まれびとハウス:美術教育ドキュメンタリー鑑賞会 + ディスカッション


 次回の東大芸術ゼミで発表して下さる @0bo5 さんのお誘いで参加させていただきました。
 まずはまれびとハウスの素敵なイベントルームに感動。
(「こんなんあったら毎日芸術ゼミじゃないですか〜」と後に言われる。死ぬわ!)

 参加者10人ほどの自己紹介の後、早速ドキュメンタリー映画を見るのかな〜、と思いきや、まずは「アート作品を鑑賞するとき、何に注目しますか?記憶に残りますか?」というクエスチョンから。「kj法」の仲間なのかな?付箋にそれぞれのアイディアを書いて、紙に貼っていく。このとき似たものを近くに配置する。この作業、かなり楽しくて芸術ゼミでも使えないかなー、と参考になりました。
 出てきた意見の塊としては 「作品の背景・時代・作者」また「学芸員のキャプション」など、作品の周囲にまつわる知識が一つ。

 ◇僕の経験だと、シャガール展は事前に本を読んでいくことでかなり楽しめた。シャガールで読んだのは「わが回想」ほとんど詩集と言っていいような自伝。彼の故郷や家族への思いが感じられたのもそうなんですが、面白かったのは「どこ」で書いているのかを知れたこと。初めてパリに来た頃住んでいた「ミツバチアパート」のアトリエの絵があったのだけど、その絵と一緒に彼の友人たちとの愉快な思い出が表れて、絵が動き出すような楽しさがあった。知識を入れると感動が鈍る、というのは必ずしもそうでなく、ある絵の前では衝撃に立ちすくむ、ということも。
 僕は知識というよりも、画家の「人生の物語」を知りたいのだと思う。それが作品本来の価値を過剰に見せたとしても、泣いちゃったときの涙は本物も偽者もないし、そのときの感動が後々に助けてくれるのもよくあること。ただし、逆に「知識をどれだけ入れても感動が鈍らないか」と言えばそれも否定しがたい気もする。今のところは、いい本と悪い本がある、という結論。

 二つ目としては、「作品の素材、手触り」「作り始め、タッチ」これは自分がそれほど意識してなかった点で面白かった。製作者だからこそ感じること?(♪タッチ、タッチ、ここにタッチ! と歌声が響きわたったよ!)
 三つ目は一つ目と重なるけど「コンセプト」や「自分の記憶を刺激されるか」
 他の意見で面白かったのは「一つの作品で完結しているか、それとも関連しているか」ロスコ・ルーム(画家マーク・ロスコの作品が部屋の壁前面に飾られてる部屋)まで行かなくても、そうした意図が展示の方法で様々に表れる。宗教画はもちろん、実はムンクもかなりそうだった。

 そして「言語化」にまつわるもの。これはまた後述。

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 場が暖まったところで映画へ。フランスの高校生が、一年間選択するアート・クラスを追ったもの。想像とはかなり違っていて、国語教育(作品のレポート?)英語教育(英語で作品についてディスカッション)現代社会(芸術から社会を切り取ったり?)など、様々な教科を芸術を題材にして行う、というもの。作品中でも英語の場面、またレポートを返却されながら評価される場面が出ていた。
 ルーブル美術館の中に入るとき、「さあ、ここからは静かにしなければ」と教師が言うところから始まる。実は僕はここが結構気になった。後のディスカッションで、「宗教画のところに来ると、おしゃべりしていた子どもたちが、囁くようになった」という話も出て面白かったけれど、ここでは美術館では静かにするべきというマナーと、芸術という 権威あるもの/神聖なもの 言葉は違えど、一般に溢れているものとは違う何かに対して厳粛にしなければいけない、という礼拝にも似た感覚の二つがありそう。それを打ち破ろうとデュシャンはギャラリーで子どもにボール遊びをさせ、田中敦子はベルを鳴らしまくった。

 美術館の後は「何が最も印象深かったですか?」などの質問が子どもたちに向かって飛ぶ。「教養」という言葉が何度も繰り返されるのが印象的。「教養学部」に在籍している自分。そういえば去年「どうやったらロバさんみたいに教養を身につけられますか?」と聞かれたことがあって面食らった。僕たちにとって「教養」という言葉はあまり自明ではないし、大学の外で「教養あるね」といわれれば、揶揄されてることを意識してしまう。フランスの訳語が分からないけど(ドイツなら『ビルドゥングス』?)そうした概念がちゃんと共有されているのが興味深い。

 授業での捉え方は、結構方向付けされて進んでいく。子どもたち同士のディスカッションも盛んで、作品の解釈に関して時々激しくぶつかる場面もある。しかし、高校生だから当然のことだけど「おそらくこれは……ということじゃないかな?」「多分……を表しているんだよ」という台詞があるのは気になる。ここでは歴史画、宗教画などの「調べればちゃんと分かる」知識について。けれど、それについて憶測で話すことって、本当に意味が無いのか?という問いもある。最近は何でもiPhoneでちゃちゃっ、と調べられるけど。

 関連して、後のディスカッションで話題の中心の一つだった「芸術の鑑賞の教育=どのように見るかを教える」と、「学校教育=芸術の鑑賞を通じて、子どもの様々な能力を育てる」違いも立ち上ってくる。前者なら、例えば子どもたちがディスカッションをしているとき、その内容の良し悪しを見ればよいが、後者なら内容だけでなく、子どもたちの中で何が起こっているか、表現することや心理面、学ぶこと全般にどうつながるか、を見ていくことになる。

 学校のプログラムの最後が、ある絵を選び、それについてのプレゼンテーションをする、というのも後者に絞っていることが伺える。参加者の意見として、「発表を見に来た人たちは、絵ではなく生徒を見ている」というものに頷く。また「善きフランス国民を作るため」の教養教育である、ということにもウンウン。

 参加者数人のお気に入りだったトム。「モナ・リザなんかよりこっちの絵の方がずっといい!」「この絵には人生がある。神々しいとか、怖ろしいとか、色々と語ることが出来る」ルーブルモナ・リザの向かいにある歴史画?を見て、かれが言い放つ。一方である女の子は「あなたは何も分かっていない。技術的な問題なの」「モナリザの視線はいつもこっちを向いている。この絵にはそれが無い」
 
 トムの最初の一言は、単に若さゆえ、権威あるものを否定しようとする気持ちからだったのかもしれない。パンク!でも彼に魅せられてしまうのは、続けて根拠を色々挙げていくところ。そこには彼の芸術への、また人生への視点があるようで面白い。一方で反対する女の子の言葉は、どこかで聞いたような月並みなモナリザ評だったり、「私は安心や感動を得るの」という個人の心理に関するもので旗色が悪い。

 なんとなく先生が誘導しようとしていたのが、「『それでも』なぜモナ・リザが人を惹きつけるのか」ということだったように思う。実はトムの台詞も、モナリザの権威、有名さがあったからで、逆に名も無い一枚の絵なら、彼はそこまでけなさなかったように思う。しかし上にも書いたように、たとえその権威の幻想だったとしても、女の子が感じた安心や感動が偽者かと言えばそうとも思えない。ベンヤミンを引くなら「礼拝的価値」という言葉だろうか。人々はモナ・リザを見るというより「写真を撮りに来る」レヴィ=ストロースはそれをネイティブ=アメリカンの通過儀礼になぞらえた。「作品そのものを見る」ということ自体が難しい。不可能と言ってもいい。子どもたちの議論はそこにも向かったのかが気になる。

 気づいたのは作品の「良さ」を表す言葉。「感動した」「好き」「美しい」これらをひっくり返すと「何も感じない」「嫌い」「醜い」と、全然批評文には使えそうもない。「酔っ払い二人の会話で芸術批評を行うなんてよくない」と先生がレポートを返しながら言う場面があったけど、むしろそれこそ読みたい、と思ったのは僕だけではないはず。

 実際にアーティストと会話する場面も非常に印象的だった。「どうしてもっと写実的に描かないんですか?」「ピカソは20歳までに全ての手法をマスターしてしまった。それでどうするか?これまでのやり方を繰り返す?彼は自分独自の手法を作り出した。芸術は世界の見方を変えることが出来る。知覚の変化を促すんだ」これは芸術ゼミでも延々と議論し続けてきたこと。知覚の改変、あるいは拡張。ケージの4分33秒によって聴覚や音楽の領域は拡大された。写真、映画がある前とその後では世界の見方が違うことは想像できる。
 でもケストナーの言葉も思い出しちゃう「あの頃、まだ私たちは作家に畏敬を抱いていました。朗読会の後で、作家の肩を叩いてサインを求めるというようなことはしませんでした」もちろん、世界が変わっていることも思うけれど。

 ラスト近くで、ある女の子が、「最初私は絵画を見ても十分楽しめなかったけれど、色々勉強して、今では絵画の本当の良さが分かるようになった」と話す。彼女は教科書的に答えただけかもしれないし、そこには言語化されなかった様々なことがあるのかもしれないけれど、とても論争的な言葉であることも確か。
 煎じ詰めて言えば、「教養は感受性(=美を知覚する能力)を高めるか」ということ。「本当の良さ」ってのも怖いけど、でも怖いっていうのは彼女の「本当の良さ」の幻想を攻撃することにもなる。僕はやはり上で書いた「物語」を答に据えたい。

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 映画を見終わり、まずは追加・補足説明。上に書いたとおり、高校生の授業。しかし小・中学校でもこれに類する美術教育が義務化された、とのこと。目的は日本では中々思いつかなそうなこと「芸術に関するリテラシーの差別の是正」先日フランスの社会学ブルデューについてちょっと勉強したけど、かなり乱暴に言うと「上流階級はクラシックや伝統的・保守的なアートを、下層ではロック音楽と判断しやすいアートを好む。そしてこれは財産と同様に親から子に受け継がれる」という研究結果があるけど、それもあるのかしら。

「感性・感受性」が一つのキーワード。
「感性は教育することは出来ないのではないか?」「必ずしもそうとは言えない。感性と知識は完全には切り離せない」「感性ではなく、芸術を見ることにおいて、様々な選択肢を与える、という意味の教育が行える」「アートを教育することにはどんな意味がある」→「ナショナリティなどではなく、アートであれば国家を超えて、あるいは階級・職業を超えて話し合える、一種の共通言語を手に入れられる」「しかしフランスのこの教育は、そうしたアートそのものというよりフランス人としての教養を育てることが目的」「あるいは学生が考え、自分の意見を練り上げて発表すること」「学んだ内容をよく理解する率を考えた場合、『第三者に向けて発表する』場合に90%身につく、というデータがある」

 「選択肢を与える」ということについては、最近よくワタナベと話す「倫理」やらにつながる気がしている。芸術に関しての態度が、「あなたの感じ方を認める、その代わり私の感じ方も認めて欲しい」だとするなら、批評も芸術もひたすらに鑑賞の自由を増していく。「個人の価値観」の尊重は、尊重というよりむしろ無視、無表情であるということ。芸術が単なる趣味嗜好である、という観点からそれが出てくるのだとしたら、それは当たり前かもしれないけど(料理が例に挙げられるだろう―あなたは辛いものが好き、私は甘いものが好き)それが文化や社会の問題だと考えると、むしろ「政治」が表れてくる。僕らは美に関する妥協点を探していく。刷り合わせ、時に再創造しながら。美を価値観、生き方と言い換えれば、それは政治や経済の大元に存在することになる。一枚の絵が社会へ影響するとは言えないかもしれないが、一枚の絵の良し悪しを評価する態度と、為政者が政策の「良し悪し」を評価する態度は連続していないか、断絶していると本当にいえるのか、というお話。功利主義なら「質的」のシロップを垂らせるし、逆に義務論を辿ればカントは美学の大家。(カントのその辺読んでないけど……orz)

 言語化に関して
「日本人は『なんだか好き』と感じてもそこで止まってしまう。絵にまつわる様々な背景、技法、作者の意図、サインを理解することで、それを根拠づけて説明することが出来る」
 これも芸術ゼミで取り上げた「批評は全く新しい一つの芸術作品となりえる」ということにつながる、あるいは現代アートが(アングラ演劇なんかも)批評≒コンセプト化している、ということも言えるはず。
 僕はむしろ、芸術批評とテクスト分析の接近について考えていた。ドイツでは演劇教育、フランスで美術教育。日本では?少なくとも、文学作品を読んで、それについて「何を言いたいのか」「作者の気持ちは何か」ということをやらされる。色々と批判されることがあるこの手の問題なのだけど、今日の美術を巡る議論に近い点を感じた。「文学と芸術ではことなる。それは表象ではなく『内容そのもの』である。また文学はそのものが文字で批評と同様だから」という点にはそれほど納得してなくて、僕は文学作品が「芸術」になることは全てとは言わないがとてもあることだと感じる。

 一番分かりやすいのはシンデレラなど童話。もし文学が単に内容なのだとしたら、シンデレラは3行でケリが付く。

 ①昔々、継母にいじめられていたシンデレラは、魔女の力を借りてお城のダンスパーティに出席する。
 ②パーティでシンデレラは王子様に見初められるが、12時になると魔法が解けるので慌てて帰る途中、ガラスの靴を落としていく。
 ③靴を頼りに王子様はシンデレラを見つけだし、お后に迎えて二人は幸せに暮らす。

 こうしてみると、物語というのはむしろプロットよりもずっと多くをその語り口に負っているように思える。

 ちょっと脱線したけれど、つまりは文学を「芸術」と捉えるなら、「芸術教育」についての様々な議論を、日本の国語の授業にひきつけて考えられるのではないか、ということ。「点数」の問題はさておき(これが中核という気もするけど)そして、「有用性」の話しをするなら、文学におけるテクスト分析は、無自覚に受け入れていた様々なバイアスに気づかせる、という役割を挙げることは出来る。そこから美術や演劇を教育に取り入れることの有用性を語ることも出来るかもしれない。


 
 慌ててこっそり付け加えておくと、「有用性って、誰にとっての?」 芸術のいいところは「楽しいところ」「感動するところ」それで何が不満なのか?あるいは芸術の最終的な目的が「学校での生徒の生活に正の影響を与える」だったけど、僕はそのもう一つ上に「教師を含めた学校での価値を革命する」を付け加えたい気もする。


 「どのように芸術教育を行っていくか」というよりは、参加者の皆さんはそもそも「教育」というものへの強い懐疑や束縛を自覚していて、「教育とは」ということのコンセンサスを先にとる必要も感じた。「作品に関して誘導的な教育、と言うけれど、そもそも教育それ自体がある価値観への誘導」という意見には頷く一方で、そこから先に進む議論も教育学を読んでいけばたくさん見つかるはずだとも。

 もう一つ思い出すのは、先日のヒカルポンティとの議論。これは尊厳の話であり、資本主義(というより"カネ"の話)芸術を教育することが、単に芸術家の市場を広げるための戦略・広告になってしまわないかというもの。というより"自分が"それを許せるのかということ。恥。そういえば、今日は自分が芸術教育にどのように関わるか、という話は出なかった。これはまた詰めて書く、あるいは作品の中へと昇華させたい。

 ここまで読んでいただいた方、長文お疲れ様でした。振り返るともっと自分の考えに引き寄せればよかった気もします。最近、僕はディスカッションをそれだけで完結させるのではなく、それをまた文字や考えにフィードバックすることの重要さを感じています。自分が書くことにプラットフォームがあるからかもしれませんが。
 いくつかルールを決めてもっと戦略的に出来るといいかもしれないです。引用文献などを意識するとか、内容と自分の意見、その関連度をしっかり分けるとか。自分の中に起こった化学変化を引っ張りだして、もうちょっと反応を続けさせる、そんな風に出来れば嬉しい。