OM−2『日韓アートリレー2012 『希望』感想

 コンテンポラリー・ダンスの舞台。ダンスと言うには様々な小道具が使われ、四つの区切りがあるので演劇的でもある。舞台は中心が開いており、壁沿いに大量の本が散らばり、またバスタブとトイレが無造作に置かれている。登場するのは8人。4人は舞台の周囲を本を踏みながら周り続け、4人は中心で一人づつ順番にそれぞれのパフォーマンスを行い、そして周囲の四人へと合流する。

●一人目
 まず新聞を読むシークエンスから始まる。中央でパフォーマンスをする四人が順番に登場し、新聞を手に様々な仕草をする。特徴的なのは、新聞を顔に貼り付けて、仮面―あるいはデスマスクを取るような仕草。新聞を顔にまとう、という行為の意味を考えさせられる。
 ゆっくり、ゆっくりと大きくなる音楽。全編を通して、照明と音楽によってこちらの生理的な時間がコントロールされているように感じた。
 同じような動作が何度も反復される。場合によっては眠くなりそうなゆっくりした進行だが、舞台の緊張感が保たれ、時間間隔を同期させられて集中が続く。
 新聞を読んでいた一人が次第に逸脱していき、他の三人は倒れ、一人がパフォーマンスを始める。


 <ノートより>
 ・ここでは床を叩くことが暴力となる。
 ・ここでは騒音は禁じられている
 ・ここではコミュニケーションは禁じられている。
 ・意味の取れないささやき 愛とも怒りともとれるセリフ。
 ・身体の中の何かを外へと押し出し仕草。そこで座り込む様子はむしろ絶望を思う。


 中央でのパフォーマンスが終わると、周囲へとフォーカスが切り替わる。超スローモーションの中で、本を踏んで歩く四人。本は言葉の集積であり、そしてこの舞台には言葉がない。超スローモーションにすることで、四人のシーンを一気に見せる、という面白さがあるように感じた。舞台をぐるぐる見渡すように、目を動かしていく。4人分のスピードを束ねたら、もしかすると通常の速度になるのかもしれない。
 ストロボがたかれ、ヒステリックに本を叩きつける周囲の人物。ヒステリーとは暴力なのか、それともその身体の動きは舞踊の一つなのか。ある者は便器を殴りつけ、ある者は床に本を叩きつける。周囲の人物のうちの一人、女性だけはヒステリーに陥らない。僕は「ヒステリー」が最初女性に特有の病であること、それが子宮の病気とされていたということを思い出す。


●二人目
 最初のパフォーマンスを行った女は周囲へと移動した。中央の3人は再び新聞のシークエンスに戻り、同様に二人が眠り、一人がパフォーマンスを始める。女の一人は新聞を読むのをやめて歌いだす。悲しいメロディーが流れ、マッチがすられる。まるですすり泣きか、叫び声にも聞こえる悲しい声、しかし、機械的なメロディーが長く続いたからか、人間的なメロディーに強いカタルシスを抱く。周囲と中心、二つの舞台は音楽によって連続している。歌からノイズへの切り替えは、ものすごい快から不快へ叩き落されるようで辛い。
 一人目が身体的なヒステリーの表現なら、二人目は声によるヒステリー。


 <ノートより>
 ・その表現はあまりに直接的すぎないか、むき出し過ぎないか、という想いがある。
 ・それを包み、他者を傷つけつつも受け入れられる形に加工するのが芸術であると考えるから。


 同様のシークエンスで、周囲の四人……今は5人が舞台の周囲を回り始める。「巡る」ということがこちらのテーマのように思えるけれど、女だけはもとの位置に留まっている。男の一人は本を自らの身体にテープで止めていく。これは本を「読む」ことのメタファーなのだろうか?本は読まれない。本来の用途では用いられない。女は本を集め、そしてまた床に落とす。砂をすくっては落として山を作る何かの儀式を思わせる。しかし、それを繰り返すうちに、次第に舞台は散らかっていく。エントロピーの増大。


●三人目
 再び新聞のシークエンスから、三人目のパフォーマンスへ。運んでいる木箱は遺骨のように思える。これまでで一番「演劇」の要素が強く感じられる。箱を開くと、その中には小麦粉が。今回のヒステリーは声もなく、静かに表現される。声が無い方が余計に暴力的なものが感じられるのが不思議だ。
 女は身体に小麦粉を塗りたくる。最初は精液のメタファーなのかと思うが、すぐにその考えは消える。そう言うには粉は乾いている。それはまさに遺骨の灰なのかもいしれない。おそらくは老人の。灰を被ると女は白髪の老女になったようで、それは玉手箱を思わせる。
 灰が当たりに撒き散らされ始めて、僕はこのパフォーマンス最初から感じていた思いを強める。
 それは、この舞台が「震災」を描いているというもの。 


●震災
 本が散らばっていた舞台は暗示だった。震災の日、部屋に戻った僕を迎えたのが壊れた本棚と床に散らばった本。中心と周囲は、被災地と東京を思わせる。被災地での嘆き、そしてそこから居なくなること。小さな子どもを抱えて、西へ、あるいは海外へと移っていった知人のことを思い出す。それはみんな生まれて間もない子どもを持った母親だった。周囲を巡る東京の人々は、たくさんの本=情報に惑わされ続けている。そして三人目の撒き散らす灰は放射性物質に思える。女は箱をかぶり、床を強く踏み、最後には灰を集めるようにして倒れる。
 エントロピーはかつてなく増える。地震はまだ続いていることを示しているようにも思えた。

 僕はここで、この舞台のタイトルが「希望」であることを思い出した。しかし希望と呼べそうなものはとても見つけられない。テーマからして「嘆き」の方がしっくりきそうだ。女たちの叫びは死の別離のように思える。どうにもならない出来事への、身体的な反応。
 だからこそ、観客は主体的に舞台に介入して、どうにか希望を見出したい、という気持ちにさせられる。それはどこにあるのか?

●四人目
 最後の一人はあたりを見回す。もう彼女のほかに誰も残されていない。そうした中では、新聞を読むという行為も変わってしまう。情報の交換というよりは、時間を進めること、日めくりのカレンダーを進めるように……
 彼女はこれまでに比べて動きが緩やか。悲しみを抱えているようも見える。どのようにして希望を見出すのか。投げつけようとして踏みとどまる動き。怒りや嘆きは内面化されていく。身体から何かをこそげ落とそうとする仕草は、再び放射性物質という穢れをはらおうとしている様子に思える。
 衣服―ストッキングの内側に丸めた新聞紙を入れる。それは胎児のようにも見える。破かれたストッキングはへその緒。自らの口をくわえて、言葉を奪われる。叫び声は赤子のようにも聞こえる。歌いながら、丸めた新聞紙はしかし落としてしまう。

 演出家の方はアフタートークで「資本主義による社会の不条理」という話をしていたけれど、僕は逆に震災にこだわりたい。大体「資本主義」などというシンプルな概念はまだ存在するのだろうか?この複雑な何かを、資本主義という言葉一言で片付けていいのだろうか?
 演出家は韓国の方だった。僕は韓国を旅したときのことを思い出していた。ギャラリーの並ぶ街角で、牛の気ぐるみを着た学生が反FTAのキャンペーンをしていた。反グローバリズムのポスターも見かけたし、友人に紹介された活動家とも話をした。日本と異なり、独裁政権との対立の中で学生や草の根の運動が大きな役割を果たしたことが強く影響しているのだと聞いた。けれど、それは現在の日本の感覚とはあまりそぐわない。そのことを、「最近の若者は戦わなくなった」という言葉で片付けることはするべきではないと感じる。何かが変化したのだと思う。「若者」というあいまいな概念をひと束ねにすることは出来ない。
 逆に、震災の経験の中にも、そうした社会の不条理と共通するものがある、と考えたくて、僕はそれにこだわりたくなったのだと思う。あるいはその逆で、社会の不条理が震災に接近するものを持っている。それだけでなく、多くのことに共通の何か。

 嘆きと苦しみ、そして中央の人々が周囲へと移動するのは「機械に変わること」なのだという。心の中の苦しみ、それに負けたとき、諦念に支配され、絶望に見たされ機械になるのだと。そうだとしたら、この舞台は、絶望という外枠をひたすら描くことによって、捉えられない希望を彫刻するようなものだったのだろうか。
 僕は逆に、そうした諦念に駆られた人、周囲をめぐり続ける人の中に希望を見ていた気がする。それは、日本文学が平安から執拗に描いてきた「積極的な諦念」のようなもの。 

 そうすると、こんな言葉が胸に浮かんでくる。
 「希望なんて、遥かな昔からずっと無かったし、ずっとあったのではないだろうか?」