Theatre MERCURY 2011年度新人公演 「さよならを、天使に。」 感想

 でもね 会えたよ! すてきな天使に 卒業は終わりじゃない これからも仲間だから 一緒の写真たち おそろのキーホルダー いつまでも輝いてる ずっと その笑顔 ありがとう
    放課後ティータイム『天使にふれたよ!』)

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 文芸部の6人は、卒業する先輩のために色紙を作っている。いつもと変わらない日常の中ではしゃぐ登場人物たち。その中の一人ハルカは、あるとき部室の中に現れた見知らぬ人物―「天使」と出会う。「天使」は、ハルカ以外には見えていないが、他の人物たちは、はじめ彼女のその幻想を互いに示し合わせて保とうとする。
 色紙が破られて見つかったことから、部員たちの中に不協和音が響きだす。その代わりに卒業文集を作り始めるが、部員の亀裂は深まっていき、ハルカは涙の中で「本当のような嘘の楽園」から卒業し、天使にさよならを言う。

 非常に意欲的な作品。まず、舞台美術がすごい。入り口をくぐると、客席全部をぐるり、と取り囲むように灰色の壁がある。この壁は舞台の上までつながっていて、客席も舞台である「部室」の一部であるかのようになっています。うろおぼえだが、確か舞台は段になってなかったような。この舞台が、演劇のコンセプトそのものにつながっています。
 意欲的と書いたのは、そのコンセプト。つまり客席と舞台の境界線をあいまいにしてしまうこと。最初、この構図によって僕たち観客も、登場人物と同じ「部員」の一人である、という仕掛けなのかと感じました。物語が始まったころ、キャラクターたちはゲームをしたり、雑談をするばかりで、何をする部なのかが明かされない。オープニングが終わりしばらくして、ようやく「文芸部」であることが明かされますが、これは客席の僕たち=部員にも、それは自明のことだと言っているように感じたからです。
 
 台詞も、演技も、ひたすらにダラケた空気を伝えてきて、オープニングの音楽で一瞬戻りかけた緊張感がどんどん低くなっていき、美術だけでなく演出、空気感の面でも、客席と舞台の距離はどんどん縮まっていきます。観客の誰かが舞台に上っていって、そのままダベり初めても違和感がないと感じるほどに。僕は演劇・舞台で、「緊張感とその弛緩」というのがものすごく重要で、それが何度か書いた「舞台のリズム」を操作して、観客の感じる時間と演劇の中で流れる時間を同期させる、ということにもつながってくるのだと思っています。そうでなければ、観客は舞台上への注意力を失ってしまい、台詞も演技も見・聞き逃してしまうからです。

 しかしこの劇では、その緊張感を故意に崩していると感じました。台詞、笑いを撮る場面も、日常の中から切り抜いてきたようなもので、笑っているというより、自分もそのおしゃべりに参加して「笑い合っている」ように感じました。
 

 天使という存在が、この構図を一変させます。両親をなくしたショックからハルカが作り出した「幻覚」とされる「天使」まずはこのファースト・コンタクトのシーンが印象的でした。ハルカの慌てる様子、表情、行動が、普通の劇からするとかなり変なのですが、ここまで作ってきた日常の空気と、演劇という非日常の空間のギャップを浮きださせているようで良かったです。
 
 劇の流れを脇において、この天使(おっさんの姿をしている→パンフレット)のことを話そうと思います。まず彼は、舞台の出入り口からではなく、客席の入り口から入り、そしてラストで退場する際も他の登場人物から離れて一人そちらから出ていきます。ちょっとうろ覚えなのですが、確か天使は客席の椅子にも座ったり、観客と何かしらのコンタクトを取っていたような気がします。
 僕が考えたのは、客席の僕たちもまた、「部員」ではなく、「天使」だったのではないか、ということです。舞台美術によって、僕たちは「部室」の中に入りこみましたが、登場人物たちには僕たちは見えていません。しかし観客には「天使」の姿が見えています。客席の出入り口を通るのも、僕たちと「天使」の共通点です。僕たちが「天使」そのものでなくても、「天使」が観客と舞台とを媒介する存在だったと思えます。
 
 そうしてみると、その「天使」にさよならを言う、ということは、あいまいになっていた舞台と客席との境界を再び取り戻し、ダラダラと続いていた日常を「演劇」にして終わらせる、という意味を含んでいたのかもしれません。劇が始まる前から、登場人物は部室の中でゲームをしていたことも、「続いている日常の連続」を思わせるものでした。しかし、天使が現れてから、舞台の上では「物語」が進行していき、キャラクターたちの演技・台詞もドラマ性が強く、メタファーを含んだものへ変わっていきます。
 そして、天使に「さよなら」をつげて、演劇としか言えない形、つまり役者たちが並んで挨拶をする形で幕がおります。ここで客席と舞台との境界ははっきり取り戻されました。
 
 僕が見に行った回では、主演のハルカ役の方が、ラストシーンで感極まったのか、実際に涙を流していました。一緒に見に行った友人は、「この舞台がパフォーマンス・アートだとすると、その涙=パフォーマンスに価値があった」と言っていて、その視点に非常に感心したのですが、上で書いた僕の考えでは、この涙はむしろひどい失敗だったのではないか、と感じます。演劇という「幻想」の中で、「真実」である涙を流してしまったこと、これは演劇世界と現実を再びつないで固定化してしまったのではないか。僕は彼女の涙を見ながら、違和感を抱いていましたが、それは観客である僕たちが、天使にさよならを言うことを邪魔されたように感じたからかもしれません。天使は去り、劇は終わったのだから、挨拶のときには、ケロリとすました顔で出てきて欲しかったのだと思います。

 役者の演技やその演出、台詞をカブらせるやりかたなどは、上記のように客席と舞台を接近させる、という点においては成功していたと思いますが、ダラケた演技、メリハリの悪さ、という印象を受けました。上に書いたような「客席と舞台の接近」のコンセプトを仮定すれば理解できるのかもしれませんが、舞台上の役者が、「本当に」笑っているような空気は、見ていてあまり気持ちよくないものでした。
 「きまずさ」の空気の表現は良かったし、後半でのいくつかの台詞が突き刺さる感じがあったのですが、緊張感を取り戻すところまで達してなかったように思います。アオイの「二股って悪いことですか?相手のための嘘は悪いことですか?」や「ツンデレとか、楽ですよね、キャラ付けするのとか」といった台詞も、単に乱暴な攻撃に終わってしまった印象があります。もっと思い切った演技・演出の変化があってもよかったのではないか、というのは個人的な意見。
 最初の舞台美術への驚きが大きかった分、終わり方は拍子抜けしてしまったように感じていました。もう一つ何かあればなぁ……と見終わった後の物足りなさがありました。
 また、暗転時の間の悪さも目立ちました。それも日常の演出、と言われてしまうのかもしれませんが、他の選択はなかったのかと。

 一方で、ラストでハルカと天使が抱き合うところは、一つの美しいシーンとして強く印象に残っています。去年の「FUNKY SISTER BABYS」での投げ捨てられたお金を拾うシーン、また「冬に歌う、夏のほにゃらら」での桜吹雪の中でのバルサザーのシーン。マーキュリーの舞台の魅力は、あるワンシーンの「突破力」にある、と僕は以前に書きましたが、それを引き継ぐと感じる印象的なものでした。
 また、「御伽草子」へのオマージュ。それから「だって、言葉は書くと終わっちゃうじゃないですか。言葉って、もっとすごいはずじゃないですか!」という台詞もお気に入りでした。

 冒頭の『けいおん!!』の楽曲からの歌詞や、天使が舞台と客席を媒介する存在である、という考えは、同人誌『セカンド・アフター』の中のてらまっとさんの記事「ツインテールの天使 ―キャラクター・救済・アレゴリー」にインスパイアされたものです。
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