが目的となっていたのではないか。デモの成否を「人数」で把握することへの圧倒的な違和感。(ナンセンス!異議なし!)

●デモ行進では、思想はつながっているように見えて、個々はまったく相互理解がなされていない、という問題。


■27 神と無神論

ギリシャにさかのぼる過去の哲学は「基礎付け」つまり何らかの原理が「自明」とされる。
 これに対し、現代はこの基礎付けを避けて、根拠を構築していく。「レトリックからロジックへ」という言葉でも説明される。
 ⇒現代ではこの「両方を持って進む」ことが必要になるのではないか。

●エリアデ・ディルタイ・オットー・シオラン・ヴェーユ

●中世以前の教会の位置は、都市の中心部と町の端との間にあった。これは内と外、中心と辺境、都市と暮らす場所とを仲介するものとしての性格があった。これが中世に入ると、教会は都市の中心に建てられるようになり、その建物はより高く、ステンドグラスなどの装飾が施される。ここでは教会は「天(国)と地(現実世界)の狭間の仲介」へとその役割が変わったととらえられる。

●ローマでは地下、カタコンベで礼拝が行われていたが、現代でも地下の教会というものが再び現れている。
◇やがて初めて月面に教会が立てられたとき、それは地球と月の仲介を行うのだろうか?ユニバーァァス!


●映画「アバター」からの連想。大地に張り渡されるネットワーク。この「大地」という言葉がニーチェドストエフスキーにつながる。
高村光太郎の詩にある「東京には空がない」に対して、現代東京のアスファルトを見た彼女は「東京には大地がない」と嘆く。「罪と罰―東京版―」で天才ラスコリニコフ闇金を殴り殺したとして、アスファルトに口付けをしても罪がゆるされないのではないだろうか?
◇ソーニャ!おれのソーニャはどこにいる?嵐で見えやしねぇ!
◇文学妹キャラとしては、ドゥーニャも捨てがたいけどやっぱりフィービーかな。


■28 自殺について

●自殺を違法とすることの原理的な不可能性。遺族への罰金という形は取れても、本人には何も届かない。
 
●自ら死を選ぶ権利は、決して取り上げるべきではない。
◇脳内に埋め込んだチップで自殺を強制的に止める?自殺をやめたことで、結局そのことを喜ぶ声が掲載されているが、見方によってはこれはあまり意味を持たない。「あのとき死ななくて良かった」という言葉には、超えることの出来ない時間的隔たりがある。その言葉が自殺そのものを悪だと出来る根拠にはならない。

アバターを見て「こんな汚れた世界に生きている」ことを絶望して自殺する人々。
◇タレントの後追い自殺。太宰、ウェルテル…何かに影響を受けて自殺する人々を愚かであるとみなす傾向があるが、それは本当にそうだろうか?何かに(広がるさまざまな物語―インターネットを含む―)影響を受けずに生きている人など存在するのだろうか。私たちの多くの行動は、メディアから学んだものではないのか?

寺山修司は、自殺は貴族階級、ブルジョワ階級の特権にすべきだと主張している。ローリングストーンズを聞いても何も感じないやつ、浪人生、童貞、処女、借金のあるやつなどなど…は自殺してはならないんだってさ。

◇自決の文化が長くあるこの日本。

●ロシアの自殺は「果てしない大地が広がっている」ことへの不安などの感覚
 ⇒今ではネットの広大な空間がその代わりとなっている

●国ごとに、自殺率には大きな違いがある。日本では「責任感」が大きく関与している?
◇しかし自殺を「ある動機」に一元的に結びつけることは出来るのだろうか?「借金苦」「リストラ」「過労」のみが自殺の動機として言い切ってしまうことは何かを切り捨てているのではないか?それは切腹とどれくらい近いか、あるいは離れているのだろうか。

◇「生きて罪を償う」ことへの懐疑が『素晴らしき日々』の希実香によって提案される。

◇例えば死刑の自由意志化は?死刑か終身刑かを選ぶことが出来るとしたら?


■29 ダンスについて

駒場でダンスしてるやつってほんとに東大生? ⇒男は東大生、女はインカレなどの他大生が多いとか…
◇(リア充爆発しろ)
◇にしてもダンスとダブルダッチ多いよね。あれと同じくらい詩の朗読してるやつがいたらそれが僕の楽園。「あれ?そのランボー小林訳とちょっと違うよね?」「うん、読みやすいように原文参照してアレンジしてみたんだー」早く!神様!


マシュー・バーニーが油田で日本人の舞踊家を雇い、盆踊りを行うというビデオ・アートを行う。
◇石油…それが何から出来ているかを考えれば道理?犠牲となる動物、ラスコー・アルタミラと比べて僕らはどれほど進んだか?ふと振り返ったとき、実はスタート地点から数センチしか離れてなかったとして?
入不二基義レスリングで哲学的考察


◇バレエダンサーのマイヤ・プリセツカヤが、能とのコラボレーションを行う。京都の舞台で数百年前の着物を着てロシアの舞姫が踊る。篠笛で奏でられる「ボレロ」は間違いなく神に向かってささげられる。そのときキリストの天上の父と仏や八百万の神は境界をあいまいにするか。一つの恐怖と一つの愛、私たちはかしずく相手を、祈る相手を探しているのだとしたら。
◇愛と恐怖の越境、つまりヤンデレ(違