劇工舎プリズム 『Nightfall』 感想

■開演前と舞台設定
 二つに分けられた客席、片側からでは見ることの出来ないシーンがある、という舞台装置は、寺山修司の「百年の孤独」を思い出させます。これは舞台が4つあり、その全てで並列的に物語りが進行していく。観客はその間を行き来して、自分の見たい場面を見る、というもの。
 パンフレットには「ぜひ二回来て、両側からご覧ください」という文字があるけれど、むしろそうしないことへの魅力、というものを感じました。
 渡辺一夫の言葉「書物とは、いつも何か読み残しているような不気味なものだ」を逆に取り、「自分の知らない物語が残されたまま」であることに喜びを感じたい。近現代の物語はあまりにも「分からなければいけない」と駆り立てる力が強すぎる。伏線は回収されなければいけない、という強迫観念めいた考えが、シナリオを攻め立てる。そうした風潮へのアンチテーゼ、というのはうがちすぎかもしれないが、一つの魅力となっていると思います。
 入り口で「靴を脱がされる」という行為は日常⇔非日常の敷居をまたがされて、劇空間に入り込むという良い仕掛け。「園児が驚くので……」という劇の内容に沿ったアナウンスや、開幕前から演技を始めている登場人物もこれを補足する。個人的にはもっと徹底していいかと思ったけれど、妥協点なのかな。
 前回の「swim in the box」もそうだったが、プリズムは舞台装置へのこだわりが強いのだろうか。伝統?奇をてらうのではなく、うまく世界観にマッチしているところは評価できます。前回の回転舞台のオルゴールへの見立て。ラストの風船を降らせる演出も、「演劇でしか見られない」風景を作り出すことに成功していました。
 今回の分割舞台、ハンドライトや絵本世界での人物たちの動きも、劇でしか見られない風景/動きを見せる、ということに成功しています。今回の「Nightfall」の成功の理由の大きな一つは、こうした劇ならではの演出と物語・演技などがバランスよく調和していたことではないでしょうか。
●蛇足:最初舞台を袖口から見たときは、舞台上のテーブルにつかされるのかな?と思ってドキドキする。ただ、そういう舞台があっても面白いかな、とも思いました。例えば広いお店が舞台になっていて、あちこちのテーブルに客が腰掛けていて、役者たちは店内をあちこち歩き回って演技を行う、というような。


■様々な軸
 仕草・演技・ストーリー・セリフなどによる登場人物の描きわけが、序盤の展開を含めて非常にうまく行われている。それ以上に面白いのが、これらの人物が所属するテーマの軸、そしてそれらの軸がうまく組み合わさっている状況です。
 例えば、分かりやすいのはカニさんとライオンさんの「教育の理想と現実」これが少しずれて、例えばヤギさんという非常にいい加減なキャラクタの「僕は子どもに嫌われてないんで」というセリフや"むすめ"の能力の欠如など、「やる気・思いと能力が伴わない悲劇」という軸、ここに恋愛関係や、バイトたちのモラトリアムの話、園長のウシさんの「変化を見守る」スタンス、そして当然全体にかかる「夜が訪れて人類が滅亡する」という様々な方向が、完全に重なり合うことなく、しかし少しづつ関わりあいながらつづられていく。
 登場人物たちのそれぞれの、「嫌な部分」「欠けた部分」を必ず描いている点は高く評価したいです。「くまのプーさん」でも、登場人物たちそれぞれに耐え難いような劣った部分がありながら、それでも(あるいはそれだからこそ?)愛される存在であることが描かれています。ヤギくんとトラーが重なり、サソリさんとロバが重なり、また「ずっと今のままではいられない」というテーマにもロビンくんとの共通点を感じました。愚かさ/愚直さと純粋さ/優しさの結びつき。それらが成長によって完全に解決『されていない』にも関わらず愛すべき人物となる、そうした錬金術がここでもはたらいています。
 
ポリフォニー
 一人ひとりの欠落を丁寧に書くことは、当然一つの価値観が正しいものとなることを妨げ、多様な観点を生み出します。そもそも劇は、そうしたいくつかの矛盾した観点を描き分けるのに非常に特化している形式ではないでしょうか。「ヴェニスの商人」のシャイロックの悲劇と、恋人たちの幸福のシーンの重ね合わせ。他にも事例はいくらでもありそう。ポリフォニー小説の創始者を称されるドストエフスキーは「本来からの悪人を描かなかった」といわれているらしいけれど、多声というのはこことも関係する。全ての人間から嫌われている人物は滅多に存在しないし、存在したらしたでおそらく読者によって共感されるだろうから。
 園長先生が、現実的な思考を持つカニさんと、反目している理想を追い求めるライオンさんの二人を「最高の組あわせだと思います」というシーンにこれが現れていると思いました。思わず居住まいを正したセリフ。
 さらに言えば、そのカニさんも「現実を見ながらも、実は理想への強い憧れもある」という二層を持っていることも指摘できるでしょう。

■ところで……
 話の中だけで出てくる、サソリさんの元彼の所属しているという「夜による滅亡を信じている新興宗教」のエピソードは、深読みすると3.11を思わせる。夜という未知の恐怖を放射能物質と見て……決して「この解釈が出来る」と言いたいわけではないことを急いで付け加えておきます。むしろ、震災と原発事故によって明らかになった人間の性質が、この物語のテーマと共振している、というくらいに考えています。
 迫り来る滅亡に対して、けれどそれは漠然としすぎていて、具体的な恐怖とは異なる、薄気味悪い、亡霊のような恐怖感。「夜が来ると、暗いことそのもではなく、人が狂うことで世界が滅ぶ」というヒネリは、アシモフのアイディアなのか分かりませんが非常に面白かったです。


■暴力性
 次に評価できるのは暴力性と、それによる共感、という点。舞台を見た人は「言葉の暴力」という言葉を出せばすぐに分かってもらえるはず。実際に人が人を殴るというのはむしろリアリティにかけていて、どこぞのアクション映画よりも、この劇での言葉の殴打のほうがよっぽど「痛い」と感じられる。これもまた、バリエーションを様々にもたせることによって、ひどい不快感を抱かせることに成功している(ほめてます)
 逆に、実際に振るわれる暴力……ヒツジさんが星野先生を平手打ちするシーンは、勘違いが背景にあって、笑えるはずなのに強い緊張感もある、という一つの止め絵になるような良い描写でした。


■現実世界の幻想への侵食
 僕がもっとも良かった、と思う二点のうちの一つがこれです。「どんなに現実が苦しくても、想像の世界ならいつでも幸せでいられる」って言葉に頷けますか?
 物語の中で、常に差し挟まれる絵本の世界。この優しさと理想で組み立てられた世界は、星野先生の創造によるもので、予想するとおそらく、現実における自分の欠陥や疎外感を忘れるため、解消するために書かれているのでしょう。最初は全員が仲良しで、幸せで、というユートピア世界。これをそのまま、どこかズレをもちながらもユートピアとして描き続けることも出来たはずです。
 しかし、この幻想世界は、現実世界に侵食を受けて、ダメージを受けていきます。この点に、星野先生の、あるいは作品の世界との向き合い方、というのが現れているように思いました。星野先生は、現実に対して誠実に関わっているからこそ、自分の自由になるはずの絵本の世界を、砂糖菓子のようなユートピア世界のままにしておくことが出来なかった。それは悲しいことにも見えますが、少なくとも自分の内面世界に逃避しきっているわけではない、それが示されているように思います。彼女の被造物であるはずの動物たちは、とうとう彼女を裏切り、「むすめ」の声を無視し答えなくなる、という背筋の凍るような演出。砂上の楼閣のように崩れ落ちるユートピア
 最初に浮かんでいたのは「はてしない物語」の虚無のイメージ。現実の世界に蔓延する「いつわり」が、触れられないはずのファンタジーの世界を虚無によって侵食してしまう。「空想の世界ならなんでも出来る」という言葉は、ファンタジーを何か軽い、薄っぺらいものとしか見ていない言葉だと思います。それは現実と、人間の内面と深く関わっていて、影響しあう。この描写は強く胸に響きました。
 星野先生=むすめを、この物語では姿を見せない「子ども」の一人目として扱うと、彼女の世界、その「世界を愛したい」という願いが、現実によって無残に打ち砕かれていくのを見るようで胸が苦しくなりました。


カタルシスとホメオパティー
 もう一点の良かった点がラストの二つのシーンです。絵本世界で、トラさんが全員から無視される。サブ・エピソードと思われていたいじめの話、「いじめはいじめられる対象が変わると終わる」という言葉がここで戻ってくる。あまりにも後味の悪い絵本側のラストシーンと、「この後、トラさんとも、みんなとも話しに行くんです!」と前向きな心を見せる星野先生。後味すっきりのラストシーン。
 「結局最後はご都合主義か」という感想をラストに抱いている人は、この二つのラストが対等なものとしておかれている、ということを見過ごしているのではないか。絵本の中の世界は結局は虚構に過ぎない、と思ってしまうと、一番終わりに来る現実世界の「前向きに頑張ろう!」という安いメッセージだけを受け取ることになってしまいます。当然忘れてはいけないのが、この演劇全体も虚構だということ。二つのラストシーンは、連続しているのではなく、交わることのない、パラレルなものだととらえるべきでしょう。
 アリストテレスの「浄化作用」とブレヒトの「異化作用」。後味のよさを悪さ。その二つを同居させようという試みは、シェイクスピア劇、特に「ヴェニスの商人」や「十二夜」(マルヴォリオの「復讐してやる!」のセリフ)それから、井上ひさしもこの点に意識を持っていた一人ではないでしょうか。マルヴォリオの呪いや、シャイロックの嘆きがトラさんへの無視、カップルの愛の喜びが星野先生の前向きさの回復、と映せると思います。
 相反する二つのメッセージを併置する。そうしようという意識を持っていても中々難しいと思いますが、この非常に危ういバランスを保つことに見事に成功していたのではないでしょうか。


■その他
・絵本世界で、みんな一緒に前触れなく「こんにちは、みなさん!」っていうの結構すごいよね。
・舞台を日常に引き降ろしすぎて(大体セットからして段によって高くなっていない)劇空間の緊張感が弱くなりすぎる部分があった。そういうシーンでは、実際両隣の人が居眠りしたり、パンフをがさがさ見ていたり。
・もちろんそれは、舞台と客席の連続性を手に入れる、ということと引き換え、というのも理解できる。
・カメさんの役者さんは、前作もそうでしたが言うまでもないってくらい素晴らしい。上述の「日常に降りすぎる」ところを上手くカバーしていたかも。
・暗闇の中、園長先生は「あえて」手を出さずにいた様子が見えた。見逃してしまいそうだけどハイライトになるポイントだったと思う。
・疑問1:子どもたちはなぜ倉庫で眠っていたの?夜だから?(実は子どもなんて一人もいない、すべて登場人物たちの幻想にすぎない、というシュールな展開を考えていた時代が僕にもありました)
・疑問2:子どもが78人、という数には意味があった?
・ついでに:途中で「この世界は実はすでに夜が訪れて、人類は滅亡していて、狂いかけている職員たちが、必死で日常をつなぎとめようとして日々を繰り返している」というホラーな展開を考えてました。子どもが突然いなくなるのとかも、「最初から存在してなかったから」……がしかし、そんなことはありませんでした。
・悪い点を挙げるとしたら、長すぎることに尽きる。二回見に来いって言われても二の足踏みます。