劇団ふつつかもの 第二回公演『死してなお』 感想


 ミスマッチのスターウォーズのBGMが鳴る中、木棺を運ぶシーンから劇は始まる。亡くなった父の葬儀のために、久しぶりに集まった四人の家族。妻と二人の息子、一人の娘。今はバラバラに暮らしている家族だが、次第にそうなった原因、父の暴力について語られ始める。手伝いに来た次男の友人が気まずい思いをしているところに、故人の知り合いだという酒井が現れ、通夜にはおかしな空気が漂い始める。酒井の語る、家族の知らなかった父の一面、しかしそこにはおかしな点もあって……?長男の一雄が、家族への暴力を小説として描いたことを責める母。父の死は家族を元に戻すことはなく、むしろ決定的にすれ違ってしまったことを明らかにする。火葬場で煙を見つめつつ、二度と戻らないが、しかし切れずにいる血のつながりの絆を描き出して幕。

 まずは舞台美術の素晴らしさ。これは文句の言いようが無い。狭い空間に絶妙なバランスでくみ上げられた和室。石を敷き詰めた庭も、劇の展開には不可欠なもので、まずこの舞台の設計がなければ脚本が成り立たなかったと予想出来ます。細かいところを挙げるとキリが無いけれど、柱や床の木材の質感や、地下なのに石の庭がある意外な感じ。それが照明によっても良い雰囲気を出している。

 劇団の方が、「細かい表情や仕草に気を配りました」とどこかで書いてらっしゃったと思うのですが、それは劇を見ているときからビシビシと感じていました。舞台と客席の距離が近い、ということもあると思いますが、これほどまでに表情や仕草が語る演劇は初めてでした。台詞の間の取り方も素晴らしく、舞台の緊張感の高まりにあわせて、客席側も息を呑んだり、ため息をついたり、ということを一緒にしていたように思います。
 
●母・一雄

 登場人物それぞれの描き方がとても好きです。全員の良い面、そして悪い面が過不足なく描かれていると感じました。母親は子どもたちを「見殺しにした」として、一雄から恨まれる悪役のですが、一方で次郎とはまだ関係を築いており、怒りよりは哀れさのような感情を抱かせます。ラストの「一雄、わたしは許してないんだからね」という台詞も、拒絶というよりもむしろ歩み寄りを感じました。演技には本当に魅せられました。序盤の空気作りもそうでしたが、「お母さんはちゃんと自分の役割をやってたじゃない!」と叫ぶシーン、また一雄と対立したときの場の緊張感作りは圧巻でした。それでもどうしても憎みきれないラストの様子も。
 
 一雄は父親の暴力に耐え、小説によって「一矢を報いた」その点だけを見れば正当な主役に思えます。母親を拒絶し、自分を押し殺しても弟と妹を守ってきたことも。その一方で次郎からは「子どもじゃないんだから、みんなともっと話したほうがいいよ」その友人安田からも「とっつきにくくなった」と批判も受けています。作家としてデビューは果たしても、その生活もどうも安定はしていない様子。一雄はおそらく、次郎に指摘されたようなことは分かっているのだろうと感じました。話そうとしないのではなく、もはや母親と話しても無駄なのだと諦めているように。
 そうした強さの一方で、一雄は苦悩や孤独を、もう引き返せないほどに背負いこんでいて、それゆえの哀しさを見せています。
 家族を描いた自分の小説に対し、母親が「昔のことを掘り返さなくてもいいじゃない!」と叫び、一雄は彼女を完全に拒絶して、「だめなんだよ。もう、分からないんだよ。こんな人なんだよ」と誰にともなくつぶやきます。彼はお茶を机にこぼして、その水を指でなぞり、何かを机に書き付けるようにします。
 この舞台で最も強く印象に残ったシーンでした。「覆水盆に返らず」ということわざも思い出しますが、一雄が抱いている、言葉にできないような複雑な感情、表現しきれない感情が伝わってくるようでした。ほとんど爆発しそうな気持ちが、身体から噴出してくるようにも見えました。架空のキャラクターでありながら、その父親が暴力で発散していた強烈な感情を自分の中に押さえつけ、それを水で文字を書く、という行為に替えていたようにも見えました。だからあのシーンは、実際に殴りつけるよりもより暴力的にさえ見えました。演出、演技、他の役者と共に作り出す緊張感ともに脱帽。

●次郎・由紀子・安田

 次郎は家族の中をうまく取り持っているように見えます。母親とも話し、兄も強く慕っている。しかし同時に優柔不断で、結局決定権を持たないあいまいな立場にいるようにも見えます。周りに合わせて流されてしまう弱さ。実際は一雄のことをよく分かっていないのに、彼に「子どもじゃないんだから」と言ってしまうこともそうでしょう。彼は一雄のように強く怒ることも出来ず、由紀子が妊娠していることを知っても、一雄のように強く出ることも出来ませんでした。それでもはやり、彼が居るからこそ一雄が救われている部分もある、ということも見えます。

 由紀子も葬儀を取り仕切るしっかり者という面と、恋人と別れて、子どもを自分ひとりで育てようとしているのですが、そのことを楽観する危うさという矛盾する面を持ち合わせるキャラクターです。まず脚本、台詞から、彼女が母親のような思い込みの気質、さらに酒にひどく酔うという父親に似た面が描かれていること、そしてその役を見事に演じた役者さんに拍手を贈りたいです。次郎に子どもがいることを告白するシーンが、終盤の一つのハイライトになっていました。ピンポン球を投げあうのも、二人の近いような遠いような微妙な距離を表しているようで面白い。「お酒に酔ってやっちゃってさぁ」「自分で幼稚園の送り迎えしてね」という台詞からは、彼女の甘さが垣間見え、また酒によって暴力を振るった父親のようになる未来も案じさせます。
 けれど、そこでの「親が二人いるからもめるんだよ。一人の方がいいんだ」という台詞は、生活についてを脇に置けば、常識をぐらつかせる強い力があるようにも感じました。演劇のすごさというのは、こうした一つの台詞を劇の流れの中で強烈に印象に残す力もあると思います。

 次郎と由紀子の庭での会話も良かったです。石畳の石を足でジャリ、ジャリ、と蹴る音も、また会話や仕草だけでは伝わらない複雑な感情を代弁していたように思えました。

 友人の安田は、と言えば、全編に漂う「気まずさ」を表現するキャラクターで、観客の抱く居心地の悪さを代弁してくれています。(なんで俺ここにいるんだろうなー)という心の声が始終聞こえてくるようでした。それだけでなく、ひとごとのように次郎とはしゃぎ、「小説、読みましたよぉ」また「通夜の日だから、何が起きてもおかしくないよ」と不謹慎な好奇心ものぞかせています。無理に深く取るなら、こうした安田の姿勢は、他人の葬式を盗み見ているような観客のいやらしい好奇心も引き受けていたようで、「いらないことを言う奴だな」と思いつつも、それが自分に跳ね返ってくるような苦い気持ちも抱かされました。

●酒井

 さて、問題のキャラクターである酒井さん。彼という存在の解釈によって、この劇はちょっと印象が変わるようにも思います。
 部屋に戻ってから、一緒に見ていた友人といろいろ話す内に出てきたのが、「酒井さん詐欺師説」
 もともと酒井さんは、太極拳の会に顔を出しては、老人の友人を作り、誰かが死ぬとその葬式に顔を出して、10万円をせしめていく、という説です。最初の方のどこかで、「あの人、葬式に出るといつも悪口ばかり言ってるんですよ」という台詞がありましたが、これは彼が付近でよく葬式に出席していることを示しています。「あなたが由紀子さん、あなたが次郎さん」と間違えないように執拗に確認をすること。また遺品の箱をめざとく見つけると、すばやくそれを物色するシーンがありました。ライトセイバーの逸話なんかは、彼が勝手に作り出したものかもしれません。また、彼の語る故人の像と、家族のそれとがあまりにかけ離れていることもあります。実際はそれほど親しい仲ではなかったのかもしれません。10万円、という絶妙な金額、香典が集まっている葬式、故人は証明することが出来ない、出された食べ物やお酒をどんどん飲みまくる姿……と色々つじつまが合うように思います。推測だけどね。

 しかし、同時に感じていたのは、酒井さんが「悲しみたい、しかし素直には悲しめない」という家族の思いの具現化したものではないか、ということ。劇では、完全に途切れてしまったようで、残骸の形でまだ残っている家族の絆が描かれています。張本人である父親に対しても、一番の犠牲者となっていた一雄でさえ、僅かながらに見送りたいという気持ちがあったように思います。弟と妹は、自分が守ってもらっていた手前、一雄の前ではそうした気持ちを見せることが出来ない。だからこそ、酒井の「謝ってましたよ」という言葉「暴力を振るっていたなんて信じられない」という幻想を、決して信じることは無いにせよ、彼を追い出すことはしなかった。
 こうしてみると、酒井は10万円の変わりに、複雑な感情で悲しむことの出来ない家族の代わりに泣く「悲しみ屋」であるようにも、あるいは家族が作り出した幻想・妖精のようなものにも見えてきます。

 ここまでの文章で分かっていただけると思いますが、僕はこの劇を心から楽しみました。舞台を後にして思わずため息。パンフレットに「自分の家族について考えるきっかけにも」ということが書いてありましたが、その通りに帰り道で、自分の家族についても、また様々な人との関係についても色々と想いを巡らしていました。メッセージをストレートに出すという形でなくても、人に何かを伝えることが出来る、という演劇、芸術の力を見せていただいたように思います。