7月30日 トーク・セッション その5 /5

■30 大衆について

●「政府によって市民教育を施す」ことは可能か、正当か?知識と、教育と政府はどのような関係を持つべきか。

●「日本の大衆は扱いづらい」積極的ニートの存在。インターネットがそれに対して複雑に作用する。

●大衆のコントロール・ステアリングという点で、政治とアートは交差する。アジテーションも、メディア・コントロールも、テレビ番組を考えればそこに類似点は多く見出せてくる。
 
●ファッションとブランド、という観点から政治、アート、思想を眺めてみると、トレンドとブランドに分けることが出来る。トレンドの思想があっても、ブランドまでたどり着かない。
 この交差を「バレエ・リュス」という団体において見ることが出来る。これにはシャネル・コクトーピカソが参加していた。


■31 アート

●ネット上での音楽のフリー・ダウンロードが行われるようになる

●イギリスの「アート・テロリスト」バンクシーの活動
 ⇒チンポムの「明日の神話」事件

●ヒップ・ホップカルチャーと政治のつながり。
◇それほど遠くない将来に、著作権産業は様変わりしているだろうか?ベーシック・インカム制度の中で人は全て芸術家になるだろうか?僕自身、小さなア−ト・テロを行ったことがある。しかしそれは決して簡単なことではないという認識を。


■32 NPOについて

アメリカと日本のNPO団体には大きな違い・差がある。アメリカでは、政府と市民の仲介としてしっかりとした位置を築いている(プロテスタントの精神が関係している?)一方で日本では力が弱く、就職者も少ない。また政府がNPOの活動を制限する行為・法律を定めることも。
 一例として、ニューヨークの公園が、政府の管理下ではどんどん荒れて治安が悪くなった、これに対しNPO団体が掃除を始め、衛生がよくなって、これに対し政府がNPOに依頼する形になった、というものがある。
アサザ基金は日本での成功例?トラスト活動はどうだろうか・


■33 「つなみ」

文芸春秋社が発行している小学生〜高校生の作文集「つなみ」に大して、参加者の意見が割れる。一つのポイントは、表紙、また内容の原稿用紙に比較的幼い、小学生がフィーチャーされていること。

・「本当に悲しい、ショックを受けている人間は書かないのではないか」
・「書くことによって忘れることが出来るのではないだろうか?」
・「他の被災者が読んだとき、どう感じるだろうか?」
・「明らかに「売れるだろう」と思えるようなものとなっている」
・「小学生という、自己判断が出来ない者をフィーチャーすること。」
・⇒「自分から望んだものだけが書いている…しかしそこに強制力のようなものは働かなかったか?」
・「顔写真を除けばあるいは?」

◇「それでも出すことに意味がある」と「出さないほうがよかった」こととの対決。そこには確かに何らかのグロテスクなものがあった。それに対する違和感は共有されていた。出版は誰のためだろうか。被災者か、それとも一般向けか。上述の「私たちは知らなければならない」責任を強力に訴えかける。しかしそれは本当なのか?
 この会話はより根の深いものだと感じる。単純に割り切ることが出来ないし、そこには伝えること、倫理、民族意識、責任、無意識、メディア、美談……さまざまな要因が潜んでいるように思える。
 大体この本はジャンルとしてはどこに分類されるのか?リポート、報道の類いだろうか、それとも文学だろうか?アートであると感じたとき、この本は奈落の口を開けるようにも思える。そのとき子ども達の悲劇はピン止めされたアートに変質する。現実の悲劇を映画の中の出来事のように見て、それに対して金銭を払うこと。
 同意とやらも意味を成さない。かれらは無意識を利用され、騙された格好になる。その正体は、作文を集めた人間、出版社の人間でもなく、モームの『雨』の中に登場した善魔のようなもの。僕は間違った善意の全てを否定しないが、同時に善意が良く間違い破壊を招くことも否定しない。善意は僕達の最も根幹部分にある欲求ではないだろうか?矛盾するようだが、それはまるで、利己主義と同じくらいに強い、本能的欲求。なぜなら感謝を受けることは―愛される悦びは―文字通り悦楽だから。麻薬よりも強く、『ダロウェイ夫人』の中ではそれは女神として現れる。

 「俺たちの何かが奪われたとき、俺たちは戦わなければならない。―しかしその戦いでは、何一つ間違ってはいけない」
 ある画家の言葉である。彼は招かれた国際会議で、開口一番「平和反対!」と叫んでのけた。「No Peace for Oil」石油のための平和反対。
 しかし、「だとしてもなお」抱かれる善意に僕が魅かれていることを告白する。僕が大学に進んだ多くの理由のうちの一つがそれだ。レオ・レオニの『フレデリック』―あるいは『アリとキリギリス』のキリギリスでも構わない。やがてくるだろう長い冬に向けて、希望の物語を集める―新しい春を呼ぶために。春は待っていてももはや訪れないかもしれないのだから。
 僕が冬を愛しているのは、そこに春への待望があるからか。夜を相手しているのは、朝への待望があるからか。やってくる天国ではなく、そこへの希望、ファウストが「時よとまれ、この瞬間(いま)はあまりに美しいから!」と叫んだのは、やはり待望ではなかったか。

「待て、しかして希望せよ!」 ―『モンテ・クリスト伯


民族学の授業の中で、教授が「美談」についての話をした。かつて関東大震災後には多くの「美談」が語られた。曰く、ある警察官が自分の命を顧みず交通整理をしたために、多くの人が橋を渡り終えて命を助けられた。この「自分の命を顧みず」は一つのポイントだ。これらの美談は、その後の国家統合、戦争動因の流れに大きく役立った。
 そして、その「美談」と良く似た状況が今回の震災でも多く語られた。政府が作り出したのではなく、メディアもその役割は半分だった。インターネット上で個人がそれを広げていった。ツイッターフェイスブック、SNS、掲示板 etc... 民族意識を煽る記述も多くあった。「海外メディアが、私達の国家では日本のように整然とは行動できない」と述べた、という記述を見たとき、僕は単純に、どうして一人の記者が自民族を代表できるのかという思いに捉われた。その報道を延々とコピー&ペーストされていく様子を眺めた。当然、それに違和感を表明する人々の記述も現れたが、それは元の記述よりも熱狂的には迎え入れられなかった。


■34 貴族制について

●日本では官僚の力が強すぎて、市民層に出来ることが少ない。そうした官僚=社会をステアリングする人は選ばれた人。エリート層という言葉は隠蔽・変化しながらも今でも強く残っているのではないか?

●哲学者やネットにおける知識人の発信も近年の特徴となっている。
◇しかしそうした、以前よりも知見が得られる状況にも関わらず「革命はおきない」人々はより冷静に、世界を眺めるようになっている。メディア・リテラシーの基本は中立視。まず冷静に対立する存在を見極めなさい。その時点で一人称に立ち、そこへともぐりこむことはない。イデオロギーはネットの中では一見広がりやすいように見えて、その実力は強くはならない。(ネトウヨはむしろ愛国者を先鋭化させ退化させる方向へと導いているのではないか?以前小林よしのりの講演会でも彼はそうしたことを口にし、自らがその傾向を強めたことの反省を述べていた)(ネトサヨはその自己増殖性、全てを受容する方針から、行動の指針をどこまでも希薄化させて、結局は「殺すな!」という自然法にまで先祖がえりしてしまい、がんじがらめになって行進以上の行動が出来なくさせてしまったのではないか?)

●しかし、「無関心」であるということは、必要な価値とも考えられる。全ての国民が政治に関心を持っている、という状況がはらむ危険性についても考えなければならない。少なくとも、「無関心でいてはならない」と強制することこそファシストのやり方なのだから。ナチスがしたのは、意見を言えなくさせるのではなく、むしろ「意見を表明させる」こと、それによって責任を課す事だった。

●「やっぱり夏休みには『わが闘争』読まなくちゃね☆」


■35 資本主義のその先へ。
●資本主義β,資本主義2.0,NEO資本主義,資本主義+
●修正社会主義:「自己増殖する社会主義」「浪費を許す共産主義」というものはありえる?
 社会主義 with ギャンブル ⇒ある程度の博打制を持った社会主義とは?

●「高度に発達した社会主義は資本主義と区別がつかない」

●私たちは圧倒的な増殖=「消費」=浪費の中で生きている。
 
◇逆に資本主義の本質はギャンブルかも?
 ある物語の中で、賭博士の老人が「博打とは負け続けることを楽しむものであって、それは歳とともに可能性を失っていく人生にとてもよく似ている」というせりふが語られる。
 何かに賭け(それを夢や挑戦と呼んだりする)勝つか、あるいは負けるかする、という行為が資本主義のイメージと結び付けられている?社会主義が敗北したのはギャンブル性を許さなかったからではないのか。
 
◇蛇足。あらゆるカジノの中で、唯一勝ち率がディーラーと同等になるギャンブルがあって、それはマージャンパイを使うもので、プレイヤーも親になれる、という特徴があるものだそうな。オーストラリアにしかないんだって。プロのギャンブラーはみんなそこへ向かう……逆に言えば、それ以外のギャンブルはすべて確率的に親が勝つように出来ているってことかな?


★★その他★★


■神童:各学校で神格化されてきた人々が、東大に来たとき、「ある集団の中での一番」という立場が崩されて挫折する。
池田晶子 性の欲望への転換 生殖から娯楽へ
■「孤独死万歳!」
■「異質な存在」としての女子
■哲学は「頭の筋トレ」。近代哲学はとくに数学的
■哲学にも速度性、スピードが求められるようになる
ネットカフェ難民への対処の甘さ
六本木ヒルズの会員制図書館
奨学金が金貸し・金融化していること。
■現代の神話、「シホンシュギウス」という新たな神
■新しい「環境欲」という欲求の形がある、と認められている…資本主義に絡めとられないだろうか?
■以前、糸井重里は「ワールドカップくらい面白い農業」というコピーを作った。しかし……それでは身が持たないんじゃないの?毎日がワールドカップででは疲れ果ててしまう「テレビゲームくらい面白い」ぐらいがちょうどいいのでは?