東大芸術ゼミ:遠足企画『建築散歩』 その② 六本木→新浦安→舞浜

②六本木周辺

 表参道を後にして、六本木までの1キロほどをひたすら歩く。炎天下の中汗をたらしつつ、これだけの大所帯では店にも入れないので、コンビにでおにぎりやらパンやらを買って路上でかじる。「体育会系の芸ゼミ」という冗談がこの間から繰り返されている。後から指摘されたけれど、「六本木へ向かう道にも、面白い建物がたくさんありましたよ」という声も。気をつけてみてみると、いくらでも発見があるのが建築だと感じます。

 遠くに見える森タワー。この建築散歩の直前、森ビルの取締役の方の講義を受ける機会があった。「ランドマークとなる建物があっていいと思うんです。そのエリアを代表するような高い建物。そちらの方に進んでいけばたどり着ける場所」森タワーはまさにそれ。道に迷っても、そちらに向かえば六本木にたどり着ける。「東京の『都市総合力』は比較すると下がってきて、特にアジア諸国に追いつかれそうになっている。高ければいいというものではないけれど、都市の力のシンボルとなるようなビルを建てたい」
 

 現代の東京のビルの立ち並ぶ様子を見ていると、一つそれが増えたところで何か変わるの?という気もする。しかし同時に、森タワーの存在感を見ていると、全く何も変わらないともいえない気がしてくる。前の記事の丹下さんの建築を思い出せば、建築が都市、ひいては活気、経済、人の生き方というところまで影響してくることは頷ける。おそらく、東京タワーが建ったころは、それは単なる電波塔以上のものだったのだろう。

 高速道路に沿って坂道を登ると、巨大な森タワーの足元に到着。

●森タワー

「最上階付近が、実際は一番高く貸し出せます。しかしあえてそこに美術館などの文化施設を置きました」
 単にオフィスと商業施設だけのものにはしない、ということ。その他にも「タウン・マネジメント」つまり、コミュニティを作れる場所づくり、またそれを維持していくことを積極的に行っている。感心したのは、けやき坂コンプレックスの屋上庭園で、田植えを行っていること。都会に住む子供たちにも田植えの経験が出来るように、というもの。他にも、屋上緑化を「クラブ活動」と捉えて、ボランティアというよりも楽しみながら世話していく、というやり方も面白い。ガーデニング・クラブを他のオフィスとの合同にすれば、交流にもなる。そこで友人や恋人が見つかる可能性もありそう。他にも、先日の六本木アートナイト、また秋の映画祭、マルシェ(市場)の開設など、外に向けたイベントもある。

●高層である意味
 高層ビルのせいで風景が見づらくなる?むしろ考え方は逆。付近の中くらいのビルを一つにまとめることで、空が広くなるし、スペースが大きくとれるようになる。さらに、多層構造というのがキーワードらしい。森タワー周辺のデッキ部分がそのモデルで、下を道路が走っているけれど、上には人口足場による歩行者の空間が出来る。こうやって歩行者に優しいスペースを作り、コミュニティ作りに役立つようにする、というのが狙いだそうだ。ここに緑や水を配置できる、という強みもある。

六本木ヒルズレジデンス

 実は今回、この場所を選んだ理由はこちらの方が大きい。ヒルズの少し先にそびえる二つのタワー。地上43階立てのどでかいビル…にも関わらず、僕はこのビルがこれまで「見えていなかった」おそらくそれは僕だけではない。すぐそばにけやき坂コンプレックス=商業施設があって、そちらは連休ということもあって人があふれている。それなのに、少し離れたこちらにはほとんど人がいない。レストランもすいているしベンチもガラガラ。そこが居住者の設備だからだ。ヒルズからほんの50メートル先に作られた閑静な空間。

 どんな人が住んでいるのか?とりあえず家賃は30万から、しかも70万、90万の部屋も沢山ある。貯金の無い30歳は夢にも見ないような場所。それでもなぜここが気になるかというと、「ライフスタイル」という点からだった。僕が小さい頃までは、「夢のマイホーム」という言葉が、そろそろ死にかけてはいたけれどまだ聞こえていた。都会に出てきた、あるいは親元から自立して働き、結婚して、一戸建てを構える。それがある種の「ゴール」であり、目指すべき生活だったと思う。上京してきた人たちにはとくに。それは作られたイメージだと指摘が出来るのかもしれない。

 それが僕の世代から変わってきた。集合住宅で生まれて育った人は、一戸建てを持つことにこだわらなかったり、むしろ集合住宅のコミュニティの良さを感じているようだし、「マイホーム」という言葉はレトロな響きを帯びる。バブルの頃は「マンションを買う」ことへのフォーカスもあった。今ではむしろ経済状況がそれを許さないというべきか。

 脱線したが、ヒルズレジデンス。僕が提起したのは、今では郊外の「マイホーム」よりも、こうした都市中心部の高層マンションの方が、若者にとってのあこがれのライフスタイル、成功のモデルとなり得るんじゃないか、ということ。

 前半の「建築」というテーマから、ここでは「住居」と「地域」というテーマに移る。上に書いたタウン・マネジメントの話とも結びついて、「僕たちはどんな住居で/どのように暮らしたいか」ということについて話し合った。僕の聞いた限りでは、郊外の一戸建てを選ぶ人はいなかった。このヒルズレジデンスは高級住宅だが、東京の再開発が進み、例えば高層オフィスがコンバージョン(リフォーム)され、住宅になったりもしている。
 もう一つのポイントは「職住近接」ということで、森ビルの人は「それによって自分の余暇に使える時間が増える」ということをおっしゃってたけど、僕が一番最初に思ったのは男性の家事や育児への参加。ジェンダー論とも関わり、住居そのものだけでなく、その場所もライフスタイルに大きな影響を与える。

(「二つのタワーの間で、六本木版『ロミオとジュリエット』がおこるんじゃない?なんて話してたね」「どっちかって言うと『ウエストサイド物語』じゃないの?」「ナイフで戦うよりゲームとかのバトルって気がする」「AR使ってヒルズでサバゲーとか胸熱!」「誰かが『最後にヒルズの社長が出てきて、「今後一切の争いを禁じる」って言うんでしょ?』と発言したのにみんな爆笑してたな」)


●グランドデザイン
 六本木ヒルズは、まだまだ様々な都市計画のビジョンを考えているらしい。しかし大規模な開発は20年、30年という大きなスパンを必要する。僕が思うのは、それだけの未来にも通用するようなビジョンを、現在でどう描くか、ということ。今の30年前といえば1980年代。どう考えても現状が予測できたとは思えない。

●地域社会ー小国家
 六本木ヒルズに暮らしていると、他の街に出かける必要性が全く無いように感じられてくる。仕事場と住居はもとより、文化設備、買い物、映画館、美術館、友達がいて、集まれる場所があって、最先端の情報が飛び込んでくる。想像したのはギリシャのポリスのような「都市国家」奴隷はいないがテクノロジーと電気がある。こちらから行かなくても、外から面白い人がやってくる。
 けれど、他の衛星都市はなかなかそういう風にはなっていないという気がする。それなりの昨日はあるのに、なぜか東京、渋谷や六本木が文化の中心、一極集中という思いを抱かされる。他の都市はそうはならないのか?開発が進んでいる例えば越谷レイクタウンの例が出たりもした。
 
 日本はもっと、こうした「都市国家」が点在するような国にならないのだろうか?ヨーロッパ、特にドイツは日本よりはずっと分散しているだろう。
 面白かった意見は、「六本木にはテレビ局がある」という話。テレビ朝日がどうこうというのではなく、「中心地」となりうる条件の一つに文化・情報を「発信」する機能が重要だ、という意見。「攻殻機動隊」の世界では、企業が現在の国家の役割を果たしていたけれど、あるいはメディアの発信地がその役割を担う、という想像を膨らませていた。

 そこまでいかなくても、ここで生まれて育った人たちが持つだろう帰属意識のことも話した。大学に入学した際だけでなく、会って間もない人に「出身どこ?」と聞くことがあるけれど、その答えが「東京」でなく「六本木」という答えになる可能性。「六本木人」と言えるような、特定の帰属意識が育つことは十分に考えられる。コミュニティの力?自分は出身したエリア=いわゆるベッドタウンへの帰属意識は限りなく薄いと思う。①東京の他のエリアとかなり違う生活があること ②小規模で、高所得者層によるコミュニティ、さらにタウンマネジメントによりそれが強められる。
 「他とは違う」ということが帰属意識に必要なのかもしれない。どこまで行っても同じ風景が広がるようになったことと、地域への帰属意識の低下は関係するのだろうか。


(「ヒルズレジデンスの裏側にあるその名も『ロボロボ公園』というところでおしゃべり」「メンバー数人が子供にまじって滑り台を滑って苦笑したりね」「ロボット柄のトーテムポールがあって、それを上ってるおじさんがいたんだけど、『あれこそ肉体の建築だ!』という声に笑いが起きる」「あと、『あのトーテムを上まで昇るのが成人の通過儀礼で…』って話もあったね」「これも笑いが起きたけど、通過儀礼って意外と重要な問題だよね。コミュニティって考えでは特に」「上に書いた田植えなんか、それになり得るんじゃない?」「タウンマネジメントにはぜひ通過儀礼の創設も頼みたい」「そりゃお前、森タワーからバンジージャンプだろ」「さすがに怖すぎる!」)

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③新浦安

 地下鉄に乗って、本日最後のスポットである新浦安へ。途中窓からは新木場や葛西臨海公園の建築もチラチラと見える。千葉県に入るのだけど、実はかなり近く、乗り換え含め30分強で到着。ここを訪れた目的は、独立行政法人都市再生機構(ur都市機構)による計画都市を見ること。建築から都市へ、という流れを作るためだった。
 住宅のエリアを見て回ったので、写真は無いけれど、Googleマップで駅周辺を見ると、ur都市機構が進める沢山の住宅、それだけでなく、計画的に作られた様々なエリアが目に入る。あるエリアは、屋根や壁の色をある程度統一させ、さらに電柱・電線を無くしている。ここを訪れた参加者の感じる印象が様々で面白い。「画一化されているようで不自由」という意見に対して「それならヨーロッパの色の決まった町並みは?」と返せる。逆に言えば、日本の町並みを「統一感が無くて違和感がある」という意見は当然あるはずだ。建築学を学ぶ参加者の「車に負けたね」という意見には納得した。緑が多く、レンガ敷きの道路、静かな空間なのに、車が排除されていない。「エリアの外に隣接するように駐車場を作ることも出来た」という意見。また、六本木と比べると「無駄なスペースが少ない」「小さな、たまり場になるような店があったらいいのに」などの意見が出て、住居から周囲の環境というところへ意識が広がっていく。理想のコミュニティのあり方について様々なアイディアが出た。

 近くの大学へ向かい、グラウンドのそばに腰掛けて、とりあえず予定の行程は終了。ここまでをふまえていろいろと話をする。ここでの会話は、なかなかの名議論だった。一応録音したのでテープ起こしが出来ればとは思うのだが…ちょっと面倒。

 一番の争点だったのは、「建築と周囲の環境」の話。まず隈先生の「負ける建築」への批判から話が始まる。周囲の環境に溶かし込む、という建築の思想は理解できるが、そこから本当に良いものが出来ているのか?そこにこだわりすぎて、個性の発露が妨げられてしまわないか?というもの。理念が想像力に先立ってしまわないか、というのは建築に限らず他の芸術にも言えることだろう。例えばoneビルのカラマツの板のルーバー(薄い板を並べたもの)。「木を用いる」という理念が先立ってしまっていないか。ここには「木を使ってさえいれば自然に見える」という単純な意識も働いている。思想の背景には工業化や公害、環境への影響からの反省があるけれど、それが建築家の想像力と競合しないか、という意見。これは単に「面白いものが出来なくなる」というだけでなく、引いては人間の夢だったり、進歩へのあこがれだったり、そうしたエネルギーの表現を弱める、という方向に働くのでは、という印象もある。周囲の環境や社会を必ずしも読み込む必要は無く、建築をもっと低い位置まで引き下ろして、ファッションのように建築について語れないだろうか?建築は僕たちの最も身近なところにあるものなのに、そうした思想が先立つせいで遠く感じさせてしまうのではないか?

 それに対して、「最も身近なものであるからこそ、社会を読み込むべきだ」という意見が出る。例えば、ある芸術作品は、ただ作ってそれで終わりかといえばそうでなく、それを見る人に、未来に影響を与え続ける。そうした責任を負うということを考えて作品を作るべきなのではないか。建築物はその場所から移動できない。あるいくつかの建築が、その場所に住む人、訪れる人に影響していく。コミュニティの話ならなおさらそうなる。
 吉祥寺の楳図かずお邸についての訴訟の話も出た(ちなみにこちらのお宅は、実際は周囲の景観にかなり配慮したものだそう)付近の景観を乱す建築の是非は?商業設備なら良くて住宅は良くない?それではどこまでコード化するべきか。家の壁や屋根の色は自由ではいけない?「ご近所」と呼べる数件の範囲から、地域と呼べる数十件の範囲まで。景観とコミュニティへの帰属意識の関係などについて様々な意見が出る。

 もう一つ、これは下見に来たときに話していたことだけど、こうした計画都市は、六本木のように「中心」になりえるか?というもの。逆に言えば、六本木や渋谷の何が、人を引き付けているのか、ということ。商業施設か、文化施設か、それとも冒頭に書いたような「先進」「高級」なのか。僕の暮らしていたニュータウンの町にもパルコがあったのに、そこではみんな買い物をせず、より都市のパルコへ向かう。新浦安にはダイエーイトーヨーカドーがあるが、スペースを考えれば表参道ヒルズのような町並みも作れたはずだ。それでは情報か、イベントか。「洗練された人々」か。
 「文化」ということを考えたとき、僕たちは「大学という場所がもっと開かれて、また大きな役割を果たせないだろうか?」ということを話していた。自分たちの芸術ゼミという場所が、様々な大学生や、それ以外の芸術家の集まる場所として機能し始めている。「たまり場」のような役割をし始めているからこそ、そうしたことを感じたのかもしれない。もちろん芸術の発信もそうだ。音楽・美術・映画……さまざまな芸術は、各地での動きが沢山ある。有名なのは札幌だけど、そうした「シーンを作る」力が東京から離れた地域で生まれるためにはどんな条件が必要なのか。そんな話も出た。


(「知らない街並みを人と歩くのは面白いよね。そこでどんな暮らしがあるのか考える。観光地よりもこういう場所に想像力を刺激される」「やっぱりみんな自分の育った街の印象ってのは強いみたいだよね」「たまり場ってどうやって出来るんだろ?」「海岸はやっぱりよい、という話も出てたな」)

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④ボーナスステージ:ディズニーリゾート

 まさか芸術ゼミでディズニーランドに来るとは!しかも、なんと……入園してない。イクスピアリとディズニーホテルに作られている空間を見て回る。さすがと言うべきか、あちこちに工夫が見える。表参道に少し書いたが、「街路」を出現させているところは見事だった。空が見える場所、突然ヨーロッパのレンガ道が切り取られたような道が現れる。街頭やバルコニーだけでなく、周囲の店の看板もそれに合わせてデザインされている。効果的なのはディズニーの様々な世界観で、例えば貝殻のモチーフを使うだけで「リトル・マーメイドだ」と連想させる。

 それらはもはや「児童文学」という僕の領域に踏み込んでくる。小さい子どものときに、白雪姫を、くまのプーさんを、ミッキーマウスというキャラクターを、神話のように与えられる。だから、この場所は神殿になるのである、というような話をしていた。ディズニーホテルの門の前には、ウォルト・ディズニーがどこかの庭でミッキーの手を取っている絵が、頭上の壁画として描かれている。それは、実際かなり創造主とアダムを思わせる。他にも様々な絵画があるが、そのどれもが19世紀以前の伝統的な技法に似せて書かれている。ホテルの吹き抜けの豪華さにも驚くことになるが、これなんかもシンメトリー、垂直性、などの建築の概念で説明できる気がする。面白かった意見は、「ディズニーランドが昼の世界だから、このホテルは全部夜なんだ」ホテルの中に描かれている絵は、ピーターパンの夜の飛翔に始まり、全て夜のシーンを描いたもの。細かいところでは、ディズニー・キャラクターが星座となっている絵も飾られていた。天井のステンドグラスは、普通は外の光を取り入れるためのものであるはずなのに、ここではバックライトが点けられている。

 中庭に出てみると、ミッキーマウス銅像となっている。アニメーションの扁平さはなく、絵画を含め伝統を、歴史のようなものを感じさせる。先学期の表象文化論での「アメリカでは伝統が無いからこそ中世イメージの再生産を行い自らのアイデンティティとしてきた」という話を思い出す。そういえば、ディズニー作品にもアーサー王伝説があった。
 『ディズニーランドの神話学』という本が出ているそうだが、この場所は建築に限らず、様々な芸術と関連する見方が出来る。例えば参加者の一人が教えてくれたが、ここでは園内を「オンステージ」スタッフたちの居る場所を「バックステージ」スタッフたちを「キャスト」と呼ぶ。園全体が舞台として仮想されている。
 ゲートまでの道のりでは、音楽による演出があり、人に驚きや喜びを与える、という機能は芸術に非常に良く似る。

 
 ここで、冒頭で書いた「神聖さ」「厳かさ」を感じる建築、という視点にも戻れるだろう。そうした空間を演出できる場所、というのはそれほど多くないように思える。この点で考えると、ディズニーランドは「最初から幻想と分かっている」からこそ、寺院や神社以上のオーラを持ちえるのではないか、とも思える。

 また、導線→人の動く方向が決まっているため、建築が正面、つまり二次元的な見え方を優先して作られている、という話も出た。ディズニーホテルは建物を縁取るようにライトが点灯している。普通ならば、下方部などから「ライトアップ」をするところだが、この輪郭をなぞるという方法もコミックや二次元的といえそう。

 今回は内部に入らなかったけれど、それぞれのアトラクションに関しても沢山語れることがあるに違いない。
 
 随分ディズニーランドを持ち上げた気がするけれど、僕はこの施設が完全に善い・正しいものであるかと聞かれれば答えを留保したい。この場所が失わせているイメージが確かにあると考えている。そしてそれは選択できない場合が多い。

(「小学校の頃から来てないからイクスピアリとかディズニーシーとか知らない、って言ったら平成生まれに笑われた(;_;)」「疲れもあったのかみんなすごいテンションだったよね」「中には入らなかったので、『気になるあの子を誘う方法として、「建築の勉強をしに行こう」と言える』なんて話も出てた」「大体舞浜と言えばゼーガペインだろ」「無限ループって怖くね?」)