『Limits of Control』 (ジム・ジャームッシュ監督) 批評2

  Ⅱ:ウィリアム・ブレイクの「クリエイター」 から ランボーの「ヴォワイヤン」へ

●裏切り者は誰?
 工藤夕貴演じる「分子」が最後にこう忠告する。
「私たちの中に仲間じゃない者がいるわ」
 この言葉は、彼女の必死な表情と共に強く印象に残る。この先に待ち構える、誰かしらの裏切り、そして危機―しかし、これは完全な肩透かしに終わり、誰がそうなのかは最後まで明示されない。一体これは誰のことだったのか?

 個人的な解釈であることを前置きして、僕はそれが「ヌード」の女ではないか、と考える。理由は?最も分かりやすいものは、彼女だけが透明なレンズを持った「メガネ」を身に付けていることだ。他のエージェントたちは、残らず色つきの「サングラス」をかけて登場する。

 ではそれにどのような意味が?サングラスは、強すぎる光を遮るもの、一方でメガネは「よく見る」ためにかけるものである。「見る」という行為の強調は、他の場面でも行われる。杉原賢彦は最初のシーンで<クレオール>の掌にあったオブジェを「目を象ったもの」と指摘する。 その口からは「すべては主観的なものだ」というセリフもあった。


酔いどれ船
 しかし、「見る」という行為に最も関係の深いのは、実は冒頭に掲げられたランボーの詩『酔いどれ船』である。

   無情な大河を下りながら―もはや船曳きの導きを感じなくなった

 この詩には様々な背景がある。まずは、ボードレールの『悪の華』の最後の詩「旅」へのオマージュであること。
  おお、死よ、老船長よ、時が来た!錨をあげよう! この国には飽きた。おお、死よ、船出しよう! (ボードレール悪の華』)
 
 ランボオ自身、ボードレールへ最高の評価をしているが、一方で二人の間の違いを指摘するものもいる。ボードレールの船は、死という明確な目的、船の曳き手がある。一方でランボオの「船」はそうした全ての目的から解放されている。ロラン・バルトは、この詩の直前に出版されたヴェルヌ『海底二万マイル』のノーチラス号と比較して、こう表現している。

 (ヴェルヌの)船舶の趣味は常に、完全に閉じこもること…絶対的に限定された空間を所有することの喜びなのだ。船に対する人間の所有的性向を悪魔祓いするには…人間を抹殺して船だけにしておくことだ。そのとき船は、箱、住居、所有物であることをやめ、旅をし、無限性にふれる眼となり、絶えず出発を生み出す…ヴェルヌのノーチラス号の真の反対物は、ランボオ酔いどれ船…探検の真の詩に移行させる、あの船である。(ロラン・バルト『神話作用』)

●ヴォワイヤンの手紙
 ランボオの船が、「全ての目的、支配(control)」から解放されていることがここで強調される。しかしそれだけではない。詩人ランボオは、この『酔いどれ船』を書く数ヶ月前に、「見る者〈ヴォワイヤン〉の手紙」と呼ばれる二通の書簡を書いている。そこに示されている「見る者」という考えは、この『酔いどれ船』に体現されているとされており、そしてこの『リミッツ・オブ・コントロール』という映画に深く関わるように思うのだ。

 書簡の中から数行を抜き出してみよう。

 僕は詩人になりたいのです。そしてヴォワイヤンになりたいと勤めています。「詩人」はあらゆる感覚の、長期にわたる、大掛かりな、そして理由のある錯乱を通じてヴォワイヤンとなるのです。あらゆる感覚器官を奔放に解放することによって、未知のものに到達することが必要なのです。 「われ」は一個の他者であります、木片がヴァイオリンであることが分かったとしても止むを得ないことです。

 ここでの「見る者〈ヴォワイヤン〉」は、ランボオにとっては、詩人と同義のように語られている。しかし、「見る」という行為は詩の創作とどう関わるのだろう?
 現代でも、詩人、あるいは芸術家は「クリエイター」と呼ばれるように、「創造」する力は芸術の基盤であるように考えられる。あるいは、作者の「個性・オリジナリティ」も。こうした考えの端緒が、「ロマン主義」のムーブメントだった。ランボオの時代からさかのぼること半世紀前、イギリスのロマン主義英詩が栄えていた。
 
ウィリアム・ブレイクランボー
 その一端を担っていたのが、ジャームッシュの『デッドマン』のメイン・テーマとなった詩人ウィリアム・ブレイクである。ここでは、彼の代表作の一つに『無垢の歌と経験の歌』があることを覚えておいて欲しい。この詩集では、一篇ずつ「無垢」と「経験」の詩が対置されており、例えば有名な「虎よ、虎よ!」の詩に対し「子羊」がある。虎の残忍さと恐れは「経験」、対する子羊の純白は「無垢」として歌われている。

 イギリスのロマン主義に対して、ボードレールは新たな道を開き、そして彼を「第一のヴォワイヤン」と呼んだランボーもまた、ロマン主義とは似ているようで異なる世界を歌う。
 ロマン主義が、詩人を「創造主」として、神に類する力を持つもの、と見ることを考えると、この違いは明らかだ。ランボオの言う詩人は作り出すのではない。発見するのである。
 見る voir は持つ avoir 認識する connaitre とほとんど同義に並列されている…

 ランボーにとって、見る者と定義された詩人は、創造者としてより、認識者としてより多くの比重を持っていたことを知らねばならない…ランボオにとって、詩人が空想的な想像力にのみ働くものとしては決して映じていなかった
 

●サイン
 ここで映画に戻ろう。主人公の「孤独な男」に望まれた役割こそ、この「ヴォワイヤン」だったのではないか。彼は自らの感覚を解放し、波=様々な言葉・芸術に身をゆだねる。上で述べたように、彼は次第に目を開き、変わっていく。示された多くのサインを読み取り、ときにそれらのサインは現実へと影響を与えていく。

 ブロンドの女が黒服に捉えられたのは、彼が「ブロンドに手が迫る」ポスターを見たからではないだろうか。あるいはフラメンコを見た後、男がボクサーのマッチを持っていたのは、もとからそうだったのではなく、彼がその踊りと音楽に感動したから、だからこそ男が芸術に連なるものとして認識されたのではないか。

 こう考えると、見る者=ヴォワイヤンの考えは、この芸術ゼミの前回「美術」で話した現代アートの内容、また「批評」という今回のテーマにも根本的に関わってくることになる。これまでの芸術が、「創造」であり、作家に絶対的な力を与えていたのに対し、現代アートは鑑賞者からの批評、言説、説明という「まなざし」を必要とする、という議論があった。デュシャンの「泉」を思い出して欲しい。それはただあるだけでなく、「見られる」ことによって初めて作品となる。デュシャン派のある者は「未来の芸術家は、ただ指差すだけになるだろう」と述べたという。

 決められたストーリー、予測される展開、全てが「創造主」たる作家の筋立て通りにすすむ、そうした作品へのコントロールから自由になり、そこにある「サイン」を指差す役割は、私たち視聴者の方に与えられている。
 映画の中には無数……というよりあらゆるところにこうした「サイン」が存在する。どこにでも飛んでいるヘリコプター、生首の看板、ポストカードに描かれた塔。メキシカンの指には、「RAZA=民族」と刺青が刻まれ、彼の首に光っていたネックレスは、フラメンコのレストランのウエイトレスと同じものだ。ボクサーのマッチ、その色。リュミエール航空と記されたシート(リュミエールはフランス語で「光」そしてリュミエール兄弟は映画の発明者)アメリカ人の部屋には、「孤独な男」の憎む銃と携帯電話だった。

 それらの「サイン」は、おそらく作品の内側で解釈されるものではない。デュシャンの作品、現代アートと同様に、私たちが指差し、そして現実世界へフィードバックを運んでくるもの。

 あらゆるシーンで、「孤独な男」は見る行為を行う。それは決して単純なことでも、簡単ななことでもない。ランボーの「酔いどれ船」が、最終的に「板切れ」となって破滅したように、それもまたロマン主義の「創造」同様、非常に危険な行為である。

●ヌードの女
 他のエージェントと異なり、ヌードの女はマッチ箱を交換した後もあちこちに姿を現す。第二の町では隣の建物に現れ、幻のように消える。第三の町ではレインコートがカフェの壁にかけられている。そして最後の町ではベッドの上に。
 彼女はなぜ死んで(?)しまったのだろうか。そのメガネは割れており、もはや「見る」ことは出来なくなってしまった。見ることの危険が、彼女を飲み込んでしまったのかもしれない。
 
●無垢と経験
 ブレイクについて、無垢と経験について述べた。ブレイクの描く「経験」は、悲劇や残忍さ、汚れるがゆえに得られる力、強さ、そうしたイメージがある。しかしランボオの「見る者」の考えでは、経験するということは、ただ汚れることではない。「孤独な男」は、経験を重ねるうちに、汚れも、無垢も、両方を手に入れていくように見える。

 評Ⅰの最後に述べた、最後の列車の中での「白い紙」について再び考えてみよう。それはただ存在するだけでは紙切れにすぎない。しかし、彼が「見る」ことによって、それは山に、あるいはまた異なるものへと変わる。その後のシーツの絵もそうだ。このカットが「孤独な男」の背中から映し出されるとき、僕たちは彼の目を通して、様々なものを感じる。あのヌードの女の横たわっていたシーツを、あるいは隠れ家にあった覆われた絵かもしれないし、また他のものかもしれない。

 もしも最初にこの絵が映し出されたとしてら、映画を最後で見るそれとは全く異なって見えていただろう。

●参考文献
ランボー 自画像の詩学』中地義和 岩波書店     
キネマ旬報』2009年10月上旬号
『インディーズ監督10人の肖像』ジェフ・アンドリュー キネマ旬報社
『神話作用』ロラン・バルト 現代思潮新社