ベンヤミン 複製技術の時代における芸術作品 覚書

Ⅲ「人々の知覚が変化することで、社会も変化する」

 複製技術、例えば古くは印刷技術、そして写真や映画が出てくると、それらを受け取る人々の知覚が変化する、という論。インターネットを考えれば納得できるのだろうか?ネット以前の人とネット以後の人で「知覚」が変わっている、とはっきり言うことは、感覚的には難しい気がする。けれど僕はアメリカの大学教授から聞いたこんな話しを思い出す。
 「今50〜60代の人は、図を多用するより、文字を用いたほうが理解のスピードが速い。しかし30代以下の人は、図や表を多用した方が早い。どちらが優れているということではなく、特質が異なる」

 人の持っている五感は全く同じもので、同じように世界を感じる、と素朴に考えることは出来ない、ということを芸術ゼミで長らくやってきたように思う。特に現代アートと呼ばれるものの多くは、これまで聞こえなかった音を聴き、見えなかったものを見る、ということが重要だった。オングの「声の文化と文字の文化」もつながるかもしれない。活字を読むことを日常的に行わない人は、世界の知覚の方法が異なるという話。

 ベンヤミンの「アウラ」の概念。定義として「どんなに近距離にあっても近づくことの出来ないユニークな現象」と述べられているけれど、それよりは「美術館にある本物の『モナリザ』にはアウラがあるけど、全く同じサイズで、最高の解像度のモニターで見るモナリザには、(もしかしたら視力がちょっと悪い人には区別がつかないかもしれないけど、やはり)アウラはない」という説明の方が分かりやすい。オリジナルが持っていて、「いま」「ここ」にしか存在し得なないもの。

 複製技術は、このアウラを解体・消滅させていったことが語られる。写真、映画は、そもそも最初から複製品であることが織り込み済みになっている。音楽はレコード、CDの発展で。舞台芸術もは完全とは到底いえないけれどDVDにすることが出来る。

 ◇僕はこのアウラの消失が、この20年でもう一つの段階を踏んできたような気がしている。インターネットとデジタル化が進むことが原因。二つの要素を挙げると、①「マテリアル・アウラ例えば「CD」あるいは「本」という、手にふれることの出来る物質が持つもの。確かにこれらは複製することは出来るけれど、自分で行うことはとても難しい。CD-Rに焼き付けること、印刷して製本することは、原理的には無限に出来るけれど、自分でやることは大変だし(CD-Rを原料から作成すること)そこにはやはり限界がある。既に持っているCDを何枚焼いても意味が無いし、人々はレンタル店からそれをコピーできると知っていても、ライナーノーツやCDジャケットを手に入れたい、物質として手に入れたいという欲求からそれらを買っていた。
 それが、ipodの登場や、ネットの環境で、「固形物」触れるモノを必要としなくなっていった。多分、CDにも非常に薄められてるとはいえ、アウラが存在していたように思う。けれどデータにはそれがない(あるとしても、無限に薄くなっている)それらは原理的に、そして実際いくらでも、いくらでもコピーすることが出来る。それにつながって
 ②「ポゼッション・アウラの消失があるように思う。僕の実際の体験なのだけど、大学の文化祭でバンドをやることになったとき、その曲のCDを持っている人を探すか、レンタル店で借りてこようという話をしていると、「Youtubeのアドレス送りますよ」僕たちはあるライブ映像のアドレスを共有して、そのヴァージョンのコピーをした。
 データを「所有する」という欲求すら必要でなくなる。例えば音楽が、レコード、CD、データと変化したとき、それらは並べる場所が棚からパソコンの中の棚に移動はしたけれど、「所有」して、自分だけのものとして持っているという点は変わらなかった。けれどここでは、ネットそのものの世界が棚になっている。上で「無限に複製することが可能」ということを書いたけれど、それらは一つ、二つ、とデータにしろ数量が増えていくことは間違いなかった。しかし、「ググればいつでも表れる」ということは、もはや数量を数える必要はない。こうして、「所有」することで表れるかすかなアウラも、データ=電気信号としての僅かなアウラも目を凝らしても見えなくなる。

Ⅳ「芸術のそもそものはじまりは儀礼であり、呪術や宗教である」
 「芸術作品には、礼拝的価値と展示的価値がある」

 これもモナ・リザの例を出せば分かりやすい。モナ・リザの写真はデジタル・データとして、もしかしたら実物をみるよりもずっと詳細にコンピューター上で鑑賞することが出来るのに、人々はモナリザのある美術館へ向い、胸を高鳴らせながら回廊を歩き、その写真を撮って帰ってくる。本物から吹き出るアウラを分けてもらうように。

 
 ◇「数年に一度しか見ることの出来ない聖像」という記述を見て、日本の寺などの「ご開帳」を思い出す。善光寺は6年に一度?そうして、時期を限定することで「礼拝的価値」は強くなる。数十年に一度しか見られない流星群は、毎年見られるそれより(仮に美しくなくても)アウラが強い。6年に一度の善光寺の仏像を見に参拝するとき、それを決意すること、家を出てから列車に乗って、善光寺へ向い、大量の人々に押されて、ようやく見えてきたお堂に入って……というこれらのプロセス全てが「礼拝的価値」に積み立てられる。仏像そのものの美しさ、というものを単に取り出して鑑賞することは不可能だと思う。

 僕が美術館に行く前に、その画家の絵について、また人生について調べていくのが好きなのは、そうした礼拝的価値を高めるためなのだろうと思う。それは単に知識を手にすることだけではない。絵の背景にある意味を知ることを単純に「知識」と言い切ってしまっていいのだろうか?それは作品のアウラを感じることではないか。横尾忠則の「芸術感応術」では、そうした「アタマ」での見方に対してやや否定的な意見がある。ボイスとエンデの対談にも見られる、芸術が「理解する」ものになってしまった、という批判だろう。例えば「ゲルニカ」の絵を見て、「この牛はピカソ自身を、こちらの女は愛人、こちらは妻を……」と分析するように。

 僕は、決してこの「礼拝」という要素と、芸術そのものが持つ「美(展示的価値)」の要素を二つにぶった切ることは出来ない、と考える。けれど、それらを分けて考えるのはいろいろと有用だということも思う。一つは上に書いたように、作品を観る前の準備。
 また、現代アート(だけではなく、例えば建築物やメディアにも)に喧伝される「体験」という要素。メディア・アートの多くは「インタラクティブ・アート」と呼ばれるくらいに、こちらの操作を必要とする作品が多い。建築散歩でのディズニーランドにおける「体験」へ導く方法。

 現代アートに僕がしばしば感じる空虚さは、ここで「祈り」や「礼拝」を欠いたまま、体験のみが用意されているからではないだろうか。あるいは、その「礼拝」を模し、仮想して行わせるような作品もある。しかし、それがアトラクションの域を出たように感じたことは少ない。
 逆に、どう考えてもクズのような作品だとしても、それが人をひきつけ、礼拝者を招くとき、そこには確かに芸術の礼拝的価値を招いている、と言うことが出来る。その部分を切り捨てて、作品そのものだけを劣ったものと言うことは、逆に作品そのものの価値だけを賛美することにもつながる。(もちろんここにも、批評家の役割という留保がある)

Ⅶ「演劇、舞台での役者はアウラそのもの。肉体があり、いま、ここでしかありえない演技をする」
 「映画はそのアウラを撮影、編集の中で奪い去る。そして映し出される光には質量がゼロであり、どこでも・いつでも上映される」

 「いま・ここ」の対義語は、「かつて・どこか」ではなく「いつでも・どこでも」なんだと思う。ベンヤミンの論からは離れるけれど、映画が出始めたころの言説が紹介されている。映画への賛歌、それは作られた世界を、現実と全く同様に見ることが出来る。まさに第二の現実であるかのように、という論で、今読んでみるとヴァーチャル・リアリティをめぐる論に近いようにも感じるのが面白い。
 ベンヤミンが、映画に感じていた楽観「映画は人々の意識を覚醒させ、社会的に働く」というような意見は、例えばテレビが出たとき(人類全員が啓蒙される!)、ネットが出たとき(世界が身近になり貧困や戦争はなくなる!)に繰り返され、そして全くの挫折に終わってきた。ヴァーチャル・リアリティはどうだろうか。ヘルメットを被るのか、あるいは脊髄に直接ケーブルを差し込むのかしらないけれど、僕らが難民キャンプで飢える子どもを、銃弾飛び交う戦場を、現実そのものの質量で感じることが出来るとき……それはもう「これ以上のリアルはない」というどん詰まりまで来たとき、『革命』は起こるのだろうか。この視点を導入するとき、ベンヤミンが随所で語るファシズム共産主義革命の言葉は現代にひきつけられるように感じる。
 ナウシカの言葉を思い出す 「私たちが亡びずに、もう少し賢くなっていたら…」

Ⅹ「映画は、演劇の持っていたアウラの消失にたいして、スター崇拝で対抗しようとする」
 「写真や新聞は、芸術家と一般人、著者と読者の境界を無くしていく」

 以前舞踊に関して「特権的肉体」という話しをしていたことを思い出す。例えばフリーダンスは「誰にでも踊れる」ものとして、このダンサーの特権を一般人にも渡す。さらに、ミクミクダンスやアイドルマスターは、たとえ足が不自由でも「躍らせる」ことが出来る。
 ビデオカメラがあれば「誰でも役者」になることは出来るし、「誰でも監督」にもなれる。ここでのその指摘は、上の方で書いたのと同様、この20年でまた一つ段階が進んだように感じる。携帯電話、スマートフォンにカメラ、ビデオカメラが付属するようになったこと、またブログやSNSによって「誰でも作家」となり、しかもそれを「世界中に発信」出来る。編集がより楽になれば、この特権はさらに解体を始める。芸術ゼミで見た「TENORI-ON」は、音楽の分野でこれを進めるものだった。いつか脳波でピアノが弾けるひが来るかもしれない。

あとがき: マリネッティ未来派宣言「戦争に栄えあれ!」

 この言葉の衝撃は大きかった。芸術ゼミで、「遺伝子組み換えで作り出された発光するウサギ」「青いバラ」を「クリエイション=創造」として提示した。神の世界の創造は芸術だったのか?もしもウサギやバラの創造を芸術として捉えるのなら、当然破壊も芸術たりえる。原爆のキノコ雲に畏敬を感じた兵士の心。ノアの洪水を起こしたとき、神の心には悲しみだけだったのか、それとも「なんというスペクタクルだろう」という美の感覚があったのか(こんな話をするこの俺に神様あなたは罰を与えますか?)
 自然の模倣は確かに芸術と言えるとして、自然そのものは芸術足りえるのか、という問いが出てくる。

 未来派宣言を完全に否定することは出来るだろうか?イラク戦争反戦デモのとき、「私たちにはもっと美しい世界が似合います」というコピーが唱えられていたけれど、これは「戦争は美しい!」というシンプルな言葉に勝るとは到底思えない。ベンヤミンは、技術と人間との乖離、阻害ということでこれを否定する。僕はそうではなく、身の回りで行われている様々な人間の破壊を思い浮かべる。家庭の中で、学校で、または犯罪だったり、それらはかつては戦争とは呼ばれていなかったけれど、今ではメディアのおかげか、それらの区別は失われていく。岡崎京子リバーズ・エッジ』を思い出す。「平坦な戦場で僕らが生き延びること」
 それらの戦争は、美しいと感じられるのだろうか。