劇工舎プリズム「からっぽの帝国」感想


 あらすじ:ペコー星はメーデ人との戦争に敗北した後、半植民地化し、現在では独立の気運が高まっている。ペコー人の政治団体がテロ、暴力路線に向かう中、ペコー大学での学生運動も激化に向かっていた。リーダー格のシンジョウの演説に引かれたムラタがグループに加わるところから物語りは始まるが、メーデ人の学生や警察との対立、またスパイがいることの恐れなど、グループは大きな問題を抱えていた。
 メーデ人警察の締め付けが強まり、グループのメンバーでテロリストの娘であるヤマモトが逮捕され、予定されていたデモは中止となる。グループの数名が、彼女と交換するために警察の一人を人質に取ったことで、対立は強まった。またグループ内でも非暴力路線、武装路線で対立が起こる。シンジョウの出自が実はメーデの貴族と明かされ、グループは混乱へと向かう。理想と民族意識とまた個人の復讐が絡み合う中、シンジョウは高らかに「世界を変えるのは認識の変容ではない、世界を変えるのは行動だ!」と叫ぶ。
 結局シンジョウは、自身がメーデに戻ることを条件に、仲間を釈放させる。権力に敵対するところから、今度は自身が権力の中へと入り、そこから変えていくことを選ぶ。一時は崩壊するかと思った学生運動だが、若いメンバーが力をこめて演説を行う背中を見せながら幕。

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 「私の種族は非常に古い種族です。文明を有するようになって一千千年紀経っていますし、歴史も何百千年紀に及びます。その間に、アナーキズムを初めとして、われわれはあらゆるものを試みました。しかし、わたしはまだ試みていません。彼らはどの太陽のもとにも、新しいものは何一つないといいます。しかし一人一人の生命が、個々の生命が新しくないのなら、何故にわれわれはうまれてくるのです?」 ―「所有せざる人々」ル=グウィン
 

 前回の「あの日踊りだした田中」の感想で、僕はこの作品を取り上げて、「ある種「宇宙人が意味を見出した」作品だったのかもしれない。」と書いた。この作品の中の主人公が住むのは、僕らのイメージとは異なるおそらくはクロポトキンタイプ、ソヴィエトの無い共産主義、というような感じのアナキズムの惑星。地球人はそうした体制への「希望を何世紀も前に捨てている」と語る(これは当然共産主義体制の崩壊をさしているのだろう)しかし、地球人よりさらに歴史を持つ宇宙人が、上の台詞を口にして、彼の星へと移り住もうとする。

 「からっぽの帝国」で描かれる「歴史」、それは僕には今挙げたような「生き直す歴史」に映った。「復讐は復讐しか生まない」過去。「戦争はこの星を破壊した」過去。あるいは、「学生運動の失敗」過去。「安田講堂の篭城」過去。そうした過去をしっている。しかし僕ら自身は「まだ試みていない」
 

 もう一つ回り道をしよう。前の学期の「表象文化論」の試験。課題は「ある時代が他の時代に最受容される例」というものだった。例えば中世のイメージが現れること、ナチスジークフリート、イギリスのアーサー王伝説、どちらも第一次大戦と深く関わりがある。僕はこれにドイツの芸術家キーファーを選び、日本の芸術家集団(チンポム)を絡めた。キーファーは未だナチスの傷跡が癒えないドイツで、かつてのナチスドイツの占領地で敬礼(いわゆる『ハイル・ヒットラー』のポーズ)を自ら撮影し、それを写真に収めて発表して大顰蹙を買った。ネオナチであるとみなされた。しかし彼の回答は少なくとも僕には意表をつくものだった。「自分自身が再びそれを経験し、自分の中のナチスに向き合わなくてはならない」彼はまさに戦争の終わり1945年3月に生まれ、自分自身はナチスを見ていないにも関わらず、ドイツ人としてその罪を負って生きてきた。もちろん芸術家としても、ナチスの亡霊への戦いを義務付けられた。芸術という媒体を通して、ナチスの歴史を生き直した、と彼の発言を捉えることが出来る。
 Chim↑Pomは、去年渋谷駅の岡本太郎の壁画を「拡張」したことで有名になったが、2008年、広島上空に飛行機雲で「ピカッ」という文字を描いたことで議論の対象になった。様々な批評が出ているが、僕はこれをキーファーの作品の延長に位置づけて、これもまた「被爆国日本」への実感を得るため、「自ら原爆を落とす」体験を行ったものだとみなして書いた。

「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、一時この放送を中止します」 ―『最後の時計台放送』wiki:今井澄 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E6%BE%84

 東大安田講堂事件の終わりに、この放送が流された。東大で、学生運動をモチーフにした演劇となれば、これを思い出せずにはいられない。学生運動は今も様々に続いている。しかしこの安田講堂の占拠のときのものと現在のそれの間には断絶がある。60年代の「学生運動」と現在の「学生の運動」は連続していると思えない。もはや「歴史」しかし、だからこそ、僕らが知らないものだからこそ生き直すことが可能になる。
 前回、自分がイラク反戦運動に参加したことを書いたが、その中で僕がよく聞いた言葉がある。つまり「最近の若者は闘わない」「もっと若者を沢山集めたい」ジェンダー論の授業にしたがって言えば、彼らは「同志の再生産」に失敗したのだ。僕の知らない世代を持ち出して、つまりは歴史を持ち出して比較されるのだから、僕らは当時の「熱さ」の亡霊に追い立てられる。だから、今回も、他の誰よりも僕がこの舞台を身近に感じたという思いはある。

 「運動」だけでなく、戦争もそうだ。シンジョウの戦争を容認する発言。僕たちは頭で考えれば戦争は無条件に悪いものであるということは当たり前のように分かる。しかし、やはりここでも僕たち自身はそれを試みていない。自分が戦争を心から憎むようになるかどうかは、究極的には「やってみなければわからない」それなのにそれへと反対することだけが求められる。当然実際に「日本の」戦争に参加することは出来ない。そのギャップを埋めるため、キーファーは、(僕の考えではChim↑Pomも)芸術を媒体として用いた。

「個的水準でしか戦いを語れない人間は日和見主義者さ」「個的闘争を個的に戦う」「孤立した精鋭が世界を変える!孤立した精鋭が世界を創る!」 ―若松孝二 天使の恍惚

 また、歴史を描き、歴史に生きようとして、フィクションとノンフィクションの境を越えてしまったのがこの映画だった。「世界を変えるのは認識の変容でなく行動だ」という行動至上の究極の形の一つ。脚本の足立正生は、日本赤軍として後に国際指名手配される。(wikiより) また蜷川幸雄の劇『鴉よ、俺たちは弾丸をこめる』に出演した一人は、劇中「おれは闘う、おれは爆弾を投げる」という台詞を言って、その後実際に爆弾事件を指名手配、逮捕された。(『日本の現代演劇』)
 

 この点から見ると、この劇の役者の一人として、実際の学生運動に関わる、また武装闘争を行うということは無いと感じてしまう。今回の劇で最も感じたむなしさはこの点だった。それとも「からっぽ」というタイトルは、ラストに流れたゆらゆら帝国の「空洞です」という曲は、そのイデオロギーの空洞を示していたのだろうか。そうだとしてもその空虚さが示されることはない。

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 今の「空虚さ」を最も感じたのは、運動のリーダー格のシンジョウが「世界を変えるのは認識ではない、世界を変えるのは行動だ」というその台詞が放たれたとき、それが物語から離れて客席に向かっていた場面だった。繰り返すようだけど、僕はイラク反戦以後も様々な運動にコミットしていて、こうした台詞を現実のものとして聞いていた。目の前で公安警察が怒鳴りつけるのも、参加者が逮捕されていく場面も見ている。しかしそれらはただ空虚なだけのものではなかった。しかしこの舞台では、まさにその言葉が「認識の変化」を客席に訴えているように響いてしまったことが悲しい。あの台詞の強烈な放たれ方を見ると、この脚本がそれを考えた上で、意図を持ってそうしたことは疑いようはない。それでも僕にはそれはひたすら空虚な皮肉にしか聞こえなかった。
 
 今回の舞台で唯一楽しめたと感じたのは、クライマックスでの言い争いの場面。カタストロフィと呼んでもいい。非暴力直接行動から武装闘争への移行、そしてシンジョウが実は敵対するメーデ人の、それも貴族だったことが明かされるその3段階で、人々が自分の意見を「われわれ」つまり運動体と個人的な感情(「復讐!それの何が悪い!」)を行き来させるシーンだ。ここでは単純に個人間の見解がポリフォニー=全く相容れないイデオロギーを持ちながら一種調和していること―だけでなく、新しい事実が明かされると共に立ち居地を変えていく、個人内でのポリフォニーも設定され、複雑な立場が示されている。それでも混乱しないのが、絶叫するような台詞の中で立場や思想よりもむしろそれらを発生する肉体が、感情の噴出が問題になっているからだと思う。これは演劇でなければ決して出来ない表現だと思う。

 だからこそ甘さも感じる。感想の枠を飛び越えて意見を言うなら、僕ならこのシーンを役者自身のイデオロギーを戦わせる場所にする。個人的な見解を突き詰めさせて、台本を書かず、思想を怒鳴り合わせる。上に書いた認識・行動の問題を解決するためにメタの台詞を入れるだろう、「ここでこうして、駒場小劇場の上で、演劇をしていることじたい、認識の変容を促すだけではないのか?」客席に向けて行動を促す。それこそ暴力的に、マイクを客に突きつけて選択を迫る。そうでなければ全く逆に、「認識と行動」の台詞は全て物語りの層に回収させただろう。そして現代ではきっとそうせざるを得ない。役者たちの誰一人武装闘争を支持しないだろう。
「この大学での運動に意味はあるのでしょうか?」
「今、この舞台の上で『この大学での運動に意味はあるのでしょうか?』と問うことに意味はあるのでしょうか?」

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 台詞ももっと工夫が欲しかった。 若松孝二の「赤軍-PFLP・世界戦争宣言」なんかを見ると、そこには非常に独特な言葉遣い、単語が使われているのが分かる。「総括」「自己批判」「連帯」「団結」上の「個的闘争」「孤立」といったもの、また「異議なし!」「ナンセンス!」などの呼応の言葉。これらをそのままに遣うのではないにしろ、一つの言語形態を用いれば風景を立ち上らせることも出来る。警察側と異なる語調、文法を用いることでそれらが混ざり合わないことも明確に出来ただろう。さらには演劇の言葉ではなく、それぞれの人物の訛り、どもりなどを強調してもよい。これはむしろ自分がやるなら、というアイディアをもらえた。

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 付け加えたいのが、今回の劇は客席を笑わせないだけでなく、舞台に登っている役者の誰一人が笑いを浮かべていないことだった。「三里塚幻野祭」という活動家たちのイベントのビデオがあるが、そこでは強烈な思想の論争もあるし、それよりも人々が笑い、喜び、生き生きとしている様子が分かる。東大安田講堂事件のその中にいた人に話を聞いたことがあるけど、「あしたのジョー」をみんなで回し読みしていたことを教えてくれた。そこでは個人の笑いや喜びが、あるいは性も、ダイレクトに思想に結びついている部分があったのだと感じられる。劇中のような、理念と謗りと不審のイメージだけでは決してない。

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・役者の演技、台詞と動きも含めたその技量不足は、言わずとも客席の反応で舞台にいる人が一番強く感じただろうと思う。友人の「内面を生きていない」また「肩から上だけで演技をしている」という言葉が記憶に残った。ある演出家は、戦争を描くために「実際の装備と同じ重さのリュックを背負わせ、重い銃を持たせて稽古する」ことを通し、演技の体の動きに近づけていたらしい。この舞台ならヘルメットと角材とマスクだろうか。むしろ、同じように舞台に立っているのに、この劇と他の劇との差は何か、ということも考えさせられた。台詞自体も単調で、予想出来ない文章が全く出てこない。それが狙いなのだろうと深読みして(タイトルからして、やはりその意図はあったと思うけど)いたけれど、うまい回収が行われているとは思えなかった。
 
・オープニングの照明は、目潰しライトから暗く、また明るく、と繰り返されることで、瞳孔がどうなったのか分からないけれど、「明るさ」が混乱させられ、今まであまりなったことの無い感じを味あわせてくれた。ちょっと目に悪そうだけど。舞台を斜めに四角く切り取る、などの工夫も良かった。

・映像とオープニングの演出はそこそこ良くできていたと思うし、一緒に行った友人たちも褒めてたけど、僕からすれば悪いとは思わないけど普通に感じる。12年前に僕の友人(当時高校を卒業したばかり)がよほど上手いやり方で映像を劇中に用いていたからだ。

・舞台美術は雰囲気を伝えている点では及第だと思うけど、SFという設定にしては古い大学の教室という固定化したイメージを脱してないと思うし、実際の劇の中で活かしきれていないように感じた。しかし演説台のテラス?を背中から捉える、という構図は、絵としても、メタファーとしても色々面白い。

・衣装はモスグリーンと赤のワンポイント、ブーツは統一して形態は散らばらせる、というもの。見て楽しめるのはそうなんだけど、正直に言えばどこでもやってて見慣れちゃった、というのはある。それよりも小道具のお粗末さ、特に携帯電話とピストルのチープさには萎えてしまった。舞台も含め、ナウシカとは言わないけれど異星のようわからんデザインを構築する、くらいの気持ちでも良かったのではないか。

・「空洞です」も確かにだけど「からっぽの町」でもよかったよね、ゆらゆら帝国

・去年のプリズムの公演は二回とも、その次は何が起きるか、を楽しみにさせてくれる舞台だった。今回の舞台はただただ次回公演への不安ばかり。それをぶっ飛ばすようなものを見せて欲しいです。