美術論:デュシャン・大ガラスのギャラリー・トーク

 今日の「美術論」は駒場の大ガラスを前にしてのギャラリー・トーク。実際にそれを制作した教授(当時大学院生)が、その作品を前にして語る、という非常に豪華な機会。製作過程のビデオを見ながら、制作時の様々な苦労話や楽しかった思い出を色々と聞かせてもらって、作品への親しみがおかしな方向に増していく。

 印象的だったのは、こんなにも観念的な作品なのに、「先に絵の輪郭を針金で取るんだけど、その針金だけの状態の大ガラスは、本当に美しかった」という教授の言葉。また、びっくりしたのは、その製作期間。一年間、大晦日と正月二日だけ休みで、あとは毎日8時間労働を延々と続けていたとのこと。駒場の一号館の屋上に小屋を特別に建ててもらって、そこでひたすら作業したそうだ。

 一方で、自分の予想とかなり違っていた点もあった。僕はこの作品を「オリジナルとコピーを揺らがせる作品」だと思い込んでいたことだ。教授が最初にこんなことを言っていた「こっちの大ガラスは、建て替え前の駒場博物館の空調が悪かったせいで、どんどん経年変化している。30年でオリジナル作品の90年の経年変化と同様になっている。その経年変化がオリジナルのものと似ているのが嬉しい」

 この言葉に僕が違和感を抱いたのは、その「経年変化」の違いこそが、駒場の大ガラスの「個性」になると感じたからだ。芸術ゼミの『芸術の読み解き方』の回、また映画『トスカーナの贋作』の中で、芸術を芸術たらしめるものとして「歴史」という要因が挙げられていた。もしも駒場の大ガラスが、フィラデルフィアのオリジナルのものと違う変化をしたとして、それはこの作品の「個性」、そして固有の価値になるのではないか。フィラデルフィアの大ガラスは、運搬中にガラスが割れてしまっている。しかしデュシャン自身がそのひび割れを好んだという。今ではそのひび割れこそが、他のレプリカ3つと、フィラデルフィアのものを見分ける個性となっている。ひび割れというのはこれ以上ない偶然性だ。

 もう一つは、この作品をつくる際にデュシャンが「偶然性」を用いたこと。僕が聞いただけで4つその要素がある。まず左下の「独身者たち」と呼ばれる9つのオブジェの配置、これは「糸を空中から落としたときとった形」の図形を用いて決定されている。下部中心の「ろうと」=円錐の色は、ガラスの上に堆積させたホコリによって定められている。右上にはガラスに穴があけられているが、これはマッチ棒の矢を飛ばして位置を定めたもの、そして上の雲(銀河)の中の3つの四角は、風になびくガーゼを写真撮影し、その形をトレースしたものだ。

 大ガラスのレプリカを作ろう、というときに二つの道がある。一つは、最初に作られたフィラデルフィアのオブジェを完全にトレースすること。もう片方は、これらの偶然性の実験を再び行うこと。後者を選べば、見た目もフィラデルフィアのものとは大きく変わることになる。芸術品の価値が「外観」に重きを置くのであれば、前者を取るべきだが、その「思想」だったり「プロセス」も芸術品の一部と考えるのなら後者を取るべきだと思える。現代、ケージの偶然性の音楽や、またポロックのアクション・ペインティング(これは厳密には偶然性ではないけど)のように、制作の「過程」に意味を見出してきたことを考えると、後者の方法、つまり偶然性の実験を元に作品を作ることは、決して間違いでないように感じる。

 東大バージョンの制作チームも、これに関しては議論を交わしたらしく、全ての実験を追体験して、その上でフィラデルフィアの配置を再現することに決めたのだそうだ。これには、「学術研究の意味合いもあった」という説明が一つの理由を与えてくれる。仮に偶然性の実験を元に制作して、見た目が大きく変わってしまった場合「誰が責任を取るのか」と教授は言っていたけれど、僕は責任は批評家であったり、言説が取ることが出来ると思うし、また製作者にはそんな責任はないとも考える。(ここでは制作に関する様々な資金援助をした団体が念頭にあったんだと思うけれど)

 蛇足だけど、この追体験の記録を箱に収めて、「グリーンボックス・東大バージョン」として作品にして展示できるのでは、なんてことを考えていた。

 ストックホルムとロンドンにもレプリカが存在するが、これらはデュシャン自身が「本物と全て変わりなし」というサインをしているという。駒場のものにはそれがない。しかし、僕はこんなことを考えた:ある誰かが、駒場の大ガラスを詳細に調べ上げて、そのレプリカを作れば、この駒場ガラスを作った教授はそこに出かけていって、孫レプリカに「駒場のレプリカと全て変わりなし」というサインを施すことが出来るのではないか、と。

 デュシャンが工業品に興味を持ち、モチーフとしていたこともここに組み入れて考えられる。大ガラスの制作期間は1年かかったが、工場で作ろうと思えば大量生産することも可能だろう。(僕の予想は、デュシャンはだからこそ偶然性を取り入れていた、というもの。しかし今なら、偶然性すらコンピューターに任せることもできるかもしれない)

 コピー品であるこの駒場の大ガラスを見たときと、フィラデルフィアの「オリジナル」を見たときと、感じることは異なるのだろうか?だとすれば、それはコピーとは呼べなくて、音楽でいうところの「カヴァー」なのではないか。完全なコピーとは、入れ替え可能なもの。ひび割れまで再現して、フィラデルフィアのものと、あるいはロンドンの、ストックホルムのものと時々入れ替えればいい。そしてオリジナルがどれか分からなくなってしまえばいい。駒場の大ガラスを見て、それからフィラデルフィアに渡ってみて、「やはりオリジナルの=本物の大ガラスは良かったよ」と言うことはナンセンスだと思う。