tomorrow―明日―

昨日の『tomorrow―明日―』がまだ心に残っているので少し。
 黒木監督の「戦争レクイエム三部作」これは『tomorrow』『美しい夏キリシマ』『父と暮らせば』の順で見ると良いと思う。
 「死んだ者の話」「生き残った者の話」そして「死んだ者と生き残った者の話」という構図。
 『tomorrow』は、最も体験的、感性に訴えかけてくる反面、どこまでも物語化されてしまう、という危険があると感じる。
 そこでは原爆は、視点によっては天災とあまり変わらないようにもみえる。
 爆弾を落とした側のことは何も描かれないから。
 だから原爆を津波にしてしまっても成立してしまうという気がする。
 もちろんそれは、その記憶を全く持たない若い世代の意見であり、それを戒めるように冒頭の言葉
 『人間は 父や母のように 霧のごとくに 消されてしまって よいのだろうか』
 という長崎の証言がするどく引き戻すのだけれど。

 だから、僕が願うのは、その原爆を落としたパイロットたち、原爆を作った人々の、この映画と同じような、普通の日常を描いた作品が対として作られるべきだったのでは、ということ。
 この映画を見たアメリカ人がそうした作品への意志を持ってくれたりしないかな……。
 それは単なる原爆の正当化とか、そういうベクトルを越えて、作品の中に朝鮮人、そしてアメリカ人捕虜を大きく描いたこの作品の意図と重なるのではないか。
 原爆を開発した人々も、ごく普通の人々だったことを、僕は既に知っている。
 「ご冗談でしょう、ファインマンさん」では、物理学者ファインマンが、マンハッタン計画の確か砂漠での実験の後のパーティでドラムを叩いて祝ってるシーンの描写があった。
 
 それはどうやってなされるか?
 エンデの『アインシュタイン・ロマン』では、彼らを―おそらくアインシュタインだけでなく、ファインマン氏ですら―操る「黒子」の存在を描いていた。

 一方で、この間の表象文化論で書いたキーファーの「想起」というテーマ、体験というテーマとも重なってくる。記憶を伝える方法とは?
 まず一つ目、僕は原爆の被爆者の方の話を4回くらい聞いていると思う。その他の戦争体験の体験を含めればもっと多い。これはあと数十年で、一時的に聞くことは出来なくなる。これに付随してドキュメンタリーや、体験をビデオに収めたものがある。
 二つ目、この映画のような芸術作品。これもある点では「体験」に近いものかもしれない。上述したように「物語」に回収される危険をはらむ。
 三つ目、キーファーがやったような、あるいは僕の論だとチンポムの『ピカッ!』のような、体験そのもの。芸術を通して、僕たちはその体験に近づく。すなわちナチスとなりホロコーストを再び起こし、そして収容され、殺される。また原爆を実際に投下し、それにより殺され、被爆する。

 これらのどれが優れているとか、正しいとか、そういうことではないのだろう。
 それは同時に、「想起」とか「記憶を伝える」という行為が、僕たちにとって、まだ全然分かっていないことを示しているようにも思う。
 だからといって、「人類は何度でも、永劫に悲劇を繰り返す」と言い切ってしまうのもまだ早すぎる。
 
 この『tomorrow』が他の作品と一線を画している部分は、イデオロギー、教訓が全く存在していないという点であって、再び戻ると
 『人間は 父や母のように 霧のごとくに 消されてしまって よいのだろうか』
 というこの語に行き着く。これはもう原爆の不当性とか、悲劇の記憶とか、平和の構築とか、そういった面よりも、聖書の神に対する慟哭であったり、ドストエフスキーの登場人物が発する根源的な問いに近いように感じる。存在に関わるもの。
 それは、道徳であるとか、社会にしろ人文にしろ「科学」とか理論とかを越えて届くある価値に関係するもの。
 慟哭から始まる、正義や倫理、善を通過しない怒り。これを決して失うわけにはいかない。