芸術ゼミ 「文学」回のための準備:覚書

 小説はある種のサインを送り、モデル読者を指定する。例えば「昔々……」と話し出せば、そのモデル読者は子どもとなり、大人も子どもを仮想して読む。『エーコの文学講義』より →実験文学はこのサインを送らない/読者が想定できない。

 「作品を値踏みし、点をつけること、格付けることには興味はない。ある種の判断や趣味の根底にある暗黙の前提をえぐり明らかにすること(が大事)」 ソンタグ『反解釈』より →自身の感受性、そしてその根拠を説明していく批評、と言えるのか。

「その頃はまだ、ホフマンスタールやヴェルフェルの朗読を聴いたあと、無言で立ち去りました。詩人の肩を叩いて、サインを求めるなんてことはしませんでした。若者たちは、今よりずっと過激でしたが、まだ作家たちに畏敬を感じていました」(ケストナー
 詩人のアウラを切り売りしたのは、しかし再生、前進のためだったはずだろう。カルマジーノフとトリゴーリンをひき潰して列車は進む。それを失ったままにしていてはいけない / それを取り戻してはいけない


●『河合隼雄村上春樹に会いに行く』

「オウムの世界は素朴だが、その素朴さが力を持つことを考えるべき」宗教が語る「物語」とファンタジーの「物語」はどれほど同一視できるか。僕はこれらにつながりを感じる。けれど僕は、ファンタジーが「ゆきて帰りし物語」であることを思い出す。サムが、ゲドが、家に帰り着いたときのことをまだ覚えているだろう。

 「日本人の私小説について……日本人の『私』の区別は、西洋の『個』に比べてあいまいで、ほとんど『世界』と同一となる。『身辺の雑事』が『世界』と等価になる、そうした狙いを持って書かれている」『身辺の雑事』に『恋』を入れ込む、あるいは入れ替えれば、ほとんどセカイ系のことについての文章に思える。「ポスト・セカイ系」として見られるのは何だろう。タクトやピングドラムはどうだろうか。

 春樹「フィクションが力を失った、という言説は正しいと思えない。オウムを見て『フィクションが現実に負けた』という話があるが、あの事件をフィクションにしても誰も読まないだろう。事実とフィクションは永遠の補完関係にある」「小説のメリットは、新しいメディアの逆に、情報量が小さく、スピードが遅いことにある。誠実に、作者とともに叫べる最後のメディアではないか」現代アートが、総合芸術が、五感を通して「体験」を届けよう、というときの「体験」と、小説を読むときの「体験」はイコールで結べる気がしない。「アンナ・カレーニナ」のリョーヴィンの麦刈りのシーンを読んでしばらくしたあと、僕はたまたまロシアの麦刈りの写真を見て、知っている!僕はこれを知っている!と鮮やかに小説の中の場面が浮かび、自分の手の鎌の手ごたえ、クワスの味まで思い出した。しかし思い出したのはそれだけではなくて、リョーヴィンのそのすがすがしさや、夢中になった思い、感情、そうした「体験」である。

 <アネクドート>ある男が、友人の作家を訪れる「あの映画監督、今度上映のときに香を使うんだって。すごいな、五感のうち3つも使わせようというんだ」作家「なんだ、まだ3つか、文学はとっくの昔から五感全部使わせてるよ」
 音楽を聴覚芸術、美術を視覚芸術、舞台芸術や映画がその二つの融合なら、文学は○覚芸術になるのだろうか。おとぎ話を読むとき、メタファーの王国、シニフィアンシニフィエの変換の嵐かもしれない。けれどそれが子どもに向けて語られているとき、二つは完全に一致しているのではないか。



 村上「大江健三郎はセックスと死と暴力について強調して書いていたので、自分はそれ以外のことを書こうと思った。しかしノルウェイの森を書いたとき、それはセックスと死の話であり、ねじまき鳥クロニクルでは暴力について書いていた」「有害図書」について考えることは、子どもの問題であるだけでない、と感じるのは、春樹が語る文学の「セックス・死・暴力」という要素が、有害図書にそのまま重なるように感じるから。どれもコントロール・合理の外側にある(暴力はコントロールされれば武力へ)「毎回バタバタと人が死ぬ・凶悪な犯罪者が登場する」という点は同じなのに、かたやデスノートは残酷だと苦情を受け、かたやコナンくんは小学校の教科書に登場する。ひぐらしのなく頃にと殺人事件の関係を疑われ、セカチューの後にドナーが増大したこと。ウェルテル効果、波の塔。これらを有害としようとすることは、小説が合理性、法、社会よりも低い位置にある、という常識=勘違いから生じているように思う。それは法や合理を超えるものである。「聖書は最高の小説」と呼ぶことはそのまま支持は出来ないが、聖書はやはり法に先立つ。問いの前提が間違っている―小説の影響で犯罪が、自殺が起きたのではなく、小説の世界の持つ法と正当さが、現実のそれを凌駕したにすぎない。逆から言えば「人々は法と社会に影響を受けているから自殺を選ばず、しかじかの行動を行わない」

 福沢諭吉坪内逍遥へ「文学士ともあろうものが、小説などという卑しい仕事をするのか」(本当に言ったかどうかは分からないが有名なうわさとなっているらしい)また、中上健二と村上龍の対談でも、二人は小説が「恥ずかしい職業」「日陰の仕事」であることを語る。上のケストナーホフマンスタールへの尊敬と対照的。あるいは詩人と小説家の違いと言えるのか。
 坪内「小説は芸術である、しかし芸術であるためには、小説は写実的でなければならない」


●「煙滅」に関して重要なポイント

 自らの文章に制約を課すことは、むしろ作者の自由な飛翔を可能にした。「eを使わない」のではなく。「e以外のものを使い尽くそうとした」と捉えられる。「音が一つなくても会話が通じる」というのは実際とんでもないことだ。今僕たちが使っている言語は、音を少なくしても意味の部分で翻訳可能となることを示すから。また、どこまでなら削っても意味を伝えられるかも考えられる。これは文字の「無駄」を考えるとともに、それらがどれほど多くを語っているか、ということにも通じるような気がする。語数を減らした簡易英語にも考えが広がりそう。逆に想像力を羽ばたかせれば、僕らがある音素を既に失った世界にいる、というSFめいた世界の解釈も可能になる。探そう、あの失われた文字を、あるいは母音を。和田ラジオにそんなのあったような。


 大江「音楽も文学も、人間を根底から支えるもの。若い作家にはそういうものと作るという意識をもって欲しい」「音楽の古典が今も演奏されるのはなぜ?その音楽を現在に生きさせる・生き返す」これで言うのなら、音楽や文学は「価値」の復活の儀式であり、一人ひとりの作家は、その歴史の中に位置づけられる、何度もよみがえる不滅の存在となる。オリジナリティとは表現なのか、価値なのか。それさえも包摂できる価値があるように思う。