Theatre MERCURY 「冬に歌う、夏のほにゃらら」 感想

■はじめに
 前回のプリズム、またこれまで駒場で見てきた演劇に比べれば、今回の感想は辛口にならざるをえない。まず第一に演技・会話のテンポの悪さが非常に目立つ。バンドで言えばチューニングやリズム・キープに当たる部分で、これを指摘されるということは、少なくともバンドにおいては恥ずかしいことだと思っている。しかし、急いで付け加えると、印象的な素晴らしいワンシーンがあった。その突破力にグッと魅せられた点は高く評価したい。
 まだ熱のこもった今の気分のうちに、そのワンシーンについてから書いていこう。


■「ようやく中へ戻れたのですね、ずっとロミオ様の夢を見ていました」
 錯乱の中でバルサザー=愛がつぶやくセリフ。天井から花びらがはらはらと舞い落ちる。ところどころに歌舞伎の演出(拍子木、5・7調)があるので、この場面でも「桜吹雪」のような演出とも思える。
 彼女の言葉は、ただ混乱の中で口に出されたものだと、すぐに彼女と郡司=ロミオの言葉で否定される。しかし、僕はこのセリフを聞いたとき本当に鳥肌が立った。
 以下は非常に個人的な話になってしまうけれど、僕自身が20歳の頃、ほとんど同じシチュエーションを持つ小説を書いていたからだ。物語は、「ロミオとジュリエット」の映画を撮る人々の間で進む。しかし、ジュリエットは「本物の」ジュリエットであり、実際はその「映画を撮っている日常世界」の方が、自殺した二人がのろわれて落とされた無限の地獄である、という設定だった。ある瞬間、虚構と現実が反転する。
 劇に戻ろう。バルサザーとなった愛は、死のうとしているロミオの手から毒を奪い取り、飲み干す。

「ロミオさま、ようやく中へと戻れたのですね。私はずっと外の夢を、ロミオ様の夢を見ていました」

 ほんの2・3のセリフの数瞬間、現実世界は虚構へと飲み込まれる。彼女にとっては、それは永遠に覚めるはず無かった悪夢から目覚めるための、「命の妙薬」だったのかもしれない。ここまで延々と錯乱を続け、半ば狂った台詞を繰り返してきた愛が、ここで初めて、夢から覚めたように穏やかな声で語り始める。ついに告げられた「好き」の一言に万感の思いを込めて。
 この短いワンシーンに、今回の二時間の劇全体と対置できるほどの強い力があった。いや、ある点においては、このシーンのために劇すべてが組み立てられてた……と言えば、きっと首をかしげる人もいるだろう。しかしそう思う理由はもう一つある。前回の公演「Fanky Sister Babies」でも、あるワンシーンが劇全体のハイライトとして描かれていたこと(「お金貸してよ!」……床にばら撒かれたお札を広い泣き叫ぶシーン)
 
 絵画化するシーン、と書くと矛盾しているようにも思う。けれど、あるシーンが、その動き、台詞、音楽も合わせて、一つの絵画作品のように心に残る、ということがある。映画でそういうことは多いのだけれど。僕がこの二つのシーンを高く評価したい理由は、このどちらもが何かのメッセージだとか、社会問題ではなく、ただ「美しい」シーンであること。人間の感情が極限まで高められ、悲しみや愛が一人の人物を超えて、外まであふれ出し、客席全てを覆うような、そうした強い力を持つシーンだった。


■劇空間の作成の失敗
 そのシーンの美しさがあるからこそ、あちこちに見られる雑な部分は残念に思う。僕の乱暴な「バルサザーのシーン対置説」を取るなら、そこを生かすために他をハイテンションと錯乱で塗りつぶした、と取ることも出来るかもしれない……が、はっちゃけることといいかげんにやるということは違う。

 これまで駒場で5本の演劇を見てきて、劇場の中が、どれくらい「劇空間」となっているか、ということを意識するようになった。逆に言えば「どれほど日常と隔てられているか」ということでもある。この作品の冒頭では、ほとんど合図もなしに劇が始まり、さらにその会話、話し方や発声も含めて非常に日常的な、典型的なもの。これは当然のことながら、劇と日常=客席とを近づけるために意図的に行われている演出だと思える。しかし、日常というのと、劇化された日常、というのは異なる。役者は「日常を送る自分を演じる」意識の元に演技を行わなくてはいけないはずなのに、実際の「素」の部分、自分の日常を援用して演技をしているように見えた。様々な仕草、台詞も、いいかげんなものだからといって、いいかげんに演じればいい、というものではない、ということを感じる。

 その証拠に、客席側の空気は明らかに弛緩して、あちこちで私語が交わされていた。最初のシーンはそれが目的だ、と言うことも出来るかもしれないが、その後も似た状況になるたび、「劇化」の魔法は解けて、舞台全体が日常のように思えてしまう。オープニングとなるダンスのシーンでもそれを引きずっていて、「劇化」されていれば気にならないようなダンスの雑さ、甘さばかりが目に付いてしまった。さらにダンス自体も、選曲・振り付けを含め全体から浮いていたように感じた。「ダンスで始めたいから」というただそれだけの理由で挿入されていたような気がして、意味・必要性を感じないものだった。

 役者の仕草も批判出来る点の一つ。これを意識しているか否かは客席からは驚くほど分かる。「ただ突っ立って、話している誰かを見て、適当にリアクションする」身体の角度一つとっても、舞台からどう見えるか、ということを考えないと、ときに目障りに思えてしまう。

 舞台側の緊張の弛緩は、役者の演技にまで影響してしまうのではないか。台詞の一言・一行が「浮いている」ような印象が出てきて、何か真剣な台詞が一つはさまれたとき、それこそ役が「演じている」かのような浅い印象が与えられる。これは登場人物たちが口論し、喧嘩している場面で特に明確になった。相手に向かっているはずの怒りがほとんど「演技」のように感じられ、まったく感情移入することが出来ない。


■大学生的・テレビ的笑いの空転
 悪い言い方になるのは承知で、子どもだましならぬ「大学生だまし」という一言からはじめたい。「東大という場所で、東大生を主なターゲットとしてやっているのだから仕方ない」という言い訳は悲しく思える。そうだとすれば、プロの脚本を使っている高校演劇の方がよほど見られるものになってしまいそうだ。大学生向けの内輪ネタを用いていることだけが問題ではない。それらを一般化させることに失敗している、というのが致命的な点だと思う。

 様々なシーンは、演劇というよりはテレビのお笑いでのコントのノリを感じていた。これは今回の舞台に限った話ではない。特に笑いの部分だけれど、さらには「感情の発露」といった部分にも言える。特に愛ちゃんをはじめ大学生の女子たちにそれが見える。台詞や演技が、人間的である前に「キャラクター的」だ。だから、それらのキャラクターが人間的な台詞を話しだしたとき、面白さよりもミスマッチという印象が先に来てしまう。ゲイ風の審査員、女子高生の妹、暗躍する教授などはまさにステレオタイプの産物だといえる。

 中盤から後半に向けて語られる「自由」であるとか、某条例に関する話も、悪ふざけや冗談の文脈に回収されてしまい、錯乱した笑いに対置されるもう一つの軸になりえていなかった。笑いで、様々なテーマを包み込む舞台にもなれたはずなのに、ただ鏡の前でヒステリックに笑っているような寒々しさが残っていたのではないか。それは「ユーモア」とは正反対の、ヒステリックな存在の奇妙さに対する笑いなのだと思う。直接ではないが、僕はそこに「いじめ」と共通する笑いを感じる。
 
 個人的な話をすれば、漫才やお笑い番組が本当に苦手で、友人の家でさえもチャンネルを変えるように頼む自分(お笑い芸人の名前を全く知らない)の方が特殊である、ということは分かっているので、多くの人は逆にこうした笑いを楽しみ、僕の批判の方がおかしく聞こえるのかもしれない。それは断っておきたいが、同時に高い評価を得ている現代の演劇では、今まで見る限りこうした笑いの空気は見たことがない、ということも付け加えておきたい。これならばテレビで見ればいい、と思う笑いのシーンはいくつもあった。そしてもしテレビだったら僕は早送りをかけただろうと思う。


■「夏の夜の夢」
 批判が続いたので、最後に評価できる点を。拍子木と七・五調の言葉を取り入れたのは面白い。シェイクスピアソネットも7・5に訳された『海潮音』や、最近では『シラノ・ド・ベルジュラック』の新訳でも7・5で書かれた場面があり、朗読して楽しんでいたけれど、それが実際に劇で行われている、という楽しさがあった。場面転換の前で使うものも良い区切りになっている。欲を言えば、もっと効果的に活かせる方法もあったとは思う。
 歌舞伎の演出というなら、上記の毒を飲むシーンの花吹雪+独白、というのもそこからきているのか、と感じた。皮肉に聞こえるかもしれないが、他の場面のだらだらした流れが、あのシーンの素晴らしさを際立たせていた。また、用務員の役も、ドタバタに参加していなかったからか、うまく効いていた。ほうきを投げ入れるシーンや、「ほんとにバルサザーなんだね」「生は無為、死は無」の台詞は印象深いし、ラストで「薬屋……」という台詞で登場し、ゴミを撒き散らす演技もとても暖かく感じた。

 「これは演出です」と断りを入れるシーンは、「夏の夜の夢」へのオマージュだろう。あのおかしみを現代に移す、というところまでいってなかったように思うけれど、それでも劇に組み込むアイディアは良かった。もしかしたら、もっと他のシェイクスピア劇へのオマージュもあったのかな。あとは「舞台は夢」と「生きるべきか、死ぬべきか」くらいしか気付かなかったけれど。


■その他
・自分なら最初のダンスはタンゴやサルサにすると思う。あるいは歌舞伎踊り。
・書き忘れたけれど、宮田⇔郡司の対決の軸も十分に回収されていなかった。
・「こんちきち!」やTシャツに顔をプリントする、なんてのは典型的なテレビ的笑いで、ひどく冷めたのを覚えている。
・劇団長さんの演技はいい味出てました。
・7・5調は響きだけでなく、言葉そのものも練られていてかなり良かったです。他のシーンと差異化したのだろうけれど、あの「言葉の力」が現実側の台詞の中にもあったら、というのを残念に感じた。