五月祭 「ここに顔」 演劇「目視録」「ゆき渡り」感想


 ①目視録

「これからね、この劇をはじめて行こうと思うんだけど」
 あまりにも無造作なセリフが冒頭に来るため、まだ前説明の続きなのかと思わされる。初めに断っておくと、僕はこの劇を客観的に見ることは出来ていないだろう。出演者のうち三人と会話を交わしたことがある。また事前にいくつかの情報を得ていたからだ。前情報の無かった人はそれなりに戸惑ったと思う。出演者たちは、まるで雑談をするように話す。それを「セリフ」と呼ぶのがはばかられるほどに。この意図は相当強く伝わっていて、劇を見ながら、僕は今立ち上がって何か言葉を言ったらそのまま劇に参加できるだろうな、と感じた。
 
 登場人物たちは、ある学校の映画研究会のメンバーという設定だ。ある雨の降る夜に「事件」が起きた。かなり序盤に、これも聞き逃してしまうくらい無造作にその内容は明かされる「で、僕たちは食べられちゃって、無に返されたんですよね」ある映研を辞めたいと思っている一人が、その日他の4人を「食べて」しまう、というもの。劇は時間をさかのぼったり、その雨の夜に戻ったりを繰り返しながら、そこに至るまでのメンバーたちの関係を描いていく。描くと言っても、それらの会話は全て雑談に過ぎない。「みんな、やる気が無いって言うか……」「いや、引き止めなきゃ良かったと思うんですけどね?」彼らは、よく知らない人物=観客に、自分の内心を説明するのだが、それらもセリフというよりはひとりごとに近い。しかし劇の終わりに近づくと、やや「演技」の要素が強まっていき、人肉食者が「食べますよ!」と残った一人に叫んで終わる。

 面白いのは、プロジェクターの四角い枠を照明として用いていたことだった。舞台のほとんどの時間、この枠の中で劇が進んでいく。僕はこれを最初見たとき、上に「雑談」「ひとりごと」と書いたことともあわせて、ドキュメンタリー映像、あるいはホームビデオを見ているような印象を受けた。それこそアマチュアの映画研究会が作成したもののように。これにはかなり不思議な感覚を与えられた。つい先日、芸術ゼミで「映画」の回を扱った際、演劇と映画の視線、あるいは「視界」の違いについて勉強していたから、演劇を見るとき、人は舞台全体を見回し、役者の姿を目で追う。しかし映画の場合はスクリーンの四角をぴったり視界におさめて固定する。この舞台は、演劇でありながら、ときどき視界をその「四角」に固定させられるように思えた。ときどき、その四角の外にいる人物がセリフを言うときがあるのだが、それは映画のように「画面にいない人物」が発声しているように思えた。実際には薄暗いとはいえ、そこに人物の姿が見えているのに。

 プロジェクターには時折映像も流されるが、これも面白い効果を生んでいた。役者の顔、白い服装にその映像が映りこむのだ。序盤に緑の草花の映像が映るのは印象的だった。単に映像の効果というだけでなく、それらの色や画によって、登場人物の心のうち、状態も描かれるように見えた。

 もう一つの特徴は、登場人物たちが、話しながら常に体を小さく動かしていること。というより、ある一定の動きを反復する。普通の舞台ならまずやらない行為だ。動きに目がいってしまい、セリフが聞き取りづらくなるし、見ていて何か落ち着かない気にさせられる。これは「雑談」めいたセリフと合わせて、さらに「演技」というものを崩しているように見えた。

 上に述べたように、この舞台はいわゆるストーリーを持って、役者が役を演じる「演劇」というのとはかなり異なる。「パフォーマンス」という言葉の方向へ寄っている印象がある。
 こうした演出への僕の感想は、この劇は「舞台と観客の間に新しい境界線を引こうとしている」というものだった。これまで、寺山修司フルクサス、前衛的でなくても、多くの舞台が「舞台と客席の境界を消す」試みを行ってきたように思う。逆に古典的な舞台は、演劇的な発生や手振り・身振りによって、それがイリュージョンであることをはっきりと示す。この作品では、上で「自分が参加できそう」だ、ということを書いたが、それはあくまで雰囲気の話であり、ひたすら雑談の続く劇の内容、また役者の語りの形式があまりにも個人的で、こちらがわを強く阻害しているように感じる。全く聞いたことも無いある学校の、映研の活動日誌を延々と見せられたら、何を楽しむことが出来るだろう?しかもそれは大きな盛り上がりがあるわけでもない。舞台の近さ、どこにでもありそうなセリフのやりとりは近さをかんじさせるのに、内容と語り口には阻害される。この二つの相反する特徴が、これまでにない劇の体験をさせてくれた。

 そんなわけで、独創的な舞台で面白かったのだけど、だからこそ「もっと出来るんじゃないか?」という感想も強かった。一番の違和感は、「人喰い」というストーリーの導入。これが無ければ物語が成り立たない、また実際の「人食い」なのではなく、何かしらのメタファーだという見方を予想しているのだと思うけれど、僕はむしろこれがあるせいで、「物語」が立ち上り過ぎて、色々解釈「出来てしまう」ことが劇の邪魔になっているように感じた。同様に、青いミラーボールと般若の面という小道具にもそうした違和感があった。記号としての存在感が強すぎるように見えた。細かいようだが、ラスト近くでスクリーンに映し出された銀河もそうだ。画面として、またそれが人物にうつりこむのは画としては素晴らしく美しい。しかしそれは「普通」の予想されうる美しさ、と言えばいいのだろうか。終わり方にもこれは関わる。ここまでの不思議な感覚が、物語が「オチ」てしまうことで消えてしまう。

 また、人物の動きも、反復の効果があるのは良かったのだけど、もう一歩何かないだろうか、という物足りなさがあった。とはいえこの感想は、以前コンテンポラリー・ダンスを見に行ったときに「日常の動きを舞踊にする」という手法を見ていたからだと思う。同様に、演劇の中の仕草をある種の舞踊として見せる、ということは可能だと思う。

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 ②ゆき渡り

 「皮肉と洒落と語呂合わせと……言葉遊びで世界は出来てる」(FOREST)

 こちらも非常に特徴的な「言葉遊び」を駆使した演劇。「目視録」は役者がかなり自由に話していたのだと思うが、こちらは完全に固まったセリフでなければ成立しない劇。
 自分を取り残して出て行った妹を探すため、兄は江ノ島と湘南海岸の「かなた」を繋ぐため「かたな」に見立てた傘を投げ入れる。ボランティア団体はその兄をゴミを投げ入れていると言って責める、とまあストーリーと呼べそうなものはそれくらい。ただし、「ストーリー」というのが、何かの筋だけを指すかと言えば、詩を思い浮かべればすぐに分かるようにそうではない。

 また、劇はまるで変奏曲のように、ある場面が少しづつ変化しながら、同じシークエンスを何度も繰り返す。「この橋渡るべからず」「では真ん中を渡ろう」「このスフィンクスの問いに答えられたなら」という一連のやり取りが繰り返されるが、このシーンはもはや音楽、あるいは詩の朗読を感じさせる。朗読と演劇が思いのほか、というかほとんど区別がつかないほど接近している。詩がそうであるように、こうしたパーツが二度、三度と繰り返されるたび、めまいのような不思議な感覚に誘われる。
 ある地点では全く同じセリフが繰り返されることは、「一回性」であり物語を追う演劇では思いもつかない手法だが、その前のシーンとの繋がりによって、同じセリフも異なって聞こえてくる。さらにプロジェクターで映し出される背景が、白黒の格子から後半では青黄へと変わり、まるで背景の変化によって物語が進んでいくように見えるのは非常に面白い。同じ背景を、異なる場所に見立て、物語で劇を進めていくのと丁度逆の発想だ。さらにそれを、言葉遊びのリズムが助けている。

 「悲願が叶った」「彼岸の彼方」「此岸の此方」
 「あの島についたらそこはもうこの島です」「間の"いうえおかきく"を……」

 などという変化は繰り返されることで耳に、頭に焼き付いていく。序盤のやりとりを聞いていたとき、僕は寺山修司の「田園に死す」などの映画を思い出していた。自分のが寺山、唐の演劇を好きな理由は、ある1フレーズが詩のように耳に残る、その「一行の力」を声に出す、言うなれば呪術的、呪文のような力のせいだと感じているが、この劇では、言葉を繰り返すことによって、まさに呪文といった方法でそれを達成している。この体験の面白いところは、同じフレーズが繰り返されると、見ているこちらは「次の言葉が予想できる」ところにある。同じ場面が繰り返されることへの気持ちの悪さ、同時に自分の頭で思い浮かべたセリフが繰り出される、まるで未来を予知しているような気持ちのよさ、この二つの感覚が同時に襲ってきて、めまいの度合いはさらに高まる。

 他には、刀を投げ込み此方と彼方を繋ぐ、というイメージも強く残った。どこかで聞いたような気がして調べると、まさに鎌倉で刀を投げ込み嵐を沈めたという新田義貞の話が出てきたが、水に武器を放り込む、というイメージではエクスカリバーを妖精に返すシーンや、あるいは斧を落として湖の女神が現れる、など色々と想像が膨らむ。

 欠点を挙げるとすれば、パフォーマンスがまだ未完成で貫徹されていないと感じたこと。この舞台はおそらく、目視録をさらに超えて、舞踊や朗読≒音楽に近づいている。だとすれば、ライブや舞踊を見ているときに身体に強烈に感じる感覚の域にまで客を引き込む必要があると感じる。言葉のリズム、呼吸、足音や投げ入れた刀の立てる音、映像の切り替えなど、微細な部分のリズムまで、それこそ舞踊が一糸乱れず躍るように、指揮者がいるかのように錯覚させるくらいに(もちろんテンポをあわせるためでなく、意図的にずらす、というところまで含めて)合わせられれば、観客に強烈な体験を味合わせることが可能だと思う。今ではまだ「実験」「前衛」という言葉で片付けられてしまう。