『Limits of Control』 (ジム・ジャームッシュ監督) 批評1:LOC as RPG

  1:LOC as RPG
ロール・プレイング・ゲーム

 >あなた は ギターケース を しらべた   >『ギター の げん』 を てにいれた!

 映画が始まってしばらくしたころ、「この『たらい回し』をどこかで知ってるな」と感じ始めて、思い当たったのがRPG、特にドラゴンクエストのような古典作品だった。誰かにヒントを得て、指定された場所に行き、人物と会話し、また次のヒントを得る。鍵やギターといったアイテムを渡されることもある。それを繰り返し、ボスへとたどり着く。

 なぜFFではいけないのか?あの作品は主人公に個性がある。この話の主人公「孤独な男」は、ジャームッシュ映画特有の「顔で見せる」強烈な存在感はあるものの、無口で、感情の動きもなく、会話もほぼ「YES」と「NO」、コマンドで選べるような返事しかしない。プレイヤーが感情移入できるように、という目的で自分のセリフを持たされないRPGの主人公のように。

 ジャームッシュの95年の映画『デッドマン』は、これまでと異なり、時代背景やストーリーがしっかりと定められていることが話題となった。しかし彼はあるインタビューの中で、例え舞台がイギリスで、西部劇の時代を描いていたとしても、その世界は「寓話のような、どこでもない世界」である、と答えている。

 それと同様に、この映画に登場するスペインも、現実のスペインというよりも、ゲーム世界、ヴァーチャル・リアリティの中であるかのように見える。 何よりも、「ラスボス」としてのアメリカ人。あの部屋に侵入した方法の謎もゲーム・仮想現実と考えれば頷ける。

 こうした寓話性を、ジェフ・アンドリューは他の作品にも指摘する。86年の『ダウン・バイ・ロー』では、本作とちょうど反対に、無実の罪で捉えられた主人公たちが脱獄する過程が省略されている。
「こうすることで作品が一種の隠喩的なおとぎ話だという印象が強められている」(インディーズ監督10人の肖像)

 アメリカ人のセリフには『人工的な世界(artificial reality)』という言葉が出てくる。realityを「現実」ではなく「世界」とした字幕はどう理解すべきだろう?主人公は答えて言う「現実はきまぐれだ(reality is arbitrary)」

 二度目に見るときに、自分がコントローラーを握っている想像をしてみると、この映画への理解はグッと深まるように思えた。しかし、物語が進むに連れて、主人公はだんだんとこちらの思うように動かなくなっていく。
 例えば絵を見に行くシーン。最初のギターの絵、またその次の女や街の絵は、次のシーンに進むためのフラグの回収として理解できるだろう。しかし、彼はそれ以上の興味を絵に示し始める。終盤、隠れ家にかけられた覆われた絵の前で立ち止まり、さらには任務が終了した後も再び美術館へ。こちらはエンディングに早く向かおうとしているのに。

 人と出会うたび、絵や音楽に触れるたび、小さな変化が彼の中に起こっていく。最初の「バイオリン」のときは全く相手の話に興味を抱かなかった(スペイン語ではあったが)彼が、①映画の話のときには小さく身を乗り出し、②科学の話のときは小さく微笑み、③そして任務とは全く関係のないフラメンコを見て、ここで微笑を見せて拍手をする(図)。暗殺というストーリーの筋から言えば、このフラメンコのシーンは全く必要が無かったはずだ。RPGと考えたとしても。だからこそ、このシーンは重要な意味を帯びる。

 人工的な世界の中で―例えばネット・ゲームの中だとしても、その中で登場する絵、音楽、踊りは現実そのものである。ある映画の中に、一つのコンサートの映像が入り込んでいるところを想像してみる。前後に虚構という名の映画があったところで、その演奏の価値がフェイクになるということはない。フラメンコという音楽が映画の中にはめ込まれているのではなく、そのシーンはストーリーと対等と見ることもできる。
 彼の変化を見透かしたように、次に現れる老人「ギター」は、「絵は好きか?―だろうな」と話しかける。立ち去り際、「話せてよかった」という老人に、彼は強く頷いてみせる。この小さな変化が積み立てられ、彼は芸術を通して、プレイヤーによって「コントロール」される存在から一つの個性を持った登場人物へと変わっていく。だからこそ、「想像力を使い」部屋へ侵入し、アメリカ人の言葉に「分かってる、自分なりにな」そして「現実はきまぐれだ」と答えることが出来たのだろう。彼は最初から肉体的にはボス(=アメリカ人)を倒すだけの力があった。しかしそのセリフを獲得するためには、やはりレベルアップの必要があった。物語の最初から、あの家に向かったとしても、彼はボスを倒すことは出来なかったのだろう。


●スーツの色の変化
 「レベルアップ」を端的に示しているものに、彼のスーツの色の変化が挙げられる。一度脱線すると、ジャームッシュは様々な作品で、物語を三部に分けている。二作目の『ストレンジャー・ザン・パラダイス』は明確に3つの章が存在し、『ミステリー・トレイン』は3つの短編が互いに絡み合う物語だ。上述のジェフ・アンドリューは、この3部構成が『デッドマン』『ダウン・バイ・ロー』にも存在する、と指摘する。

 三着のスーツにおける変化はかなり明白だ。
 1着目(青)では、孤独な男はまだ任務のためだけに行動している。絵を見ることも手段に過ぎない。
 2着目(茶)では、彼は芸術を受け止め、それを評価しようとする。「分子」にうなずき、フラメンコを賞賛する。
 3着目(銀)は、彼自身が「想像力を使」う存在となり、その力でコントロールへと立ち向かう。
 そして、最後に彼はアフリカのマークの入ったジャンパーを身にまとう。その姿は、もはや個性の無い存在などではない。「孤独(lone)な男」は、世界で「ただ一人の(lone)男」へと変わる。

●「孤独な男」の創作
 任務を終えた列車の中で、彼は、小さな、本当に小さな創作を行い自らもアーティストへと変わる。ゲームのキャラクターにこんなことをさせることは出来ない―彼は小さな紙切れを使って、山を作る。

もはやボタンを押しても制御できず、コントローラーを投げ捨てた観客は、彼のアートへと拍手を贈る―
 ジャームッシュはこう言っている「映画館を出るとき、入る前とは何か違う人間になっていて欲しい」
 エンディングで響くヘリコプターの音は、ヴァーチャルの世界である映画から、観客が戻るこの現実においても、「コントロール」が存在することを暗示する。私たちも、ある種のレベル・アップが必要なのだ。私たちをコントロールするものから自由になるために。

(蛇足ながら、そのレベルアップがただ単純に、作品に多く触れればいい、ということではないと、この映画自体は示しているように思う)