劇団綺畸2011年度新人公演 Show on the Run 感想

 ブラックホールに愛が吸い込まれる…
 笑いあり涙ありの本格ハードボイルドSFアクションスペクタクルラブロマンス
 哲学と社会問題と消えた年金問題に切り込んだ衝撃の話題作
 "これは演劇版ブレードランナーだ!" (パンフレットより)

 劇団西田組の劇中劇「アンドロメダ星雲でつかまえて」のリハーサル風景から劇ははじまる。主演の二人はケンカをはじめ、出演予定の役者たちの大半がカキに当たって病院に運ばれ、脚本家西田の最後の舞台だというのに、劇は暗礁に乗り上げる。舞台担当の高杉が「劇は中止だ」と言う中、西田は脚本を今居るメンバーで演じられるように書き直すことを決意。ハッピーエンドのキスシーンにこだわる西田、その理由はどうやら職場の後輩、安田にあるらしい……主演の流星が自殺未遂をし、借金取りまでが乱入し、当日の舞台は荒れに荒れるが、どうにか劇は終わり、様々な問題も収まった。ふっきれた西田は、もう一度脚本を書こうと晴れやかな顔で告げた。

 まず一番書いておきたいこと、それは終演間近の1シーンにある。脚本化の西田が、様々な困難や別れの後で、「もう一度脚本を書きたい」と告げたあと、舞台担当の高杉が彼女に背を向けたまま、フッ、と微笑むその瞬間。僕はその微笑みだけでも、この劇を見た価値があったと感じた、そんな素敵な一瞬でした。

 古いタイプの演劇だと思います。13年ほど前に高校の演劇部で客演し、他の劇を見に行っていた僕としては、むしろこうした劇こそが「演劇」であって、これまで駒場で上演された劇は、特に笑いやオープニングのダンスを取り入れたりする点が、劇よりも「コント」やテレビ番組に近いものであるように感じられていました。その分、この舞台は非常に懐かしく思えました。

 今回は劇の時系列に沿って書いていきたいと思います。
 最初は突然演劇のリハーサルから始まる。一瞬映画の撮影か?とも感じたので分かりやすかったほうがよかったかな。
 何しろ役者陣の演技が堂に入ってることに驚かされます。新人……?最初は、誰が物語の主役なのか分からないまま話が進んでいくため、西田という脚本家にうまくフォーカスできなかった感じ。
 劇団そのもの、また劇中劇や舞台裏を描く「劇についての劇」つまりは「メタ演劇」で、早速演劇論が繰り広げられます。

 劇団綺畸の伝統なのでしょうか、非常に安定していて、分かりやすい台詞・演出だと感じます。特に台詞がすごくすっきりしている。要領を得ていて、伝わりやすくて、人物にマッチし、なおかつ舞台の上で映える。褒めすぎかな……小説を書く自分には中々出来そうにないと感じてうらやましくもなります。台詞と役者がよくなじんでいる、ということも感じました。それが劇の流れをスムーズにして、自然なリズムを生んでいるんだな、ということも。

 「やっぱり、ラストシーンを変えない?」と提案する工藤。彼女のわがままに従い、舞台の柱を取り外すよう高杉に頼み込む西田。けれど彼女はラストのキスシーンだけは決して変更を許そうとはしません。劇団の中の不和が見え、不安が漂う中でも、こうした西田の芯の通った強さが不思議な安心感を与えてくれます。
 僕が非常に居心地よく感じたのは、舞台全編を通して、「優しさ」が失われず、人間への信頼感が強く表れていると感じた部分でした。もしかすると、この劇を「古いタイプ」と感じさせるもう一つはそうした部分なのかもしれません。古い映画に描かれているような、まだ現代のような複雑な問題が覆いかぶさっていないころの視点。駒場の舞台で、何度もカウンセラーや精神的な問題を抱えたキャラクターが登場していたこと、絶望的な人と人の断絶が描かれているものが多いように感じていました。実際、現実はそうした世界になっているように思うし、やはりこの劇は古くて、楽観的に思えるかもしれませんが、それでも僕はその優しい視点が好きなのだと思います。最初に挙げた高杉の微笑みは、皮肉を乗り越える何かを持っていたように感じます。自分自身が書こうとしている児童文学の視点にも通じる部分があるからかもしれません。

 もちろん、優しさを失わないことと、苦悩や絶望を描くことは矛盾はしないとも考えます。

 カキに当たって役者たちは病院へ。劇を中止にするかどうかをめぐって、究極の演劇論が交わされます。制作の松本(だっけ?)の「テーマや芸術性は二の次だ。幕が上がって下りればそれでいいんだ!」それに対して、高杉の「そんなのはプロじゃない!」という反発。
 古くは『ファウスト』の冒頭の詩人と道化と座長のやりとり。最近読んだものではスピヴァクの「人文学はケーキの上のサクランボではありません」という言葉を思い出します。または手塚治虫の「テーマはさりげなくシノプシス(物語の筋)は丁寧に」という言葉。
 演劇は単なる娯楽であるべきなのか?西田へ投げられた「なぜ台本を書く?」という問いに彼女は「お客さんに笑ってもらうのが一番です」と答えます。しかし、その彼女にも、安田への複雑な想いを脚本に託していたという背景があります。
 「本当に劇をやりたいかどうかわからなくなってしまって……」という彼女の台詞は、演劇に限らず、多くの創作に関わる人が抱く問いでしょう。
 
 本作では、様々な演劇に対する姿勢が、互いに衝突するのではなく、あちこちでずらしながら語られていきます。
 西田が結局「シンデレラ」へと脚本を書き換えること。
 裏方二人の会話の雰囲気も好きでした。「劇ってplayって言うでしょう?」「真剣に遊べばいいじゃない」
 ここでもまた別の演劇感が語られます。緊張した言い争いから、今度は弛緩。そうしたシーンのバランスが良かった。
 シーンの流れ・配置がよくて、また全体も起承転結(あるいは序破急)がはっきりしていたように思います。逆に「分かり安過ぎる」という面もあるのかもしれませんが。
 西田の演劇にかける思いは、安田の結婚への祝福の言葉とも重なり、印象的に刻まれます。そして冒頭でもふれたとおり、高杉の微笑みが、映画のラストシーンのように描かれます。まるでカメラがクロース・アップするみたいに、彼のその表情にひきつけられたことを覚えています。

 舞台美術は前回の「吐水密室」に続き、複雑に区切られた構成で面白かったです。照明も、劇中劇というシチュエーションがあったからかもしれませんが、スポットやストロボの演出を含めて目立ってました。演出は書いた通り、特にシーンの配置が素晴らしかったです。繰り返すようですが、役者のみなさんの演技が素晴らしかった。

 一言付け加えるとしたら、そうした古いスタイル、序破急を備えた分かりやすいスタイルの中で、どれだけ新しさを出していけるか、という点だと思います。前作の「吐水密室」に大して「よい意味で期待を裏切ってもくれない」舞台と書いたのもそうした気持ちからでした。しかし、劇団綺畸の魅力は単純な「新しさ」ではなく、そうした確実なスタイルをさらにさらに洗練させていくことなのかもしれません。偉そうで申し訳ないですが、次回公演も期待を膨らませています。