屋根裏展望台『反復する三角形』

○あらすじ:祖母・母・娘の日常と、いくつかの出来事が語られる。断片的なシーンは、繰り返され、組み替えられ、また話が付け加わるときがある。まるで音楽がAメローBメローAメロ―サビ……というように展開していくようでもある。食卓を囲み肉じゃがを食べる、というある場面を軸にしながら、段々と過去や少し未来についてもいくつかの場面が語られる。離婚した母、アルバイトを始めた娘、おそらくは近くに、一人で離れて暮らしている祖母の家に、娘が家出をすることもあった。祖母はすでに夫をなくしており、母は夫と離婚している。女三人、三世代の話。いくつかは日常の一こまだが、「仕事はじめ」であったり「家出」であったり、単に日常というよりは、ある一区切りとなるような場面も選ばれている。また、十数年前、母のお腹の中に娘がいた頃のこと、また祖父の葬式で祖母と母がケンカしたこと、あるいは少し未来だろうか、祖母がボケ始める場面も語られる。こうした「肉じゃが」のシーンから遠い場面は、1度きりしか演じられず、反復されていないように思う。あるいは、より日常的な、何度でも繰り返されているような場面がより反復される、というようにも見える。いくつかの「ヤマ」とも言える重要な場面を通過し、また「肉じゃが」のシーンが繰り返されて終わる。蛇足だろうが、構成としてはバッハの「ゴルドベルク」のような変奏曲のイメージが浮かんだ。

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○家族
 思い返しても、駒場が中心になるが他の劇団でも、「家族」を扱った劇が本当に少ないということに驚かされる。劇団ふつつかもの「死してなお」くらいか。自分にも90になる祖母がいるため、まずそのこと、自分と祖母の関係について色々考えさせられる。劇を見て「感じた」のはそうした自分の記憶との関連、そして「考えた」ことの一番は、そうした『「家族」というテーマを描くこと』
 家族を描くというのは、簡単なようで難しく、あるいは難しいようで簡単にも思える。ほとんどの人が家族と暮らしているのに、それぞれの家族は全然似ていない。この劇の中では「母」は離婚し、「祖父」は亡くなっているため、女三人、三世代の家族(住んでいる場所は違うけれど)が描かれていて、家族の形式も色々と変わっていっていることもある。こうしてみると、むしろ学校の方が類型化するのが簡単なようにも思える。ルールはずっと詳しく、教師が出てきて生徒に教えるというのもルーティン、生徒達の内面はともかく、行動やコミュニケーションも類型が作れる。しかし家族においては、それぞれでルールが全く異なる。60年代くらいなら「典型的な家族」が描けたのかもしれないが、それはもう本当に難しくなっている。
  
 そんなわけで、家族というのは誰もがそこで生活しているのにも関わらず、「誰もが自分をそこに映し出せる家族劇」というのはとても難しくなってるように見える。

 どちらかといえば、この劇で「家族」を感じるポイントと言えば、「母」がかつて「娘」だった、ということを描いている点だった。「娘」が「母」のお腹の中にいるころや、「娘」の始めたアルバイトが、「母」の働き始めた頃と対比される。「母」が仕事について「やっていけそうね」と声を弾ませるシーンは印象的だった。

 三人の「距離」の描き方が良くて、ここから「愛」と呼べるようなものが見えたことが、僕がこの劇を好きだと思った理由だと思う。「家族愛」なんて言葉は、もはやカッコをつけないと使えないような陳腐な響きだけど、お互いの距離が近くて居心地がいいような感じ、相手を頼れる気持ちであったり、世話を焼くという行動……もちろんそれがうるさくも感じるのだけど、そこにも単に義務だけでない気持ちがある。「好き」というまでに形を取らない、あるいは「かわいい、いとしい」と思うような。そして、それは時間と共に残酷なまでにほつれ、擦り切れていく。ここで急いで言いたいのは、それが残酷であることが言いたいのなら、反復もさせず、時系列通りにやれば良かったのだということ、そしてそうはされていなかったということ。
 
 「祖母」がボケ初めたとき、そんな「祖母」を「娘」が「つまんなくなったね」と言うとき。または声を弾ませて「やっていけそうよ」と言った、お腹の子供を幸せそうになでていた「母」が「娘」に怒鳴り、小言ばかりを言うようになったとき、かつてはそこにあったはずの「愛」が擦り切れているようで苦い気持ちにさせられる。しかし繰り返す用だけど僕はそこに「どんな愛でも薄れ失われる」とか、「やがて娘も母のように怒りっぽくなる」とか、そんなシニカルなメッセージは受け取らない。そうした苦いシーンのすぐ後に、また輝くようなシーンが訪れ、「愛」は「復活」する。何度でも。

 自分の家族に対しては絶対に考えない(意識的に考えようとしていないのかも)、「父や母にも、そして祖父や祖母にも青春があった」という当たり前のことを、やっぱりなんだかきまずくてたまらないので深くは考えないんだけど、でも目を向けさせられそうになる。そんなむずがゆい気持ちにもさせられる。

 そうかと言って、それで家族への対応が変わると言えばそんなことはなくて、母の青春時代の可憐さ(そんなもんねーよ!)を知ったところで、小言を言われれば苛だたしくて仕方がない。否定してばっかりに聞こえるけれど、そうした「誰にでも素晴らしい頃があったから優しくしようね」というメッセージもまた、受け取らなかった。娘の無邪気な喜ぶ顔や、母のあの「やっていけそうね」のシーンの輝きが瞬いて、ちょっと泣きそうになる。そして段々と、最初は何でもなかった「肉じゃが」を巡るシーンにも、全てのセリフを覚えてしまって、次に来る言葉が頭に浮かべながら、次第にその後ろにはやはり同じような「愛」が込められているように思えてくる……やっぱり「愛」という言葉はちょっとおかしかったかな。
 
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○会話
 他に面白いと思ったのが、この劇が徹頭徹尾「会話」だけで成り立っていること。独白は一つも存在しない。
 二人、例えば祖母と娘が会話しているときに、舞台ではもう一人、ここでは母がこの二人を見ている。これはもちろん本来ならばありえないことで、母が不在だから二人は母について色々語れるのだけど、舞台上ではやっぱり母はその会話をじっと見て、様々な表情を浮かべている。その視線は色々なことを語っているようで「ひとりごと」が今にも聞こえてきそうな気がした。