トスカーナの贋作

 ―①あらすじ―

 映画は、ある作家が出版した本「贋作」についての講演を行うシーンから始まる。ライターらしい女性が講演を抜け出し、息子と言い争いを始める。「ママはあのジェームズ(作家)と恋人になりたくて電話番号を渡したんでしょう?」作家は、彼女と話すために女性のギャラリーを訪れる。二人はドライブに出かけ、美術館で実際に「贋作」を見ながら芸術についての会話を行う。
 喫茶店で、女性は聞かれるまま、二人が夫婦である、という嘘をつく。ここから二人の「演技」が始まる。まるで長年連れ添った夫婦であるような会話。しかし話が進むに連れて、二人はまるで本当に長く連れ添った仲であるかのように思われてくる。そして、前半の他人として振舞っていたときの方が、実は二人の微妙な距離を表す「演技」だったのではないか、とも。様々な思いをぶつけ合い、思い出のホテル(それも真実か虚構か分からない)で、女性は最後に「行かないで」と口にする。男は「9時に戻ると言ったはずだ」と跳ね除けるが、そのまま階段を下りることはせず、洗面所に入る。その窓から見える教会の鐘をバックにスタッフロール。部屋に戻った男がどのような言葉を女性にかけたのかは分からない。インタビューや特典のトーク・セッションの中で、監督自身がこう語るように。「描きたかったのは、永遠に終わらない男女関係なんだ」


 ―②構想とその失敗―

 この映画を批評の題材にすることへのOKサインは僕が出したのだけれど、その理由は映画の中で語られている「贋作とオリジナル」の論争が、美術の「読み取り方」に接続できること。そして役者の「入れ子構造」について話せると思ったから。入れ子構造?「メタ演技」と言ってもいい。映画に登場する役者は当然ある「役」を演じているのだけれど、この映画はその「役」がさらに別の役割を演じる、という二重の構造がある。それを辿ってみると、今度は出演している役者だって、撮影中に「役者としての自分」を演じてる可能性、というのも出てきて、上と下とに延々と「演技」が連続することになってしまう……というようなことを。
 
 さらに、この映画は男女によってかなり見え方が違うだろう、と感じたこともひとつ。もっと個人的な話しになると、20歳前後の参加者がほとんどの芸術ゼミの中で、恋愛に対する考えが変化してきている30歳の自分との対比も出来る、と感じたこともあった。なんだかんだ言って、僕がこの映画で一番惹かれていたのは、サリンジャーの「フラニーとゾーイー」のような、絶望的なまでのすれ違い。お互い分かっているのに、どこまでも平行線を辿ってしまう。「蜻蛉日記」にも、おそらくどこにだってこうした平行線は見つかるだろうと考えるなら、これを「神話的すれ違い」と呼ぶこともできるかもしれない。だから、ラストシーンで女性がむき出しの心を見せて「行かないで」という時、非常に複雑な気持ちにさせられる。(その複雑さは最後にもう一度書こう)そうした恋愛と演技、ということについても書こう、と考えていたのも最初のこと。

 ※蛇足:映画の批評を行うに当たって、必ずしも必須ではないけれど有効な手段として、その監督の過去の作品を見る、という方法がある。

 キアロスタミ監督について調べると、この「トスカーナの贋作」は監督にとって非常に特別な作品で、初の海外ロケ、そして初の職業俳優の起用、ということが挙げられている。(女の方は有名女優。男の方は俳優としては素人だが著名なオペラ歌手)
 そこで、過去の作品、「そして人生はつづく」(1992)と「クローズアップ」(1990) の二作を観てみた。観終えて、「選択を間違えたかもしれない」と感じたのは、この二つの映画が本当に素晴らしく思えて、「トスカーナの贋作」はむしろこれらより前の段階に戻っているように感じたから。だから、一番最初の構想はすでにここで挫折して、以降はこれらの映画が達成したものと、「トスカーナの贋作」を結びつける、という作業になった。


―③メタ演技―

 「クローズアップ」は、いわゆる「映画」に慣れている人からするととても奇妙に思える作品だ。一番分かりやすい説明は、テレビでよくやる「犯罪の再現ビデオ」ある男が映画監督に成りすまし、近づいた一家から金を騙し取ろうとして詐欺未遂で逮捕される。キアロスタミ監督は拘置所まで彼に会いに行き、自ら面会を行い、さらには彼の裁判も撮影する。さらには裁判の中で監督自身が弁護士でもなんでもないのに彼に質問を行う。この部分はドキュメンタリー作品以外の何物でもない。しかしキアロスタミはその後、この詐欺未遂の犯人、彼を逮捕した記者、さらには被害者の一家全員を「役者」として起用し、事件の一部始終を本人たちによって「再現」させる。観ているこちらは「これは一体なんなのか?」と驚かされる。一番怖ろしく感じたのは、裁判中に「後悔している」として、釈明をしている被告に、「(事件の際に監督に成りすましたように)今も(後悔していると)演じているのではないですか?」という意地悪―残酷と言ってもいい質問をするシーン。
 しかし、この質問はもっと様々なことを投げかける。演技かどうか、それを確かめる術は存在しない。日本のドキュメンタリー映画の監督森達也に「ドキュメンタリーは嘘をつく」という著書があるが、そのテーマを、このワンシーンは説得力たっぷりに伝えてくれる。ノンフィクションが真実である、ということは全くの幻想に過ぎない。それどころか、僕たちが日常に接している人々、友人も家族も、自分の前で演技をしていない者など誰もいないことになる。それが嫌なら、まだ言葉を獲得していない赤ん坊を抱き上げるしかない。

 「そして人生は続く」は詳細は省くが、こんな台詞がある。「前に出た(キアロスタミの)映画の家は、私の家じゃないんだ。実を言うとね、この家も私の家じゃないんだよ。『この映画の中の私の家』なんだ」このシーンでは、さらに監督か誰かの「お椀を渡して!」という声が飛び、裏方の女性が走って役者に小道具を手渡すところまでが見せられる。アクシデントを撮影したのか、それともメタとしての発言さえも最初から用意されていたのか分からない。
 
 この二つの映画では、撮影されているのはまさに「当事者」であるが、それさえも疑わしい、ということ。ドキュメンタリーと映画と現実の全てをつなぎ、その全てが疑わしいということを告げる衝撃がある。そこからすると、一応は「フィクション」の枠内に収めてしまえる「トスカーナの贋作」は一歩後ろに下がったような印象がある。でも本当に?

 ここで観点をひっくり返してみる。「初の職業俳優の起用」が、この作品のテーマと関わっているとしたら?役者は映画の中で演技をする。彼女が作品の中で見せる感情も、涙も、全て脚本に書かれていること、それが映画の「約束」。最初に書こうと思っていた「入れ子構造」をひねって、この映画を「役者」あるいは「演技」のドキュメンタリーとして見てみれば、今度はこの女優、ジュリエット・ビノシュの演技は全部が全部メタとなる。前の2作が「ドキュメンタリーへの懐疑」を育てるのだとすれば、この「トスカーナの贋作」は、「フィクション映画全てへの懐疑」を育てる。
 そこでは、映画が様々な役者の「演技」(映画にならって「贋作」(脚本に描かれた役の)「コピー」といってもいい)によって成り立っているという当たり前のことに気づかせ、またそれらの役者も映画を離れたら自身の生活があることを思い出させる。こうした見方は、上の2作を見ていなければ生まれてこないものかもしれないが、「コピー」と「オリジナル」の論争と通じるものを感じる。

 ―④恋愛―

 映画を見終えた後、僕はこうした風景を想像した。もしも、この映画を映画館で、例えば長年付き合ってきた恋人や妻と見ていたらどうだっただろう。映画館を出た後、二人は近くのレストランか喫茶店に入る。そして映画の内容について話し始める。別にケンカする必要もないけれど、二人はある瞬間にがつくだろう。今話しているこの会話が、映画のように演技でない可能性はどこにもない!
 
 なるほど、部屋で一人でDVDを見る、という時点で間違えていたのだ。こいつは「映画はデートで行くもの」というステレオタイプへのキアロスタミ監督の攻撃、いわば「リア充爆発しろムービー」……というのは見方がひねくれ過ぎているが、この映画は恋人たちにより明確に伝わることは確かだろう。しかし、上で挙げた2作に比べると、「トスカーナの贋作」の台詞は「演技」というのがあまりに強い。上の2作で語られるのは、一つは地震で親類を失った人々の言葉、もう一つは犯罪の被害者と加害者の言葉、そこには何か「迫真」さを感じさせるものがある。一方で「恋愛」というテーマは、そもそもドキュメンタリー化しても最初から演技が介入している。恋人を撮影しようとして、「自然な演技をして下さい」と言おうが、さらには隠し撮りをしようが、二人は既に互いの前で演技を行っている、そのことに気づかされる。
 逆に言えばこれは「恋愛のドキュメンタリーそのもの」ということも出来る。
 
 「演技」もそんなに単純なものでもなく、二人は幾重もの演技の層をまとっている。男が新婚と写真を撮るのを拒むシーン。あるいは杖の男に言われて女の肩を抱くシーン。これはポーズなのか否か。
 女の方は、電話で息子に怒鳴ったのは全くの演技だったのでは?化粧をすることだって、妻から女という演技の層の違いと言うことも出来る。それなら、一見すればラストシーンで、ベッドに横たわり「行かないで」と男に告げる彼女は、そうした幾重かの演技の層を脱ぎ捨てているように思える。僕がこのシーンの彼女に「素」を感じて胸に来てしまったのは偶然ではないと思う。それも当然演技に違いないだろうが、そこで何重かの「演技」の層を脱ぎ捨てる際、彼女は役者としての層も同時に脱いで、女優ジュリエット・ビノシュその人として言葉をつむいでいるような、そんな錯覚に思えるからだ。それはまさに「恋愛のドキュメンタリー」と言ってもいいように思えるそんなシーンだった。


 それでも僕は、この映画がある種「失敗作」であるように思えてならない。キアロスタミ監督は「私は物語を語る映画に耐えられません。より上手く語れば語るだけ、私の抵抗は大きくなります」と語っている(『映画の明らかさ』)が、恋愛は上にあるように概念自体が演技で物語である。最初に講演会の、しかも主役が不在の空席で始まるのも、また男がどうしたのか分からない中途半端な形で終わらせたのも、物語を閉じさせないための工夫に見える。そうするとやはり、キアロスタミ監督の他の映画を見て初めて、僕たちは「恋愛はドキュメンタリーとして描くことは出来ない」ということに気がつき、この失敗作―あるいは、これまでのオリジナル作品に対し「贋作」と呼んでもいい―の価値を知るだろう。


参考: 『映画の明らかさ―アッバス・キアロスタミジャン=リュック・ナンシー 2004
     「インタビュー アッバスキアロスタミ」 キネマ旬報 2011年3月
     『そして人生は続く』(1992)『クローズアップ』(1990)  (映画:監督・キアロスタミ