劇団ハーベイ・スランフェンバーガーのみる夢 海のプチ公演 「竜送りの夜に」

 冒頭、「……というところからこの話は始まるんですけど」
 出演者が客に向かって物語を語る、という形式に関しては、チェルフィッチュがオリジナルということはないのだろうけど、このフレーズを言われると「真似」にしか聞こえなくなってしまう。とはいえ、「物語る」という形式・方法はこの舞台とがっちりと噛みあい、必然の方法だと感じたし、言葉の選び方や役者のセリフのリズム、また空間が狭いこともうまく作用していた。


 五月祭で見た劇団「ここに顔」の「目視録」について前に書いた →http://d.hatena.ne.jp/donkeys-ears/20120520/1337499159 このときもチェルフィッチュに連なる方法が使われていて「劇を見ながら、僕は今立ち上がって何か言葉を言ったらそのまま劇に参加できるだろうな、と感じた」と書いた。しかし、「ここに顔」では、舞台と客席を切り離す方法も使われていたと感じる、一番は壁に映し出されるプロジェクターの映像。これによって、演劇でありながら映画のようにも感じた。
 『この劇は「舞台と観客の間に新しい境界線を引こうとしている」』とも書いた。形式面では近づけ、内容をどこまでも個人的な語りに還元することで境界線を引く。これはチェルフィッチュにもつながるのかもしれない。
 また、「目視録」では、劇の大方は部屋の角、客席からそこそこ離れた位置で行われていた。物理的な距離もあった。


 今回の「竜送りの夜」では、この「切り離す」方法は少なく、むしろ客の目の前、手を伸ばせば干渉出来そうな距離まで役者が近づいてきて、何度か視線が会う、ということまで起きる。語られる言葉は「……というわけなんですよ」という呼びかけの形式。繰り返されることで、僕はこれまでの観劇ではなったことのない初めての状態に引き込まれる。舞台に「参加している」という強烈な感覚。よくライブなんかでは「客席との一体感」が重要だ、ということが言われる。しかしそれとは質が違うようにも思う。「立ち上がって何か言えそう」というだけでなく、実際に自分の視線や呼吸が役者に直接的に影響しそうに感じる。ライブでの「一体感」があくまで「感」がつくのに対し、ここでは客席と役者の「一体」にまで近づいている。椅子に座り、何もセリフを与えられていないが、もはや一人の役者であるように感じ始めてしまう。客席と舞台の形式もそれを意識しているように感じた。劇の開始時、役者は客と同様に壁に面した椅子に座っていて、椅子が木製であること以外では区別がつかない。
 

 舞台と言うより「ワークショップ」への参加。距離の近さ、密閉空間、そして何より「物語る」という形式。そこで語られた物語は魅力的だったし、自分でも好きな部類だったと思う。母から子供へ伝える伝説、川にすむという竜。セリフにも雰囲気が出ていた。しかしそれらの物語はあまり印象に残っていない。クライマックスで様々なセリフをリフレインしながら繋げる、という方法も非常に上手いとも思った。しかし、僕の頭に残っているものといえば、これらよりもずっと母と娘の言い争いの場面、すれ違いの場面の苦さである。


 「母と娘」が、2世代に渡って傷つけ会い、怒鳴りあい、時に無視をし、呪詛を投げつける。これらのシーンは、実際様々な形で回収が行われるのだけれど、僕には、おそらくは先ほど書いた「客席との一体」が進んだせいだろう、「演劇の中の出来事」として受け取れなくなっていた。その結果、まるで目の前で実際に救いようの無い親子喧嘩―言葉で殴りあう虐待のようなそれ―を見ているような気分にさせられた。胸がムカムカして、動悸もして、それが劇の終わった後まで収まらなかった。そのせいでクライマックスの印象も薄い。可能だったら途中で席を立っていたと思う。あるいは「いいかげんにしろ」と止めに入ったかもしれない。それが出来ない、ということが実際には客と役者は一体になってないことの証明だったのかもしれないけれど。


 言い争いのシーンによって感じた「気分の悪さ」が胸を埋め尽くして、他のシーンに感じた印象は吹き飛んでしまった。この劇を映像で見ていたら、モニタを通して客観的になれた……「劇」としてみることが出来たため、そうはならなかったと思う。当然、劇がそうした言い争いを見せて客を嫌な気分にさせるのが目的だったとは考えていない。もし舞台がもう少し高い位置にあったら、客席が遠かったら、感じていなかったのかもしれない。僕以外の客の印象はかなり違うものかもしれない。少なくとも言えそうなのは、そうして、「主体的に近づきすぎてしまう」恐れのある舞台だった、ということだけだ。


 いつもは戯曲/ストーリーについてよく話していたけれど、今回は本当に演出の方法、身体に感じる部分ばかりになってしまった。かなりけなしているような文章に見えるかもしれないけれど、むしろこれはすごい完成度だったから、演出と演技が強力に作用したからこそ、こちらに強烈な感情を引き起こしたのだと思う。その点に関しては大成功だったと感じる。上に書いたが、物語る形式も、その内容も好きだし、映像として見たら、あるいは脚本を読ませてもらったら楽しんだと思う。それでもやはり、僕は自分の感じた不快さの復讐をしたくてこの文章を書いているのかもしれない。舞台側に客を近づけ、苦しめたのなら、そうした感情的な反撃も正当になるだろうか。最後に劇の感想を一文にして述べることでそれを果たそうと思う。
「面白いストーリーと演出で、客席と舞台が一体になったと感じるほどに引き込まれて、最低に気分を悪くさせられた舞台だった」