劇工舎プリズム 2011年度新人公演 『ユニコーン恋愛方法論』 感想

 『いつも変わらなくてこそ、ほんとの愛だ。一切を与えられても、一切を拒まれても、変わらなくてこそ』 ―ゲーテ(『四季』夏の部から)

 恋愛を描いた劇ではなく、「恋愛とは何か」を問いかけるいわば「メタ恋愛劇」

 突如木から転落してきたTOKIOは、自分が1000年後からやってきた未来人だと語る。
 ひたすら明るい彼に最初は協力する登場人物たちだが、彼が「恋をするために」過去へとやってきた、と語ると、友人の一人ケイタは「恋愛とは何か」を考えさせられることになる。カウンセラーと大学教授の過去、自殺した女性の話、また、彼以外にも未来人が居ることが分かり、話は進む。
 やがて、TOKIOともう一人の未来人アカネは、未来の人々が植え付けられた「角」を取るかどうかを迫られる。その角は憎しみの感情を消すが、同時に愛情も消してしまうものだった。そして角を失えば、自分の記憶、未来から来たことも全て忘れてしまう。
 カウンセリングの患者ジャスミンの「愛とは全てを捨てること」という言葉を思い出しつつ、TOKIOは微笑みと共に自らの角に手をかける。


 最初から変化球な意見で申し訳ないんですが、そもそも「ユニコーン恋愛方法論」というタイトルで、主人公が男で、という時点で、見に行く前から僕は完全にユニコーンの角はペニス、転じて性欲のメタファーだと思い込んでました。いや僕が妄想狂いなわけでなくて、例えばピカソも自分を牛の姿で書いて角を強調してたり、アニメの「忘却の旋律」でもそういうメタファーがあります。まあ乱暴な言い方かもしれませんが「上のを取れば下の機能が復活する」と考えれば収まりそうな気もしますが。

 劇を見終えた後には、ユニコーンの角というのは理性であったり、叡智の象徴であるように感じられました。角が解毒に使われる、と考えるのなら、人間の中の毒である憎しみを消してくれるもの。そこから連想したのは……これもペニスと同じくらい乱暴な意見かもしれませんが、「東大生であること」というのが最初に思い浮かびました。知性を持とうとすること、論理的であろうとすること、そして自意識が肥大したもの、それが角となって現れたものではないのかと。自分が高校を卒業したとき、半分家出の勢いで一人暮らしをはじめ、バンドをやってた頃……その19歳の自分の恋愛感と比べると、今の大学の友人たちの恋愛というのは、同じ「恋愛」と呼んでいいかわからないほどかけ離れているように思います(もちろん共通する部分もあるはずなのだけど)
 
 僕が好きだったのは、メイン・ストーリーのTOKIOを巡る物語の脇に、①ジャスミンとカウンセラーのサタケのやりとり ②教授のマツヤ先生の過去 という二つのサイド・ストーリーが織り込まれていたこと。これらが様々なほのめかしがありながら、完全に語りつくされていないのが良い。マツヤ先生の怒りの発露であったり、サタケにその後悔を吐き出したり、思い悩む姿は、結局解決はされないのだけど、一つの想いの形として印象に残りました。

 テーマである「恋愛とは何か」という問いに対して、この劇は恋・愛のあり方を並列的に描くことで答えています。僕が一番評価したいのはその部分で、様々な想いがタペストリーのように美しく織り込まれている展開でした。
 「本当の恋」とは一体何か?一つづつその形を挙げてみます。

 ①まず、上に挙げたとおり、死んだ想い人のことを強烈に思い続けるマツヤ先生の姿。劇を離れますが、「死者への想い」は高村光太郎ロミオとジュリエットと思い出し、決して叶わないからこそ究極的に純粋なもの、と捉えられます。


 ②TOKIO → 女の子たち 「TOKIOの好きは友達の好きだもんなー」という友人のコメント。彼は邪気も無く、ひたすらデートの申し込みを続ける。僕たちはおそらく同様に「TOKIOは恋愛というものを分かってない」と感じるはず。しかし、翻ってみると、では「本当の恋愛」とは何か、と考えさせる強力なクサビにもなる。
 もう一人の未来人アカネの「恋すること」への気持ちを含めて、カウンセラーの助手ヨネヤマの「私は孤独を集めています」というセリフにつながっていく。ここには「孤独と恋愛」というテーマが描かれている。孤独でない人間は恋愛も必要ないか?そう考えると、未来でも、また現代でも誰からも愛されているTOKIOには恋愛というものは全く必要ないものにも思えます。
 友人と恋人を隔てるのは何か?「孤独」に絞れば、互いに「決して離れない」と契約することで、「人は一人きりである」という人によっては残酷な事実を打ち崩すもの。僕は時々、死への恐怖の大方は「一人で孤独に死ぬこと」だと感じることがあります。そう考えると、恋人を求めることは決して生存本能や快楽が、あるいは憧ればかりではないと感じます。


 ③ケイタ → マキ  マキは「ケイタは、TOKIOが来たから、それで自分を意識しはじめた。だからその想いは本当の恋ではない」と、ケイタの思いを否定します。ケイタは「確かにそうかもしれない。けれど……」と自分の思いを伝える。ちょっと深読みすると、マキはかつてケイタに何らかの感情を抱いていたけれど、それは報われなくていつか諦めてしまっていたのではないかと。
 マキにとっては、「本当の恋」と「偽者の恋」が存在しているようで、ケイタのそれは「偽者」である、と断じられる。劇の中でのハイライトが、マキの「私の何を知ってるの?」というセリフ、そしてこれをケイタがモモへと投げるその流れだと思います。
 残酷なシーンの裏で、僕はマキの考える「本当の恋」というのが存在するのか考えさせられていました。マキはそれを知っていると確信しているようですが、僕には彼女が「偽者の恋」と考えるものとの区別がつきにくいようにも思えたからです。ここでは想いの「純粋さ」が強調されています。
 

 ④モモ → ケイタ これを受けて、モモの想いが伝えられます。彼女の感情は「恋」ではなく「あこがれ」と呼ばれるものでしょう。けれど、その憧れはマキの望むような「純粋さ」を備えたものではなかったか、と考え始めると、この答えの無い三角形の中に閉じ込められてしまいます。

 そして、TOKIOに対して明かされる「角は憎しみを抑える、憎しみを消してしまうと恋愛が出来ない」という真実。正直に言えば、僕はこの説明には首をかしげてしまいました。ケイタ―マキ―モモの三角形とは離れた論に思えたからです。この劇の中で「憎しみ」というのは描かれていたのでしょうか?マツヤの激昂は、マキからケイタ、あるいはケイタからモモへの冷たい言葉は、「憎しみ」の発露だったとは感じられませんでした。「汚いもの、おぞましいもの」という恋の姿が、劇の中では十分に表現されていなかったこと。僕にはそれが、この劇の説得力を十分なものに出来なかった要因のように思います。

 もう一つ感じたことは、恋があまりにも「批判対象」として描かれてしまっていること。これはこの劇に限らないことですが、恋の苦しみに見合う喜び、という描き方であって、決して反対ではない、そうした描写が主流のような気がします。喜びが先に来ることが無く、あったとしてもモモの「あこがれ」のように、幻想として描かれてしまう。
 僕が置きたいのはこの言葉。

 「愛のない世界なんて、ぼくらの心にとって何の値打ちがあろう。あかりのつかない幻燈なんて何の意味があるんだ。小さなランプを中に入れて初めて白い壁に色とりどりの絵が映るのさ。なるほどそれもはかないまぼろしかもしれない、それにしてもさ、元気な少年のようにその前に立って、その珍しい影絵にうっとりとしていれば、それもやっぱり幸福といっていいじゃないか」

 この言葉は多分「さよならを、天使に」でも繰り返すはず。
 愛は幻想、そして劇も幻想、この考えと、リアリズム演劇、マキの考えるような「本質的な愛」が互いにぶつかってしまう。しかし幻想の旗色はとても悪い。恋愛は憎しみによる破綻というリアリズムを常に孕んでいる。僕にとっては、この劇全体が既にユニコーンの角を持っているようで、恋への恐怖、失うことへの恐怖を突きつけているように感じました。

 ⑤ジャスミン → サタケ ジャスミンはサタケのカウンセリングに訪れる患者で、性別は男性、異性装者で、男性への性的指向を持つ。サタケの彼あるいは彼女への態度を見る限り、ジャスミンの想いが成就することは決してないように見えます。しかし、その不可能性が、ますます彼女の恋愛の純粋性を高めています。「本当の・純粋な恋愛」は、マツヤ先生の場合は死者、モモの場合は無垢、そしてジャスミンの場合は一方通行の片思い(サタケの認識からすれば『同性愛』)として描かれています。
 
 僕の印象では、このジャスミンの気持ちこそが「本当の恋愛」として描かれているように思いました。「恋は全てを捨ててでも、そうしてでも……」というセリフが、TOKIOの角を取る決意を後押しします。このシーンを見ながら、僕は冒頭の引用を強く思い出していました。
 
 『いつも変わらなくてこそ、ほんとの愛だ。一切を与えられても、一切を拒まれても、変わらなくてこそ』 ―ゲーテ(『四季』夏の部から)

 一切を拒まれても、それでも変わらないもの。それこそが「本当の恋愛」である。

 しかし、ここにも裏を見つけることが出来ます。ジャスミンの思いは(彼/彼女の認識はともかく)同性愛というだけではなく、もう一つの「カウンセリング」というハードルがあります。
 ジャスミンは、サタケのカウンセリングを受ける中で彼に恋心を抱いたのでしょう。しかしそれは、マキがケイタを拒絶したことと同様、つまり「影響を受けたから抱いた偽者の想い」という構図があります。サタケにとってジャスミンは、どこまでも「患者」、彼の職業であるカウンセリングを通して、自分が愛されていると錯覚している「患者」であり続けるのではないでしょうか。そしてカウンセリングは既に行われてしまい、もはやそれ以前から関係を築きなおすことは出来ません。
 
 おそらく僕たちの多くは、患者がカウンセラーに対して「本当の愛だ」と熱っぽく語る言葉を信じないでしょう。それに「依存」というような言葉を充てると思います。こうして、ジャスミンの恋愛もまた、基盤を失ってしまうように見えます。

 この劇を批判する部分、評価する部分は僕の中で重なっています。批判というのは、上で書いたように、ジャスミンをはじめ、マキやモモの気持ちの表・裏を描ききれていないように感じたこと。評価は、一方で偽者と言われてしまいそうなジャスミンの想いを幻想の中で純粋なものとして描いたこと。

 これは批評を飛び越えた意見ですが、僕はジャスミンを、自らの矛盾を含め、さらに「本当の愛」の幻想性もひっくるめて「全てを捨てて……」というセリフへ持っていけたら、それがTOKIOやアカネの決意と絡めて描かれたら、この劇はより素晴らしいものになっていたのではないか、と感じます。書きそびれてしまいましたが、アカネの決断も面白いですね。アイデンティティは恋愛に必須と考えるのに、一方で記憶を捨てなければ恋愛ができない。
 色々考えると、人物たちの抱える様々な矛盾が見えてきて、たくさんの可能性を秘めた物語だったと思います。

 一方で、劇の「見づらさ」がかなりありました。セリフ・言葉があまりにも多く、延々と説明されているような印象を受けました。読むための文章を声に出して聞かされているようで、「舞台の上の言語」に変換されていないように感じました。大量のセリフは、音響としてみても、舞台上の時間を声で埋め尽くしてしまって、劇のリズムを遅く感じさせ、間をなくしています。
 役者の身体の動きも、どこか不自然なものに見えました。役者通しの掛け合いも、「演劇らしい演技」と言えばいいのか、カタさがあちこちで目につきました。ジェスチャーが大き過ぎて、細かな表情に注目することがうまく出来ないこと。以前歌舞伎の「見得」は、映画におけるクロース・アップの効果だ、という論を読んだことを思い出しましたが、ボディ・ランゲージによって感情・意味を表現しようとするあまり、表情への注意が薄くなっていたのではないでしょうか。「ハマリ役」と思える役者が居なかったように感じたこともこれが原因でしょうか。
 
 ケイタやヨネヤマの「詩の朗読」のように取れるシーンも、「痛々しい」という感想です。でもこれは批判だけでなくて、僕はこうした演出はかなり好きだったりもします。「言葉の力」を感じさせるのに演劇は素晴らしい機会で、実際に僕の大好きな寺山修司の戯曲では、詩の朗読、アフォリズムの連続のような場面がたくさんあります。あるいは、シェイクスピアの劇でも、『シラノ・ド・ベルジュラック』でも、韻詩が取り入れられていて、むしろ古典的な表現方法かもしれません。僕自身、小説の中に韻文を埋め込む、ということをしているので、可能性があると感じる場面でもありました。

 美術、照明には辛口になってしまいます。「普通」と言えばそうなんですが、以前見た二つのプリズムの劇の舞台が素晴らしかったため、かなり期待のハードルが上がってしまっていました。「swim in the box」では回転する舞台にラストの風船の雨、「night fall」でははさみ舞台に驚かされ、靴を脱がされる=劇空間へ入るスイッチの役割、に感動させられた分、舞台も、箱によって場面転換をする、という表現もありきたりなものに見えてしまいました。
 去年が特別だったのかもしれませんが、舞台、劇の空間で魅せる、というプリズムのイメージが無くなってしまうのは寂しく思います。夏・冬公演に期待したいです。