劇団綺畸 「あの日踊りだした田中」感想



あらすじ:既に滅びを迎えた世界。辺境の砂漠地帯で、人々は鉱山から、過去の遺物を発掘して暮らしている。ある日、東京に出て新聞記者になったミズキが町へと帰ってくる。旧友の一人であるノブオがおかしくなり、踊り続けている姿を見たとき、ミズキは自分が書いた「砂漠地帯の砂には毒が含まれている」という記事を思い出す。砂の毒をうったえて精神をすり減らすノブオと、旧世界で世界の滅亡を知らせようと駆け回る学者の絶望が重なって描かれる。次にやってきた二階堂という男の目的は、鉱山町を丸ごと買い取り、住人を他の場所へ移住させようというもの。砂の毒について知らされた住人たちは二階堂の提案に乗ろうとするが、ミズキの言葉とノブオが契約書を破いたことで阻止される。最も守ろうとしていたトモコが、皮肉にもその後町を出て行くことを聞いて、踊り続けているノブオの耳には何も届かないように見えたが、しかし彼の心が少し動いたように見えたところで幕。

『この世の終わりを売って回る奴とは、どうもそりが合わなくてね』 安部公房「方舟さくら丸」

「日本政府が戦争を支持する、と答えた以上、私たち全員が人殺しに加担していると言える。イラクの人民の半数は15歳以下だ。子どもの命を奪う戦争に反対する!」
 2003年の3月、イラク戦争が進行し小泉政権がそれへの賛同を表明した後、僕は渋谷ハチ公前でマイクの前に立って上のような台詞を繰り返していた。スピーチを他のボランティアに交代すると、テレビ局のアナウンサーが「自分の意見をはっきり言ってえらいですね、勇気がありますね」と僕に語り、小さな手で僕の両手を包むように握手をした。ビラを撒いていていると、一人の白人が「No,FUCK!」と吐き捨てるように言って立ち去っていった。街を行く人の無関心さや、また友人たちの「僕は戦争には興味が無いから」と言った言葉があり、急ぎ、苛立ち、また幸せそうな恋人たちにビラを断られ続けていた。
 


 劇中で学者が、人々を呼びとめ、また家々を回って「明日世界が終わるんです」と言う姿、さらにそれに重ねて描かれるノブオの「ここの砂には毒が入っているんだ!」と叫んで回る姿が、当時の自分と痛烈に重なる。

 「砂に含まれた毒」「風聞によって減り続ける観光客」「住民全ての移住」他にも挙げればいくらでも出てくるモチーフは、東日本大震災、とりわけ原発事故の福島を強く思い出させるが、僕は上に書いたイラク戦争にまつわる経験、また劇の中ほどで、人々がダンスのような動きで同時に倒れるシーン(上のダイジェスト動画の0:45辺り)は、映画「tomorrow」の原爆が落ちたシーンをすぐに思い出し、「災厄」といったイメージへと広がっていく。演劇という媒体でこうした社会的なテーマを取り扱うことの意味の一つはこうした点だと確認する。ドキュメンタリーやノンフィクションでは、事象(例えば震災)のリアルな部分により近づけるかもしれないが、演劇の中の物語は偽物で、しかし偽物であるがゆえに、他の出来事とのつながりや、異なる事象と共通して感じ取る点を見つけさせる。そうした意味で、「震災に関するメッセージが弱い」といった批判は当たらないと考える。

 劇中では「真実を伝えさえすれば人は幸せになれるか?」という問いが繰り返される。あるいは「伝えても意味が無い」「単に混乱させるだけなら伝えない方がいい」という考え。旧世界で学者たちに詰め寄る人々が、バーゲンの知らせ、エロ動画についての言葉で駆け出していく様子は、あざとくも見えるが、例えば「思想地図β」にある震災後の「検索キーワード急上昇ランキング」を見ると少なくともネットに関しては笑えなくなる。そこでは3月20日の時点で、ランキング上位のほとんどがエンターテインメント関連のキーワードで埋め尽くされている。

 「知らないで居る自由」といったものを考える。テレビで放射性物質情報が流れるとき。「世界が終わる」ことを知らせないでいること。劇中の記者は「それを知ることで、滅亡の前に冷蔵庫のケーキを食べることが出来る」と話す。学者は「来週水族館に行こうね」と嬉しそうにする家族に、「来週じゃだめなんだ!今週じゃなくちゃ!」と葛藤する。小さいが、最も印象に残ったシーンの一つだった。自己決定が何にも増して勝るのだけど、「情報を得ないこと」についても自己決定がなされる。上で書いたように、イラク反戦の情報に関してはそうだ。しかし放射性物質の情報もそれと違うと言い切れるのかどうか。砂が有毒だという話は、結局確証は取れなかった。ノブオが踊りだしたのは結局砂のせいではなく、「宇宙人」―旧世界の記録からの影響だった。実際はあいまいな「真実」は現状の個人の幸福を傷つけるだけの権利を持たない、という感覚。
 ラスト付近でのミズキが二階堂に対抗する演説「つらいかもしれないけれど、ここで生きていく選択もある」は、内容自体はどこか違和感があるけれど、「知っておいて欲しい」と前置きをして、あらためて個人ではなく町という共同体による意志を回復しようとする行為ともとらえられた。そこでは、真実は個々の自由ではなく共有されるものになる。

 もう一歩踏み込んで追記すると、僕には二階堂というキャラクターが旧時代の携帯電話を用いて、さらに技術力を誇示する様子、対するミズキの言葉には、原発や科学のあり方から違う方向へ舵を切る、という明確なメッセージがあると感じた。合理主義を象徴するような二階堂の契約書を、理性を失ったノブオが引き裂いて食べてしまう、という場面は、一緒に見た人々の中でも色々疑問が出ていたけれど、一応そんな見方も出来ると思う。

 上では「伝えても意味が無い」と書いたが、しかし声が簡単に届く人もいる。それが「子どものいる人間」であり、ラストで町を出て行こうとするトモコとジュンペイだった。この皮肉が何層にも重なったシーンのグロテスクさは、その前のシーンの二階堂への勝利と対比して際立っている。「子ども」にフォーカスすれば上に述べた共同体の早くも最初のほころびとも、ジュンペイを見ればそこからの「いけにえ」としても見える。
 それよりも、僕自身、震災の後、乳児を持つ友人・知り合いが東京を離れて西や外国に向かったことを強く思い起こさせた。一人は僕にも一緒に西へと移住することを強く勧めていた。その時は彼女が単に強い混乱のさなかにあるだけだ、と感じていたけれど、この舞台を見ているうちに、僕への言葉の理由は、彼女の「共同体」の中に僕が含まれていたからだったのではないか、と思い直していた。心が強く震えた。
 ノブオが町の人々に言っていた「出て行け!」は、むしろ「一緒に出て行こう、みんな一緒に」という呼びかけである。トモコとジュンペイの町を去る姿がグロテスクに見えるのは、ここで暮らしていこうという人々の共同の意識に反しているからだと感じる。それはノブオが望んでいたことと行為は同じに見えても意味は反対になってしまっている。そうだとしても、最後の場面でノブオの心は変化を見せる。僕にはそれが断罪ではなく一つの祝福・希望に映った。
 
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 もう一つの印象的だったテーマは、上とも関連するけれど「世界が亡びることが確実なのに、それでも何かを残そうとすることに意味があるのか」という問い。劇中では、「人間が全て亡び去った後、どこかの宇宙人がその記録を見て、意味を見出すか」という問いがあって、この「宇宙人」という言葉がノブオに旧時代のビデオをして「宇宙人との交信」と勘違いさせるキーワードでもある。
 これは荒唐無稽に見えるかもしれないが、僕自身にとっても重要なテーマだ。今の宇宙観では、世界は最終的に熱的死を迎えることになっているが、それによって人間は、芸術は最終的には全ての意味を失うだろうか。その意味は虚無に向かう何兆年という限定的な時間の中の沢山の瞬きのようなものなのか。ゲーム『CROSS†CHANNEL』では世界滅亡後に主人公が一人きりでラジオ放送をする姿が描かれ、また熱的死を魔法によって回避しようとしたのが『まどか☆マギカ』や『スマガ』だったと思う。僕自身、人類滅亡後の地球に宇宙人が現れて、詩集や絵画作品を「感動計測装置」でグレード分けする(もちろんそれは人類の基準とは全く異なる)という短編を構想していた。


 
 記憶、記録を表現、芸術というところまで拡大すれば、これは自分の問題に重なってくる。人類が滅ばなくても、忘れられているもの、否定されつくされたものは既に沢山ある。例えばマルクス主義が失敗だったというコンセンサス。ル=グウィンの「所有せざる人々」は、ある種「宇宙人が意味を見出した」作品だったのかもしれない。

 旧時代の科学者の声を、しかしノブオは違う形で受け止めた。彼の思想や主張ではなく、単なるストレス発散の動きを、一つのおまじないとして継承する。「絶望をローラーで塗りつぶしているんです」意味のある動きが言語化できない踊りへ、と読みかえられる点。絶望からの行為が、外面的には楽しそうな「踊り」へと変化したこと。しかしそれは、ノブオがもはや常に、あらゆるときに絶望を感じ続けている、ということも意味する悲痛な行為でもある。「踊り」は上にも書いたように、契約書を破り捨てる。今書きながら思い出していると、あの単調な踊りが強く心に残っている。意味と動きが強く一体になって、これも舞台ならではの表現になったのだと思う。僕はノブオのあの踊りを、特に背景のないダンスよりも美しいと感じるかもしれない。劇の筋がやがて薄れていっても、あの踊りとそこに込められた意味や思いはずっと覚えているような予感がある。

 他の様々な点についていくつか列挙
・前半で、暗転、場面転換の際に工夫が感じられて良い。演劇というより映画やアドベンチャー・ゲームのようで、あえて不自然な場面で切ったり、始めたり、が想像を膨らませてくれる。照明も、色で場面の表現を変えたり、中央のライト、カンテラを使うなど工夫が良かった。
・音楽の使い方は自然に劇となじんでいる感じがあって好きだった。回想シーンのメロウな感じが良い。
・綺畸は僕の視点からすると4回連続「群像劇」だった。単に人数が多いから?それぞれの人間を丁寧に描いている、という感じはありました。
・パンフレット、また看板の光景をかなり忠実に舞台上に再現していることは相乗効果があってよかった。壊れかけたビルの質感にびっくり。舞台さんすごいです。無理を言えば実際の砂を使ってもよかった。観客にはマスクを手渡し、それも演劇空間を作り出す一つの手段にしてしまう。
・トモコがノブオを拒否したときのシーンもグッと来た。そこでの葛藤があったからこそ、さらに最後の町を出て行くシーンが際立って見えたと感じる。
・後は谷先生の「人生はうまくいかない」の独白も感じるものがあった。
・人物とその内心を分ける、という手法は、以前芸術ゼミで話した、「表現のための新しい手法(例えばチェルフィッチュの動き+モノローグ)」になりうる、とも感じて面白かった反面、ノブオ以外ではそれほど効果的に使われていなかったようにも感じた。逆に言えば、内心と人物の意見が下手をすれば気が付かないほど類似している、というのにはちゃんと意味があったのかもしれない。外面と内面、と単に分けるべきではない?もう一度見たいと思わされる。
・演技は違和感を感じることも無く粒ぞろい。新人公演を見たときから期待はあったけど、違和感は全然感じず安心して見られる。中でもノブオ(内心側=旧時代の科学者)の役者さんの演技は心に残った。

 最後に宣伝:東大芸術ゼミでは7月3日の6:10〜、駒場での三劇団の舞台の合評回を行います。劇を見てさらに話し合い方も、劇団の方も歓迎します。ご予定が合えばぜひお越し下さい。
 東大芸術ゼミホームページ:http://hosi.syuriken.jp/artseminar/index.htm